秦霊性心理研究所

 

所長 はたの びゃっこ


  私は、従来型の心理学に、超心理学トランスパーソナル心理学を含めた新しい心理学の枠組を考えている。これを魂の心理学(スピリチュアル・サイコロジー)と呼ぶことにする。当研究所では人の意識がどのように変容していくのかという問題を扱っており、その意識の拡張のプロセスに関する「地図」を提案している。

  トランスパーソナル心理学は「超個意識の心理学」という意味だが、ともすればトランス=「ぶっ飛び」の心理学というように誤解されてしまうきらいがある。しかし、私としてはむしろ、「従来の心理学を含みながらこれを超える心理学」という意味でトランスパーソナル心理学を考えている。  

 私は『スピリチュアル・サイコロジー』という言葉を、その辺のイメージを一層明確に打ち出すために使っていきたいと思っている。『魂』というものを基点に心について考えていくのは、心理学が学問として成立しはじめた頃(19世紀)からの究極のテーマでもあったためだ。それでは私の考えている意識の地図とはどのようなものか。

  基本的に意識はいくつもの層(次元;領域)から成り立っている。私が考える意識の拡張とは、ふだんの自己意識が変化していって、それまでは認識できなかった意識次元に注意の焦点が移り、見えなかったものが見え、聞こえなかったものが聞こえ、気づきの範囲が拡張することを意味している。

 ここでは「意識」と「無意識」といった深層心理学的な分類はあまり意味を持たない。無意識は意識がない状態ではなく、単に注意の焦点から外れている意識層のことを意味する。無意識は通常の意識状態では自覚されることなく、ほとんど自動的、反射的に処理されている意識層である。

 ところが、変性意識状態に移行すると注意の焦点も変わって、いつもとは異なった意識世界が自分の周りに広がっているように感じられる。したがって、無意識と呼ばれているものは注意の焦点が変容することで自覚可能な意識といえる。

  意識の各層はホロン(全体)となっている。ホロンとは他の全体にとっての部分となる全体のことである。たとえば、原子は分子の部分であり、分子は細胞の部分であり、細胞全体が器官の部分となっているように、個人、家族集団、組織、社会、地球、そして宇宙は基本的にはホロンの構造をなしていると見なすことができる。

  それぞれのホロンはより大きなホロンの中に含み込まれている。すなわち、ホロンは入れ子状の階層の中に存在しているわけで、これを全体階層と呼ぶ。したがって、意識が拡大していった人間は、通常の世界に重なるような様式で、霊的な存在や非物質的な世界など、別のリアリティも感じとることができるようになるのである。

便宜上、意識の全体階層を次のように分類しておくことにする。

 

下図を参照

 

1. 元因意識の次元(コーザル次元):(魂)・・・もっとも上位の意識概念。普遍的、集合的意識。完全なる物心相関現象が起こる。トランスパーソナルな自己、神仏意識との高い統合性が生じる。二分法の超越に向かう意識場。愛(個人的な愛欲;肉欲)というよりも慈悲、光輝を根本とする。

2. 微細意識の次元(アストラル次元):(霊)・・・感情、情念、執念によって形成され、霊的、サイキックな干渉を起こす意識場。心霊現象、超常現象の源泉となる意識場。神仏意識との媒介者としての眷属、動物霊、スピリット・ガイドとのコンタクトが生じる。中心となる感情の種類の違いによって上位微細意識と下位微細意識とに分かれる。

2-a上位微細意識・・・知性、肯定的感情、至福感、愛に向かおうとする志向性とこれに対する嫌悪、愛を巡る激烈な葛藤。完全な自己超越の直前の苦しみ。

2-b下位微細意識・・・自己保存的欲求、怒り、憎しみ、フラストレーション、呪い。

3. 「気」の次元:(身体心)・・・身体機能と連動しており、意念、情念によって形成される気の意識場。微細意識場と身体機能の中継回路として作用する。遠隔催眠、テレパシーによる意識の干渉も含まれる。内蔵系など自律神経系の身体機能に対する念力、呪詛呪術。非物質的生命の存在。

4. 自己実現の次元:(人格)・・・個人の人格の完成。日常世界で自分の能力や可能性を最大限に開発し、これを達成できている状態。至高体験、瞬間的な神秘体験の始まり。自己責任、自己受容ができており、自律した個人として生きる。それと同時に他者との協調性、共感性、利他性を実感している。

5. 通常意識の次元(自我)・・・個人の通常感覚,思考など自覚の中心。自我意識。注意の焦点が拡張することによって、上の意識場との感応も認識されるようになる。また、自覚を伴わないが、機械的、反射的行動、コンプレックスに基づく自動的言動も含まれる。

 

 

註1.アストラル体(Astral body)は、神智学の体系で、精神活動における感情を主に司る身体の精妙なる部分。感情体、情緒体、感覚体、星辰体などとも呼ばれる。

アストラル体の特徴

・喜び、悲しみ、恐怖、愛などの感情の表現を通じて存在する
・刺激によって反射的に起こる感情が含まれる
・肉体の外側にあると言われる
・嫌な事が続くとアストラル体は薄くなってしまい心身の不調が出て来る
・肉体の中にある細やかなエネルギーでできていて、過去生からの記憶がすべて刻まれている

註2.コーザル体は、神智学において、魂のレベルにある私たちのこと。肉体や感情、思考などを超えた存在で、信念や精神性を表す。魂の成長と進化に関連しており、生まれ変わりの記憶も刻まれている。

当研究所では「~体」(body)という言葉よりも「意識の拡張によって知覚されるようになる領域」と考える。

 

 


 意識は自我の次元から元因意識の次元に拡張するにつれて、時空の制約をほぼ超越し、非局所的なな性質を持つようになる。また、微細意識の次元以上になると物質と精神の相互作用が完全な形で発生し、情報の送受信の手段、結果として超感覚的知覚念力があたりまえのように起こる。さらに、意識の拡張が進むにつれて、自己と他者、心と身体、人間と自然(宇宙)との境界がなくなり、集合レベルでの意識の働きが出てくる。

 こうした意識の全体階層の中でも、もっとも基盤的で根本的な意識次元の顕れ方は、魂(元因意識次元)である。魂あるいは元因意識次元とは、神仏意識、自己の内にある神性・仏性とのコンタクトが生じる意識次元である。われわれの心の内側には、こうした崇高な光と輝きを発する存在。つまり、慈悲深く、しかも畏敬の念を禁じずにはいられないような「偉大なる何か」が潜んでいる。これがトランスパーソナル心理学で終始一貫して論じられている「超個的な自己」と遭遇する体験である。深い宗教体験、神秘体験、そして偶発的に発生する臨死体験の中には、しばしば「光の存在」とのコンタクトが語られる。人によってはこの光に人格が備わっているように思われ、自分は至上の愛と慈悲を受けていると感じ、これを神か仏であると解釈するのである。しかし、これは本来自分自身の内に刻み込まれているもので、自分の外に存在するものではない。

 元因次元の意識は善悪や分別を超越したものであり、その働きは「慈悲」を基調とする。愛と慈悲は同じような意味に使われている部分もあるが、厳密には区別される。仏教における愛という言葉には、愛、親愛、欲楽、愛欲、渇愛などがある。愛は自己愛、親愛は他者に対する親しみをこめた愛情、欲楽は特定の個人に対する愛情(恋愛)、愛欲は性的愛、渇愛は渇きにたとえられる盲目的衝動的な執着となった愛をさす。この五つの形態は、人間の愛が自己愛から始って性愛にいたり、さらに自己愛の窮まった形である渇愛にいたる深まりのプロセスを示している。この渇愛が人間の愛の本体であるとともに人間の苦悩の源泉なのである、と考えられている。

 つまり、仏教でいう愛とはどちらかといえば個人的な心情や欲望、衝動をさしている。個人の心情の揺らぎ、葛藤が苦悩でもあるという考え方はわれわれが日常場面で経験する人間関係の愛憎劇の中で繰り広げられているものである。

  仏教思想では、この苦悩のなかから、「悲」(カルナー)が生れるとする。カルナーのもとの意味は坤き(うめき)であるが、同時に「あわれみ」を意味する。自己の坤きを知る者は、他人の苦悩にも共感できるし、苦悩する者に対して同情をもち、親近感・友情をもつようになる。これが「慈」(マイトリ)である。

 実際、どん底や苦悩の極みを経験し、最低最悪の人生を味わったことのある人は、他者の苦しみや嘆き、悲しみにも深い共感を示し、癒しの力を及ぼすことができるように思う。慈は「友」(ミトラ)からつくられた名詞で、「真実の愛情」を意味する。この「慈悲」が「仏心とは大慈悲なり」『観無量寿経』といわれるように究極の愛の姿なのである。

 慈悲の究極として<無縁の大悲>つまり、(1)わたしが(2)誰かに(3)どれだけのことをする、という三つの条件を全く意識することなく、他者をしあわせにする無条件の大きな愛が説かれるようになった。

 このことから、慈悲は愛憎の対立を越えた、求めることのない絶対の愛で、一切の生きとし生けるものにまで及ぶ。トランスパーソナルな愛(元因レベル、神仏意識の愛)とは、この慈悲のことをさしていると考えることができるだろう。

 平たくいえば、元因意識の働きは万物に対して燦々とした光を送り続ける太陽のようなものである。その光は何者に対しても平等に降り注がれる。しかし、われわれが元因意識からの情報に注意を向けるか否かで、その光をそのまま受け取ることも可能だし、煙幕を張って光を遮断してしまう自由もあるわけだ。

 魂を基点として自己や世界を見るならば、通常の物質的世界(古典的物理学で考えられている世界)はもっとも荒削りな世界であり、時間的、空間的に制約を受けた局所的な意識の働きしか出てこない。しかし、意識が拡張していくプロセスにおいて、見たり感じたりできる世界も至高体験を伴う自己実現の次元、気の次元、霊の次元へとノンローカルな性質を強めていくのであり、最終的には魂の次元も含んだ世界が広がっていることになる。外側の意識層にまで拡張している人はこれまで認識していた意識層も同時に分かっており、たとえば霊的世界が分かる人は通常の物理的認識も阻害されることなく、同時に神霊や精霊、人や動物の霊体など非物理的な存在も感じられるということになる。  

 このように、意識の拡張とは、個人的な自我意識が失われることなく気、霊、魂の次元に向かって起こっていくプロセスを意味しているのである。

 ただ、私がここで述べておきたいことは、意識の進化とは,単に霊や魂の次元にまで意識が拡張していくということではない。

 意識の全体的発達とは、①認知、②道徳、③感情、④対人関係、⑤霊性といった心の機能のそれぞれが、トータルにバランスよく発達していくことを意味している。

 

 

下図を参照


 だから、いくら霊性のレベルで意識が拡張していても、それに道徳的な心の発達が伴っていなければ、全体としてみれば意識の進化はしていないということになる。これは呪い専門の祈祷師や、恐怖で信者を呪縛する宗教団体の専属祈祷師に特に当てはまる。

 呪詛呪術を駆使する霊能者は霊的な専門教育や修行を通じて卓越した超常的能力を持っているが、組織の利益を守るために、あるいは信者をつなぎ止めるために、ときとして霊的虐待を加えることがある。

 彼らの意識拡張のプロセスは、個人や組織のエゴ、自己保身、怒り、憎しみ、嫉妬といった自己保存的な欲求を原動力にして霊力を磨いているわけであり、元因意識次元の慈悲の働きに背を向け、煙幕を張って光を遮っているような振る舞いをしているのである。

 これは下位微細意識次元の特徴でもある。呪詛呪術師は、霊の次元の意識作用を熟知しているが、それは基本的に、怒り、憎しみ、嫉妬といったマイナスの感情に突き動かされているために、闇の存在、魔界的な意識場、魑魅魍魎、悪魔といった霊的存在と意識が同調しやすくなり、常に破壊的で、悲劇的な結果しかもたらすことはない。

 ゆえに、感情の発達も重要である。というのも、霊的次元(微細次元)の意識は感情的な側面と密接に連動しており、否定的で破壊的な感情は、呪詛や念飛ばしに通じるためだ。

 その一例が神社での「丑の刻参り」である。今でも神社に参拝に行くと、木にワラ人形に五寸釘が打ち込まれている事がある。民俗学者の小松和彦によれば、奈良時代に呪禁道の「厭魅」として流布したものが、民間レベルでは、陰陽師が呪詛の時に敵に見立てた「人形祈祷」と関係をもち、それを丑の刻参りの作法のなかへと入りこんだものがワラ人形であるという。そして、社寺の神木や社殿、あるいは神像、仏像にまで釘を打ち込み、神仏を痛めつけてまで呪咀の願いをかなえてもらおうとする「呪い釘」による呪咀法が五寸釘へと結実していったのだという。

 丑の刻(午前1時~3時)とは人が鬼へ変身したり、鬼の出現する時刻であると信じられていた。その背景には、古来丑寅を「鬼門」すなわち鬼が侵入してくる方位だとした陰陽道の考え方があり、いつのころか方位よりもそのおどろおどろしい面が強調されたのであろう。

 江戸時代には、今日の一般的なイメージとして定着している丑の刻参りの呪咀法が完成していった。 おそらくは人形を使った呪詛そのものは、遠く縄文時代の土偶を使用した呪術にまで遡ることができるだろう。最近ではインターネット上で、このワラ人形セットを通信販売しているところもあるくらいで、一定の需要はあるようだ。

 文化人類学的には、呪うべき相手に見立てた人形を、矢で射たり釘をさしたり呪いの言葉を書いたりして責めることによって、相手も苦しむと信じる呪いを類感呪術という。これに対して、一度本人の身につけていたり、接触していたモノは、離れた後も本人に作用し続けると言う信念に基づいて、相手の髪や爪をなどを傷つけ呪う方法が感染呪術である。したがって、人形呪詛は、人形を本人の身代わりとして攻撃を模倣する類感呪術である。

 古来より、人形は本人の魂が宿った分身であると見なされていた。たとえば、神道では、人形を寝床の下に敷いて一晩眠ったり、これに本人が息を吹きかけて「魂」=情報を転送する儀礼行為を行う。この分身に本人の悪い部分、災い事や病気の情報を移動させて、川や海に流してしまうと除災、病気平癒の効果があると信じられていた。

 もちろん、これは白魔術として人形を使う場合であるが、呪いの場合、この人形に本人の魂を入れ込んで痛めつけることで、霊的な情報の感応が本人との間に発生し、実際に本人が苦しみ、ときに死に至らしめることも可能であると考えられていたのである。

 非局所的な意識の働きを認める立場からすると、こうしたネガティヴな感情や念を憎き相手に見立てた人形に込めると、その攻撃的感情が(下位)微細意識次元を通じて相手の意識に干渉を起こし、心身に悪影響をきたす可能性は否定できない。意識は情報系であり、距離や場所に関係なく直接相手の意識に侵入して、否定的な生体念力を引き起こすわけである。

 

 

註.生体念力(bio-PK)とは、科学では説明できない未知の要素を持つ現象や療法を指す。生体エネルギー療法、外気療法、手かざし療法、スピリチュアルヒーリング、心霊治療などがこれに含まれる。

 

 こうした下位微細意識の袋小路にはまらず、光輝に満ちた元因次元の意識と溶け合っていくには、その前段階として感情のコントロールや、協調性や愛他性といった人間性の発達が、先決事項となってくる。つまり、一度は自己実現の次元の意識を確立するための心の行、精神鍛錬を経ていなければ、上位微細意識から元因意識の次元へとスムーズな意識変容が起こらなくなる、というのが私の考えである。


 人間は本来、社会的な動物である。いくら、「あちらの世界」の様子が分かるようになっていても、対人関係能力や社会性がこれに伴っていなければ、ただの独りよがりな覚者になってしまったり、自己中心的な呪詛呪術の魔界に陥ってしまうだけである。

 
 

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