皆さま

 

そろそろ頃合いだと判断したので、以前から準備していた記事を投稿します。

 

当ブログでは、<意識>を起点にした世界観を提案しています。私たちの考える世界観についてはすでに何度も触れてきていますが、ご存じない方はブログを始めて間もない頃に投稿した記事をご覧下さい。

 

 

 

 

当ブログの基本的な方針として、意識拡張に関わる多様な現象を扱うことが目的になっていて、これまでに書いてきた記事はこの方針に沿っているものばかりです。

 

1ミリたりともこの方針は最初からブレてはいません。(バラバラなテーマを書いているように見えて同じ原理原則の異なる現れ方を取り上げています)

 

そこで、今回は再確認の意味で当ブログのコアとなる「意識拡張モデル」について踏み込んだ説明を加えます。

 

かなり専門的な内容を含みますが、これは霊性(スピリチュアリティ)に関する基本的なお約束にかかわる事柄なので、ご一読下されば幸いに存じます。

 

 

意識拡張モデルの基本的前提

前提1.日常的な個の意識を超える体験が、すべて「素晴らしいもの」という前提には立たない。何でもとにかく「個を超えてしまうことがいいのだ」という立場は、とらない。個を超える領域には、ポジティブ・ネガティブの双方が存在しうるということを前提に、それを可能な限りありのままに記述することを目的とする。物事には表と裏、光と影、陰と陽がある。

前提2.個を超える領域の意識地図を、経験データに基づいてできるだけ詳細に記述する。既成観念による価値判断は否定する。つまり、データによって反証されない限り、どのような可能性に対してもオープンな態度をとり、「それはありえない」という発言は禁止される。(例:「物質化などということはありえない。」は、確証されていないことに既成概念で予断を与える類の言説であり許容されない)

前提3.この意識地図は、「人間の意識の可能性の範囲」をニュートラルな立場で確定するという目的のものである。それは、ある方向に他人を方向づけるような意図は持たない。つまり、「悟りをめざして努力すべきだ」というような価値観の押しつけは行わない。ただし、「こうした意識水準に達すると、言いようもない至福が感じられる」「他人を深く配慮することができるようになる」などということは、一つの心理的な事実として確定しうることであり、それを事実として提示することはある。しかし、それにどのような個人的価値評価を行おうとも自由である。自分がそれに肯定的な価値評価をしないからといって、そのような探求の価値そのものを否定する発言は許容されない。


この前提に基づいて、以下に示すような命題が導かれます。

 


1.意識の「拡大」という現象は存在しうる。

2.「進化」という日本語は多くの誤解を与えることを考慮し、「意識の進化」ではなく「意識の拡大」と呼ぶ方が適切である。

3.意識の拡大とは、明確な自己の意識を有する覚醒状態のもとに存在しうる世界領域が拡大することを言う。(自我段階の自己意識とは同一ではない)

4.意識の拡大には、古来より明確なバリアーが存在することが知られており、これが「次元性」という考え方を生む。

5.意識の諸次元は、上下に重なる「積層型」というよりも、いわば「入れ子型」であり、殻が何重にもなっている、言ってみればラッキョウ型の構造になっている。

6.意識の拡大に伴って、「現実と非現実の境界」および「意識と無意識の境界」は変動する。つまり、それまでは「向こう側」であったものが「こちら側」になる。見ていなかったものが見えるようになる。

7.意識の拡大とは、ある段階への排他的な同一化 (exclusive identification)が破れ、それを包むさらに広い領域へと同一化する水準が変化することを言う。この場合、失われるのは排他的な同一化であって、前の世界そのものは何一つ失われない。知覚された世界AからBに変わるのではなく、AからA+Bになるということである。A+Bの次元にいる人間にとっては、AもBも日常世界の一部になる。

8.ただし、次元の移行に際しては、一時的に混乱が起き、日常性の感覚を失うことがあり、適切な指導が得られない場合、それが長期化することもあり得る。

9.一時的に他次元の風景を知覚する経験はいつでも起こりうる。しかしこのこと自体は、意識の永続的な変化ではない。意識の拡大とは、A+Bの水準において安定し、それが完全に日常性の一部となっていることである。

10.意識の拡大が究極に達し、全宇宙領域をカバーする至った場合を、完全な覚醒と呼ぶ。この場合、全宇宙が自己そのものであると意識されるはずである。宇宙には自己以外は存在しなくなる。

11.明確な自己の統御の範囲を超えて他次元の経験が意識領野に流入することは、意識の拡大ではなく「広義の精神疾患」である。ただし先に述べた次元移行の際に一時的にこの状態になることがあり、これが「霊的危機」(Spiritual Emergency)と呼ばれるものである。

 

 

このような考察をもとにして、当ブログでは意識領域についての「地図」を提案しました。このような考察は、世界中の宗教的伝統の中に見られる神秘思想、密教、シャーマンの秘術、また東西の哲学、心理学および心身技法(ヨーガや禅、気功、山林修行など)に見られる世界観に基づいています。

 

 

意識の全体階層

0.究極……いかなる限定をも解除された状態なので、すべての枠の外ということになる。つまり、全ての次元性の外側にある。ここでは自己が宇宙のいっさいものと同一化し、万物との融合が生じる。物質と意識の区別がない状態。時間と空間の概念さえも超越した状態。宇宙が自分そのものと自覚されるであろう状態。

 

1.神我の次元(プルシャ次元):(純粋意識)…インドのヨーガ思想の用語法を借りた概念である。プルシャはヨーガ哲学における純粋意識であるとされ、ヨーガの実践によって到達されるとされる意識状態である。魂、神我と訳される言葉。プルシャには何の限界も制限もない。プルシャは宇宙の内なる意識と宇宙を超えた意識とを包含する。「全宇宙はプルシャによって満たされている。それにまさるものはなく、それにとって自らと異なるものはなく、それより大なるものも小なるものもない。それは木のごとくひとり不動に立ち、みずからの栄光のなかで揺るがない。」

 

2. 元因意識の次元(コーザル次元):(魂)・・・神仏意識の概念。普遍的、集合的意識。完全なる物心相関現象が起こる。トランスパーソナルな自己、神仏意識との高い統合性が生じる。二分法の超越に向かう意識場。愛(個人的な愛欲;肉欲)というよりも慈悲、光輝を根本とする。この領野に拡張した意識はカルマ的世界を経験する。カルマ的世界というのは、仏教の三界という思想にならったもの。三界とは、欲界・色界・無色界のことで、自我=物質領域、アストラル次元、コーザル次元を包含するものと見られる。

3. 微細意識の次元(アストラル次元):(霊)・・・超心理学で研究されている意識と物質の相互作用が生じる意識次元であり、ESPやPKによる変則的な情報伝達の起こる意識次元である。感情、情念、執念によって形成され、霊的、サイキックな干渉を起こす意識場。心霊現象、超常現象の源泉となる意識場。神仏意識との媒介者としての眷属、動物霊、スピリット・ガイドとのコンタクトが生じる。中心となる感情の種類の違いによって上位微細意識と下位微細意識とに分かれる。

3-a上位微細意識……知性、肯定的感情、至福感、愛に向かおうとする志向性とこれに対する嫌悪、愛を巡る激烈な葛藤。完全な自己超越の直前の苦しみ。

3-b下位微細意識……自己保存的欲求、怒り、憎しみ、フラストレーション、呪い。

4. 「気」の次元:(身体心;エーテル体)・・・気の次元は、自我領域とアストラル次元との境界面に位置する。身体機能と連動しており、意念、情念によって形成される気の意識場。微細意識場と身体機能の中継回路として作用する。遠隔催眠、テレパシーによる意識の干渉も含まれる。内蔵系など自律神経系の身体機能に対する念力、呪詛呪術。非物質的生命の存在。

5. 自己実現の次元:(人格)・・・個人の人格の完成。日常世界で自分の能力や可能性を最大限に開発し、これを達成できている状態。至高体験、プラトー体験、瞬間的な神秘体験の始まり。自己責任、自己受容ができており、自律した個人として生きる。それと同時に他者との協調性、共感性、利他性を実感している。

至高体験とは、純粋意識と前提とするトランスパーソナル・セルフとの接触の経験である。
・この次元は、精神統合理論(プシコシンテジ)などの技法によっても到達可能である。
・いわゆるマインドフルネス系統の瞑想法は、この純粋意識を培養するための優れた方法である。
・この段階の経験を「悟り」と考えている人も多いが、実際にはまだまだ先がある。

6. 通常意識の次元(自我)・・・個人の通常感覚,思考など自覚の中心。自我意識。注意の焦点が拡張することによって、上の意識場との感応も認識されるようになる。また、自覚を伴わないが、機械的、反射的行動、コンプレックスに基づく自動的言動も含まれる。

 

下の図は、コーザル次元までの意識拡張のイメージを示す。プルシャ、究極はさらに外側に拡がっている次元として、その図の枠の外に位置する。

 

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脱物質主義的科学の観点について

 

脱物質主義科学(Post-materialist science)とは、伝統的な物質主義的な考え方に挑戦し、心理学や神経科学、量子物理学などの領域で精神的な側面や意識の本質を探求する試みです。これは、科学的な手法や方法を用いて、物質的なものだけでなく、精神的な経験や意識の状態を理解することを目指しています。

脱物質主義科学のアプローチは、従来の物質主義的な科学の枠組みを超えて、意識や精神現象に焦点を当てることで、より包括的な理解を目指しています。これには、瞑想やマインドフルネスなどの実践を科学的に研究し、意識の本質やその変容に関する洞察を提供する試みも含まれます。

物質主義は、物質の存在とその相互作用が現実のすべての側面を説明できるという考え方です。しかし、脱物質主義科学の立場では、意識や精神、主観的経験などの非物質的な側面も考慮する必要があるとします。


(1)現代の科学的世界観は、主に古典物理学に密接に関連する仮定に基づいています。唯物論──物質だけが現実(リアリティ)であるという考え──は、これらの仮定の1つです。

 

これに関連する仮定の1つは還元主義であり、複雑なものはそれらの部分の相互作用に還元するか、または微小な物質粒子のようなより単純または基本的なものに還元することで理解できるという考え方です。

 

(2)19世紀には、これらの仮定が狭まり、教条化され、科学的唯物論として知られるようになりました。

 

この信念体系は、「こころ」(mind)は脳の物理的な活動に過ぎず、私たちの思考が私たちの脳や身体、行動、物理世界にどんな影響も与えないということを示唆しています。

科学的唯物論のイデオロギーは、20世紀に学界で支配的になりました。それほど支配的になったため、多くの科学者がそれが確立された経験的証拠に基づいており、世界の唯一の合理的な見方を代表していると信じるようになりました。

(3)物質主義的哲学に基づく科学的手法は、自然を理解するだけでなく、技術の進歩を通じてより大きな制御と自由をもたらす点で非常に成功しています。

しかし、学術界における物質主義のほぼ絶対的な支配は、科学を制約し、「こころ」と霊性の科学的研究の発展を妨げています。このイデオロギーへの過度の信頼は、人間の経験の主観的な側面を無視することにつながりました。これにより、私たち自身と私たちの自然の中での位置について、非常に歪んだ理解が生まれました。

科学はまず何よりも、現象の観察、実験的調査、そして理論的説明を通じて自然に関する知識を獲得するための非教条的でオープンな方法です。その方法論は唯物論と同義ではなく、特定の信念、教義、またはイデオロギーに委ねられるべきではありません。

(4)心理学の研究は、意識的な精神活動が行動との間に因果関係を持つこと、そして信念、目標、欲望、期待などの要因の価値が非常に高いことを示しています。さらに、心身免疫学の研究では、私たちの思考や感情が脳に関連する生理学的システム(免疫、内分泌、心臓血管など)の活動に大きく影響することを示しています。また、感情の自己調整、精神療法、およびプラシーボ効果の研究は、精神的な出来事が脳の活動に重大な影響を与えることを示しています。

(5)いわゆる「サイ現象」の研究は、時には通常の感覚を使わずに意味のある情報を受け取ることができ、習慣的な時間や空間の制約を超える方法でそれが行われることを示しています。さらに、サイの研究は、遠隔地で物理的な装置や生物(他の人間を含む)を精神的に影響を与えることができることを示しています。

また、サイの研究は、遠隔の心が非局所的に相関して行動することがあることを示しています。つまり、遠隔の心の間の相関関係は、媒介されていない(既知のエネルギや信号とは関連していない)、軽減されていない(距離が増しても劣化しない)、および即時的(同時に見える)と仮定されています。

これらの出来事は非常に一般的であり、異常と見なすことも自然法則の例外と見なすこともできず、むしろ唯物論に基づいた説明枠組みだけでは説明できないより広範な説明枠組みのが必要であることを指摘しています。

(6)心停止(これが「臨死体験」と呼ばれるもの)には、意識的な精神活動が経験されることがあります。一部の臨死体験者(NDErs)は、心停止中に発生した現実と一致することが証明された超自然的な外界の知覚を報告しています。NDErsはまた、心停止によって引き起こされる死に際の体験中に深い霊的な経験を報告しています。心停止後、脳の電気活動が数秒で停止することが注目される事実です。

(7)実験室での制御された実験は、霊媒(物理的に死亡した人々の心とコミュニケーションを取ることができると主張する人々)が、時には死者に関する非常に正確な情報を得ることができることを示しています。これは、心が脳から独立して存在する可能性をさらに支持する結論を裏付けています。

物質主義的傾向のある一部の科学者や哲学者は、これらの現象を認めようとしないことがあります。なぜなら、それらは彼らの世界観と一致しないからです。

自然の後物質主義的探求を拒否すること、または後物質主義的枠組みを支持する強力な科学的発見を公表することを拒否することは、真の科学的探求の精神とは対照的です。

 

それは、経験的データを常に適切に取り扱うべきであるというものです。好ましい理論や信念に合わないデータは、あらかじめ無視されるべきではありません。そのような拒否はイデオロギーの領域であり、科学ではありません。

物質主義の視点で見ると、サイ現象、心停止時の死に際の体験、および信頼できる研究霊媒からの再現可能な証拠は、異常に見えることが重要です。

さらに、物質主義の理論は脳が心をどのように生成するかを明らかにせず、またここであげているような経験的データを説明することができていません。


 

以上の議論から、脱物質主義科学ではこころと物質の関係について次のようにとらえます。

(1)「こころ」(mind)は物理世界と同じくらい根源的なリアリティの一側面を表します。「こころ」は宇宙において基本的であり、つまり、物質から発生したり、より基本的な何かに還元されたりすることはありません。

(2)「こころ」と物理世界との間には深い相互関係があります。

(3)すなわち、「こころ」(意志/意図)は物理世界の状態に影響を与え、非局所的(または拡張された)方法で作用します。つまり、脳や身体などの特定の空間や現在のような特定の時間に限定されることはありません。心が物理世界に非局所的に影響を与える可能性があるため、実験者の意図、感情、欲望は、制御された実験設計でも完全に孤立していない可能性があります。

(4)「こころ」には明らかに限界がなく、すべての個々の単一の心を含む統一された「ひとつの心」と示唆される方法で結合される可能性があります。

(5)心停止中の臨死体験は、脳が精神活動の送受信機として機能することを示唆しています。つまり、心は脳を通じて作用することができますが、脳から生み出されるわけではありません。心停止中の死に際の体験と、霊媒研究からの証拠が結び付けられることで、肉体の死後の意識の存続と、非物質的な他のレベルの現実の存在がさらに示唆されます。

(6)研究者は、霊性や霊的な経験を調査することを避けるべきではありません。なぜなら、それらは人間存在の中心的な側面を表しているからです。

 

脱物質主義科学は、これまでの経験的観察や科学的成果の価値を拒絶しません。それは、自然の驚異をよりよく理解するための人間の能力を拡大し、その過程で心と精神の重要性を再発見し、それらが宇宙の核となる要素の一部であることを見出そうとします。

しかし、このようなアプローチは、私たち人間についてのビジョンを根本的に変えるものです。

 

このパラダイムは、思いやり、尊厳、平和などの価値観を積極的に促進します。

 

また、このパラダイムは、私たち自身と自然全体との深いつながりを強調することで、環境意識の向上と生物圏の保護も促進します。

 

さらに、脱物質主義を理解することにより、健康とウェルネス、幸福(Well-Being)の礎となる可能性があること、また、古代の心身技法の実践、宗教的伝統、黙想や瞑想的アプローチで受け継がれてきたことを私たちは再認識できます。

このような世界観は、いまだに主流にも正統にもなっていないものかもしれませんが、かつて天動説が地動説に取って代わられたときと同じくらいのポテンシャルを秘めているものと私たちは考えています。

 

モノの見方を一つ変えるだけで、世界の見え方も大きく変わります。一種の教義になり、イデオロギーになってしまった科学的唯物論の限界を超えるためのアプローチとして、私たち一族は引き続き霊性に関する多様な現象についての探求を深めて行きたいと考えています。

 

参考情報源

 

 

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