秦霊性心理研究所
所長 はたの びゃっこ
超越的体験の心理プロセスについて、私の理解していることを述べてみたい。
いわゆる霊感・霊媒体質の話題は、ともすれば霊が見える、声が聞こえるの段階で話が止まってしまい、なぜ他人には見えたり聞こえたりしないものが見聞できるのかについて十分に思考を深めることができない。
私は意識の変容が肉眼ではとらえられない次元への認識の拡張をもたらすと考えているので、目には見えない世界が通常感覚でとらえられる世界と重なって視覚化されたりする可能性を否定しない。
霊性とはこうした超越的な次元への意識拡張のプロセスで培われていく感性であり、その感性を磨いていくことができれば、俗なものの背景に聖なるものを感得することも必然的にできるようになる。
今回はそのことを真面目に考えてみようと思う。
宗教的心情
まずは宗教的心情についてである。別項で述べたように、神仏に対する信仰とは、自己を越えた大いなるもの、神仏とでも呼べるような宇宙の働きに対して、畏敬や崇敬の念を持つことから始まる。畏敬の念や崇敬の念は、われわれの祖先がまだ大自然の脅威にさらされて細々と暮らしていた頃から培われてきた原始的(素朴な)感情である。
宗教的心情とは,こうした複合的な情緒である崇敬の情を特色としたものである。
崇敬の情とは1)畏敬と2)感謝の気持ちに分類される。
さらに、
畏敬は・・・賛美と怖れ
感謝は・・・優しさの感情と否定的自己感情
に分類することが可能であるとアメリカの社会心理学者、マクドゥーガルは述べている。
神秘体験や宗教経験に底在している原始的、素朴な感情は、他方で「神聖なるもの」に向き合うときに生じる独特の感覚、感情によって色づけられている。これをヌミノーゼ(numinous)という。
オットーによれば、宗教的感情とはヌミノーゼあるいはヌーメン的なるものの実在の体験を基礎としている。ヌミノーゼとは「聖なるもの」の本来の非合理的側面をさす言葉であり、それ自体は「全き他者」であり、「かくれたもの」であるが、それが人間の心に引き起こす感情の状態によって、その特徴がわかるものである。
ヌミノーゼは一方で人間を畏怖せしめ、他方で人を魅惑してやまない神秘でもある。
神仏意識と交信するシャーマン型霊能者のようなケースはもちろんだが、いわゆる<ふつうの人>でもヌミノーゼは起こることがある。
これは、とても原始的な感覚だと私は思う。
畏きものを目の当たりにしたときに、身震いしたり、ジーンと感情がこみ上げてきたり、とても深い安らぎを覚えたり、他方で圧倒されたりといった感情体験がそれである。
このような体験は現代社会に蔓延している唯物的な世界観に漬かっている人には理解できないかもしれない。何しろ、意識の超越的次元を認める世界観の枠の外にいる人から見れば、たとえば神社のご神体にしても、白布で覆われた宝物の入った木箱に過ぎないと認識されるからである。
これが聖と俗と呼ばれる宗教(霊性)心理の問題につながってくる。
聖と俗
エリアーデによれば、「聖なるもの」は「俗なるもの」とまったく異質な存在次元を示すが、その顕れはありとあらゆる俗なるものを通じて見られると言う。
そのとき、「俗なるもの」はその日常的な俗的存在様式を脱して、「聖なるもの」の顕現としての意味を獲得する。その時点で、もはやそれは単なる俗な事物ではなくなる。
たとえば、石や木が崇拝されるとき、人々は石や木そのものを崇拝しているのではない。「聖なるものの顕現」としての石や木を崇拝しているのである。つまり、石や木を通じて聖なるものに関与していっているわけだ。
私は俗な事物を俗なものとしてしかとらえられない「枯渇した感性」を持った現代人に対して憂いさえ覚える。日常世界があまりにも息苦しく、虚しさを覚えるがゆえに、心や体を病む人が増えている。けれども、それは日常世界をただの三次元世界としてしかとらえようとしない<狭い心>にも問題があるのではないかと思う。
その最大の病根は唯物的世界観であろうと私は考えている。この世界は肉眼でのみとらえることのできる物理的な世界だと信じ込み、固定化してしまうと、その向こう側に広がっている「隠れたもの」、「神聖なもの」を感じとることはできなくなる。
こうした世界観が現代人にもたらした弊害は根深いものがある。
他方で、古代人は精霊信仰をもっていた。岩や木,太陽や月,海や山の背後に隠れ身のカミの働きを感じとる霊的感性があった。岩を拝む、木を拝む、太陽を拝み月を崇める。山の神、海の神に感謝する。
ただそれだけの信仰が縄文・弥生時代の信仰だったが、日常的に存在する事物の「向こう側」まで感じられていたからこそ、それに少しでも近づこうとして古代人は高層神殿まで作った。その一例が出雲大社で見つかった古代の高層神殿を支える柱だった。少しでも天に近いところに手を伸ばそうとする気持ちの表れから、古代の出雲人は、それよりも遙か昔から高層神殿を建設していたようである。この点については、本稿の範囲を超えているので機会を改めて述べることにする。
超越的体験の分類
さて、俗の中に聖を見いだす経験は宗教体験、神秘体験、自己超越体験にも通じていく。
本山博によれば、宗教経験とは『人間がより「大いなるあるもの」と融合、合一することであり、両者が絶対の一となる所にその究極がある。而して両者が合一融合するときに生じる、あるいは現れる意識が宗教意識である。』と述べている。
つまり、神、仏、霊体との交信が始まる一連の経験である。
ここで、神仏との一体化には2つのタイプがある。
1)大いなるあるものを自己の外に実在するものとして感得する場合⇒キリスト教神秘体験。聖テレサの事例。
2)現在の個人的自己とは異なる、それを包括したより大いなる本質的な自己として感得する場合⇒ヨーガ、禅の体験。
つまり、神を自分の外にあるものと認識するか、自分の内側にあるものと認識するかの違いである。
心理学者の多くは,神を自分の内側に感得する体験としてとらえようとしている。たとえば、ユングは「より大いなるもの」を超個人的な集合的無意識と解釈しているし、ジェイムズは「より大いなるもの」は此岸からみれば意識的自我よりも広大な潜在意識であると解釈する。
このように、神(仏)は自分の無意識の中にあると考えるのが、深層心理学的な解釈である。
実際の所、神仏意識(元因意識)というものは、宇宙大の意識であり、その中に私たち人間は生きていると考えれば神仏は自分の内にも外にもいるということになる。それを自覚するしないにかからわず、神仏意識はいつも私たちとともにある。ただ、それは外側にあると感じることもできるし、内側にあるとも言える。それはその人の信念や文化によって規定されているから違ったとらえ方が出てくるのである。
宗教(超越)経験の特色としては2つのものがあげられる。前出の本山博によれば
1)宗教家(体験者)が利己的でなく、常に誠実、調和、無私愛に生き、ある神を信じている場合には、その神との宗教経験を持つ。すなわち、神々を崇拝するものは神々に行き、祖先崇拝者は祖先へ、死者の霊を祀るものは死者の霊へ、最高神に帰命する者は最高神に至る。
2)精神の進化が進めば、その進化した段階において存在する神と宗教経験をもちうる。
つまり、宗教的な経験は、その人が信じている信念体系の枠組の中で神仏の姿や声を聞くという形になるわけだ。
したがって、神仏は信じないが霊は信じるという人がいたとして、仮にその人が超越したとすれば、霊体ばかりが見えるというパターンになる。神仏に少しでも近づこうと思うならば、神仏に対する自分自身の信念や姿勢そのものを変えていかなければ、何も感じることはなくなるわけである。
超越のレベルが進んでいくと,以下に示すような霊性経験が順次経験されるようになっていく。
1.霊感・・・霊感とは、神、神霊と精神とが直接的全体的に一となる宗教経験ではないが、その前段階と見ることができる。
霊感のレベルでは、神霊と人とがまだ存在上対立している。人の精神は個別性を持っており、部分的に神霊との間に流入交渉が行われる。静かなる祈り、哲学的思索にふけっているとき。
2.単純な一致・・・利己性や自我が全く否定される段階。利己性とは神に意識的、無意識的に背を向けて、積極的に自分のためにのみ自己の存在を目標として一切を行うことである。
利己性が否定されると、個人は自己の内側への神霊の流入とそれとの一致を経験し始める。あるいは自分という個を生かし支えているものが顕わになる。この一致、流入によって一時的にせよ人は恍惚状態に陥る。しかし、完全に意識は失われてはいない。
3.エクスタシー・・・超越者の個的存在への流入あるいは顕現が全面的に行われる段階。個人は、意識、感覚、肉体における活動については仮死状態となり、超越者の活動の「器」となる。完全な脱魂または憑依(神憑り)状態になる。
4.意識的になったエクスタシー・・・全くの無意識ではないが、さらに個体としての存在性は失われる段階。神霊との一致の度合いは逆に強められる。超意識が目覚める。霊語、霊聴、霊視(示現)が生じる。つまり、神霊の姿が見え、声を聞き、言葉が出る状態である。
5.神霊とのまったき一致・・・個人としての個体性は全く失われ、個の魂は神霊そのものとなる。神霊としての個は自己に即して自己の内側で働き自己を支えている神霊そのものと完全に一致する。「我は神なり」、「我のうちに神が存す」、「我と神は一つなり」と自他共に認められる段階。
以上は本山博氏による分類だが、私のこれまでの経験から見ても、おおむね妥当性があるように思うので、これを霊性発現(Spiritual Emergence)の基準として論じている。
シャーマンと呼ばれる人は、第3段階、第4段階の超越を示す人である。
過去記事で述べたように、意識は自我の次元から元因意識の次元に拡張するにつれて、時空の制約をほぼ超越し、ノンローカル(無限の広がり)な性質を持つようになる。
また、微細意識の次元以上になると物質と精神の相互作用が完全な形で発生し、情報の送受信の手段、結果としてPSIがあたりまえのように起こるようになる。
さらに、意識の拡張が進むにつれて、自己と他者、心と身体、人間と自然(宇宙)との境界がなくなり、集合レベルでの意識の働きも出てくる。
さて、こうした意識の全体階層の中でも、もっとも基盤的で根本的な意識次元の顕れ方は、魂(元因意識次元)である。
魂あるいは元因意識次元とは、神仏意識、自己の内と外にある神性、仏性とのコンタクトが生じる意識次元だ。
われわれの心の内側(そして外側にも)には、こうした崇高な光と輝きを発する存在、つまり慈悲深く、しかも畏敬の念を禁じずにはいられないような「偉大なる何か」が潜んでいる。
これがトランスパーソナル心理学で終始一貫して論じられている「超個的な自己」と遭遇する体験である。
深い宗教体験、神秘体験、そして偶発的に発生する臨死体験の中には、しばしば「光の存在」とのコンタクトが語られる。人によってはこの光に人格が備わっているように思われ、自分は至上の愛と慈悲を受けていると感じ、これを神か仏であると解釈するのである。しかし、これは本来自分自身と一体になっているもので、自分の外に分かれて存在するものではないことに留意したい。
参考文献
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