皆さま

 

これまでの記事で、いわゆるニューエイジ運動(日本におけるスピリチュアル)の源流が、19世紀の欧米で流行した新しい霊性文化と関連していることを指摘しました。それは言葉を換え、焼き直しされながら、今のスピリチュアルにも受け継がれています。


たとえば、19世紀初頭には、スピリチュアリズムと呼ばれる霊的な現象に焦点を当てた運動が興りました。これには超自然的な体験や霊媒などが含まれ、人々はこれを通じて霊的な次元と交流しようとしました。

 

また、19世紀には、オカルティズムや神秘主義が隆盛を極めました。ヘレナ・P・ブラヴァツキーアリスター・クロウリーなどの人物が、超自然的な知識や霊的な探求を追求し、これが後のニューエイジ運動のアイデンティティ形成に寄与しました。

 

オカルトと超心理学

 

オカルト( occultism )とは、通常の経験や思考ではとらえることのできない神秘的、超自然的な現象を信じ、これを尊重しようとする信仰全般をしめす概念で、その中には魔術、妖術、占星術、占い、心霊現象、超能力、UFOなどの現象を秘教的知識や神秘的、超自然的な力を借りて実践し、解明することができるという思想が含まれています。

オカルトとされる現象の中には、学術的なアプローチによってその存在の証明とその性質の解明が可能だというものも含まれています。

 

超心理学 (parapsychology )は、心霊現象や超能力と呼ばれる現象を人間のもっている未知の心理作用に起因するものとして検証することを目標とする学問です。
 

超心理学の歴史は1882年、ロンドンに心霊研究協会( Society for Psychical Research: SPR )が創立されたときにまで遡ることができます。

 

研究が始まった頃には霊媒を用いた死者との交信、交霊会で発生するとされるテーブル浮揚や物品引き寄せなどの超常的物理現象、そしてポルターガイストや幽霊といった死後存続に関する研究が中心でした。
 

19世紀の終わりから20世紀の始めにかけて、アメリカやヨーロッパでは心霊ブームが巻き起こっていました。当時の欧米では多くの霊媒や霊能者が登場し、さかんに交霊会が開かれていました。交霊会では、霊媒が「死者」から発信されたとする情報を受け取ったり、霊を「憑依」させて死者との交信を行うということが行われます。
 

しかし、霊媒が行う「霊視」や死者との交信、そして物理霊媒の引き起こすさまざまな超常的物理現象の検討を進めるうちに、それが実体をともなった「死者の霊」の仕業と考えるよりも、霊媒自身が持ち合わせている「超常的能力」(Psi)によるものとみなす方が適当と思われる事例が見いだされるようになりました。
 

そのような視点から、やがて「生者」の透視、テレパシー、予知などの超感覚的知覚(ESP)に関する実証的な研究が行われるようになったのです。


その端緒となったのがJ.B.ラインを中心とするデューク大学の学派です。彼らは1927年より超能力の実験的研究をはじめました。それ以後、超心理学は超常現象に関するエビデンスを蓄積することを目標に、多くの紆余曲折を経ながらも研究が継続されています。


ラインは、研究の対象を生者の超感覚的知覚( extra-sensory perception :ESP )念力( psychokinesis :PK )という2つの現象に絞りました。

 

 

超心理学の研究対象

1.サイ現象(psi,ψ)→精神と物質、また精神同士の超常的な相互作用

a.超感覚的知覚(ESP)→五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)や論理的な類推などの通常の知覚手段を用いずに、外界に関する情報を得る能力

・透視( clairvoyance )………知覚の対象が物体や出来事の場合
・テレパシー( telepathy ) … 他者の心的内容を直接知覚する場合
・予知( precognition )………推理の働く余地のない条件で、未来の出来事を知覚する現象

b.念力(psychokinesis;PK) …筋肉など既知の効果器および既知の物理的エネルギーを媒介せずに、生物が外界に物理的効果を及ぼす現象
      
2.死後存続( survival after death )→肉体の死後、少なくとも一時的に精神作用が残ることを示唆する現象……臨死体験
体外離脱前世記憶、心霊現象など。

 

 


ESPは、通常の感覚的手段を媒介しないと考えられる方法で、他者の心的内容や事物の状態について感知する超常的心理作用を意味する概念です。

ESPには、①感覚的手がかりがないにもかかわらず遠隔地や遮蔽された場所での事物の状態を感知する透視( clairvoyance )、②他者の心身の状態や思考、感情などが感知されるテレパシー、③未来の事象について感知する予知( precognition )などの現象が区別されます。


一方PKは、筋肉などの効果器や既知の物理的エネルギーを媒介しないと考えられる方法で、対象となる生物や物質の状態に変化を及ぼす超常的心理作用をさしています。

その中には①質量の大きな物質の移動や変形( macro-PK )、②量子レベルでの物理プロセスに対する精神的影響( micro-PK )、③写真フィルムに対する感光( nen-graphy; thought-graphy )、④生物の行動や生理プロセスに対する影響( bio-PK )などの現象が含まれています。

 

 

御船千鶴子の<千里眼>


超心理学の源流が19世紀末の欧米における心霊主義運動の隆盛に呼応した形で出てきたことはすでに述べたとおりです。

 

時を同じくして明治時代の日本でも超常現象に対する「世間」の関心が高まり、学術的な研究も欧米とは別の流れから日本でも行われるようになった経緯があります。


透視は、テレパシーと同じく古くから研究されてきた歴史があります。

 

ここでは明治時代の日本の研究を紹介します。

 

欧米で心霊ブームが起こっていたのと相前後して、日本でも千里眼ブームが巻き起こっていました。

 

そのブームの火付け役になったのが、1人のサイキックの出現でした。 御船千鶴子という女性が催眠状態で、千里眼の能力を発揮できるという評判が立ち、やがて学者を交えた実験が行われました。明治43年(1909年)のことです。

 

日本では明治30年代ころから催眠術が流行していました。たとえば、当時の民間の催眠術師の間では、講習会で「火箸曲げ」というデモンストレーションがよく行われて いたといいます。これは、ふつう腕力では曲げにくい鉄の火箸を、催眠暗示をかけることで潜在的な馬鹿力を発揮させ、簡単に曲げさせるという技でした。

御船千鶴子の場合も、最初は催眠にかかった状態で、透視と思われるような力が芽生えてきました。

 

彼女は催眠なしでも透視ができるように練習を重ね、毎日自宅の庭の梅の木の幹に潜んでいる虫の様子を感知することに励みました。やがて、人体透視ができるようにな り、同時に相手の身体の治療もできるようになりました。彼女の治療法は手を相手の身体の患部にあてて、そこが治るようにと精神を集中するものでした。

 

彼女の能力が本物かどうかを確かめるために、東京帝国大学と京都帝国大学の研究者が共同で実験を実施しました。

実験は、ランダムに選んだ名刺を箱の中にいれ、封印し、透視するものでした。ときには透視する名刺を3重に折り畳んで入れ、広げてみなければわからないように するという工夫も凝らされました。

 

彼女の透視はおおむね良好で、封印された名刺の文字を正確に言い当てることができました。実験は何度も繰り返されましたが、大勢の立会人の見守る中で厳重に封印された名刺の文字を正確に透視することに成功しています。

御船千鶴子の実験結果は、当時の日本のマスコミで大々的に報道され、誰でも訓練次第で千里眼ができるというふれこみで、ブームになっていったのです。

 

しかし、この実験にクレームを付けた人物がいました。

 

一度も彼女の実験に立ち会ったことのない学者が、「御船が名刺カードをすり替えている。封印をあけた形跡がある」 という否定的なコメントを新聞に出したり、雑誌に発表したのです。

 

マスコミは一転して、彼女の能力がトリックによるものだという報道を行い、それが原因で御船は自殺してしまいました。

 

ちなみに、小説や映画「リング」に出てくる貞子の母親は、千里眼能力者の御船千鶴子がモデルになっています。

 

 

長尾郁子と<丸亀事件>

 

 

ところで、御船が自殺する少しまえ、明治43年に当時の超常現象ブームに乗る形で、長尾郁子という女性能力者が登場しました。 彼女の能力は御船と同様の透視の他に、念写ができるというのです。

 

念写(nen-graphy; thought-graphy)とは、念力によって写真乾板またはフィルムに直接感光させる現象のことです。この現象は、日本の超心理学の開拓者である福来友吉博士によって偶然発見され、博士によって命名された概念です。

 

「念」という言葉が用語に使われました。

福来博士は明治43年(1909年)、長尾を被験者にして写真乾板に現像されていない文字の透視を試みたところ、なぜか乾板が感光していることをみつけました。その後の実験の中で、長尾が透視能力を使っていると考えられるときに、乾板が変色することを確認しました。
 

 彼は、この現象を未知の「精神線」によるものと発表しました。精神線とは想念の作用によって、脳の中に浮かんでいるイメージを自由に放射して、直接写真乾板に写すものです。
 

 この実験結果を受けて博士は、実験の内容を透視から念写に切り替え、長尾にさまざまな図形や文字のイメージを浮かべさせ、そのイメージを写真乾板に集中することで、念写が起こるかどうかを試してみました。その結果は成功と報告されました。
 

この結果は、当時の学会、特に物理学者に大きな衝撃を与えました。当時の物理学では放射線(X線)の存在が発見されたばかりで、人体から未知の光線が出ている可能性までは誰も考えてみようとはしないような状況だったためです。

 

大多数の物理学者は、「念写などという現象は物理法則に背くから、ありえない!」と考え、これをトリックに違いないと推断したのです。
 

明治時代の日本というと、維新政府によって欧米の列強の仲間入りを果たすべく、急速に西洋的な合理主義、科学至上主義の考え方を導入していった時代です。この国策はそれまでの日本人の素朴な人間観や世界観を根底から覆すような出来事でした。

明治以前の日本人は自然現象の中に「神々しいもの」の気配を感じ、生きている者と死んだ者とのつながりを「祖霊信仰」という形で大切にしていました。

 

そこに西洋化の波が押し寄せ、非科学的な態度や迷信を捨てて、より合理的に効率的に考え、行動できる人間が重視されるようになっていったのです。


こうした社会の急激な変化に反発し、対抗する形で「こっくりさん」、「催眠術」、「千里眼養成講座」など「心の力」を強調するような動きが出てきました。
 

それに呼応する形で、学界でも当時の科学の最先端をいく物理学系のグループと、もっと精神的なものも重視していこうとする心理学系のグループとの間で、超常現象をめぐる激しい論争が繰り広げられていたのです。
 

話を元に戻します。

 

福来博士の実験に批判的な物理学者たちは、香川県の丸亀にあった長尾の自宅に集結し、物理学者を中心としたスタッフを使って、長尾の能力を暴こうとしていました。この実験では福来博士も同席したのですが、物理学者から長尾とグルになってデータをでっち上げるかもしれないという疑いをもたれていたため、立会人という立場で出席を許されることになりました。
 

ときは明治44年(1910年)1月8日のことです。

 

この日の実験で念写のテーマに選ばれた文字は「健」という漢字でした。実験者は自分が用意しておいた乾板の入った箱を持ち込み待機しました。長尾はやがて精神統一状態に入りました。
 

それから1分後、長尾は福来博士の助手を呼び、実験の責任者である物理学者が実験道具に細工をしているので、この実験はやめさせてもらうと告げたのです。
 

彼女が精神統一に入ったとき、「箱の中に写真乾板が入っていないのがわかった。だからいくら文字を念写しようとしてもできない。箱の中には光る十字型のものが見えるだけ」というのです。その言葉を聞いた物理学者は確かにこの箱の中には乾板を入れたと主張し、彼女のクレームを聞き入れようとしませんでした。
 

長尾は「いくら疑いをもっているからといって、それではあまりの仕打です……。」と、とうとう泣き崩れてしまいました。もはやこれ以上、実験の続行は不可能な状況になりました。


それならということで、実験者が箱のふたを開けてみたら、入っているはずの写真乾板は長尾の言ったとおりなかったのです。

 

実験者が助手の物理学者に乾板のありかを問いつめると、助手は「私は相棒が乾板を入れたものだと思っていました。」たと言い、その相棒に聞くと「それは自分ではなく助手が入れたものです。」といって、責任のなすりあいになってしまいました。
 

結局、助手は自分が乾板を入れ忘れていたと言い残して現場を立ち去ってしまい、実験は中断されたのです。

長尾はもうこんな実験はいやだと不快感を表明し、以後物理学者の実験に協力しないと宣言しました。誰が乾板を抜き取ったのか、それとも本当に入れ忘れたのか、いまだに真相は謎のママです。
 

当時のマスコミは、丸亀での実験のいきさつをゆがめた形で大きく報道しました。中には長尾がトリックを物理学者に見破られて、謝罪したという記事を載せた新聞もあったくらいです。
 

その後、長尾家では福来を中心とする心理学者による実験が続けられました。しかし、実験材料が何者かによって盗まれたり、長尾に脅迫状が送りつけられたりして、実験を妨害する不穏な動きが重なったのです。これが原因で長尾は病の床に就いてしまい、明治44年2月26日、この世を去ってしまったのです。
 

長尾郁子という「特異能力者」を失った日本では、その後急速に超常現象ブームが冷めていきました。
 

学界ではその後も、心理学者対物理学者という対立構造の中で論争が続きました。しかし、明治維新以来の科学立国をめざした当時の日本の社会風潮の中で、次第に物理学者の批判的な見解の方が優勢となり、その批判の矛先を向けられた福来博士はやがて大学を追われることになりました。

 

まとめ
 

御船千鶴子や長尾郁子の死は、日本の超心理学の黎明期に起こった「悲劇」です。

 

以来、100年以上の年月が流れているのですが、超心理学に対する世間の「まなざし」は好奇の目でみられることはあっても、相変わらずキワモノの域を出ていません。


 特に問題なのは懐疑論者にみられる「魔女裁判」のような姿勢です。

 

超常現象に批判的な人は、往々にして実験に協力してくれる「能力者」の目の前で、本人を侮辱するような言葉を平気で浴びせることがあります。そのような状況で、「能力者」が平常心を保ちながら「現象」を起こすことができるでしょうか。
 

「能力者」を対象にした実験では厳密性だけでなく、彼らが能力を発揮するための雰囲気作りにも配慮することも重要です。実験に協力した人がリラックスして実験に取り組めるような雰囲気を維持しておかないと「現象」は起こりにくいのです。


実験者や立会人といえども、その雰囲気作りに関与しています。その意味で、実験の現場にいる人が「魔女狩り」のつもりで臨んでいるとはっきりした結果が出てこないばかりか、実験の公正さも失われてしまうわけです。
 

いずれにしても、特異能力者を対象にした実験に対しては、あとになって誹謗中傷が加えられることがあります。

問題なのは、現場に立ち会ってもいない人物が個人的な主観だけで実験の結果を簡単に否定してしまう傾向があること。

 

それに加えて一度はセンセーションを作り出しておきながら、後になって否定的な見解をマスメディアが大きく取り上げたがる傾向です。

 

こうした状況は今も昔も変わらず続いています。進歩がないとしか言い様がありません。

 

超心理学の研究には、つねにトリックやねつ造だという批判を跳ね返すだけの厳密さが要求されてきました。超心理学の歴史は、こうした批判勢力との闘争の歴史でもあったのです。

 

参考文献

 

Shepard,L.A.  1991  Encyclopedia of occultism and parapsychology.(3rd ed)  Detroit: Gale Research Inc.

Edge,H.L., Morris,R.L., Rush,J.H., & Palmer,J.  1986  Foundations of    parapsychology: Exploring the boundaries of human capability. Boston: Routledge & Kagan Paul.

Brandon,R.  1984  The spiritualists: The passion for the occult in the nineteenth and twentieth centuries.  New York: Prometheus Books.

一柳 廣孝 1994 <こっくりさん>と<千里眼>-日本近代と心霊学 講談社

人体科学会(編) 1996 人体科学会NEWSLETTER No.5

 

 

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