皆さま
私たちは日本の古代呪術や祭祀に関心を持っていますし、実際一族に伝わる呪術体系の多くは非常に古いモノも使っています。
日本というクニの成り立ちに際しても祭祀は重要な役割をもっていました。
私たち一族にも、古史古伝というものがありますが、その内容は歴史書には載っていない事柄も多く、学術的に通説とされているものとは大きく異なります。
邪馬台国論争は現時点で機内説が有力視されていますが、巫師関係者からもたらされた情報では、機内説でもなく、北部九州説でもなく、まったく意外なものでした。
今回は、巫師の視た邪馬台国(United Kingdom of Japan: UKJ)の歴史について記しておくことにします。
よろしくお付き合いくださいませ。
予備知識
まず、基本的な事項の確認からです。
邪馬台国と卑弥呼は、日本の古文書である『古事記』や『日本書紀』に記載されていません。なぜこれらの重要な存在が歴史書に登場しないのか、以下にわかりやすく説明します。
1.日本の歴史書には邪馬台国の記述がない
- 『古事記』や『日本書紀』、諸国の風土記など、現存する歴史書には「邪馬台国」の記述はありません。
- これらの歴史書が書かれたのは、だいたい8世紀頃のことです。それ以前は、語り部たちによって歴史が口承伝承されていました。
- 現存する歴史書の編纂は8世紀に紙と文字が近畿方面に流入したのは6世紀に入ってからで、そこから紙に歴史が書かれ始めました。
- 7世紀には遣隋使や遣唐使といった日本の優秀な留学生たちが、中国から多くの文物を持ち帰りました。
- しかし、7世紀末の壬申の乱において、これらの書物のほとんどが焼失しました。
2.不都合な真実
- 『古事記』や『日本書紀』の編纂は、藤原氏一族によって行われました。
- 藤原氏は、蘇我氏に対して強い怨念を持っていました。蘇我氏は邪馬台国の出身であり、藤原氏は彼らを極悪人として描きました。
- そのため、邪馬台国の存在を歴史から抹消し、蘇我氏を極悪人として扱ったのです。
- 邪馬台国が歴史から消された理由は、藤原氏の蘇我氏への遺恨と、政治的な配慮が影響していると考えられます。
確か藤原氏と言えば、もとは中臣氏でしたね。中臣氏は神祇を司る氏族で、中臣鎌足(614~669年)が藤原氏の始祖。で、中臣氏と物部氏といえば、朝廷内で祭祀を管掌してきた氏族ですね。
物部氏や中臣氏としては、自分達の職権を奪われたとして蘇我氏に敵愾心(てきがいしん)を抱くことになったのでしょう。
では、日本国外の歴史書には、邪馬台国や卑弥呼についてどのように描かれているのでしょうか?
1.卑弥呼の存在
- 『魏志倭人伝』によれば、卑弥呼は邪馬台国に住んでいた「倭国の女王」とされています。
- 倭は多くの小国に分かれていたが、2世紀後半に内乱が起こり、卑弥呼を擁立した連合国家的組織を作りました。
2.卑弥呼の役割
- 卑弥呼は鬼道に仕え、大衆を惑わし、その姿を人前には見せなかったとされています。
- 彼女は夫を持たず、政治は弟によって補佐されました。
3.日本国内との違い
- 『古事記』や『日本書紀』には卑弥呼は登場しないため、日本国内では別の名前で呼ばれていたとされています。⇒神功皇后説
- これらの記述から、卑弥呼は日本国外の歴史書で注目されている存在であり、邪馬台国の謎についても考察されています。
130 億年分の情報があるわけですから、そこからどの部分にアクセスするか、またアクセスできる人の資質・能力によっても引き出される情報の種類や情報の精度も異なります。
というわけで、巫師によって得られた情報をまとめます。
- 男子は大人も子どももみな顔や体に入墨を施している。人々は朱や丹を体に塗っている。
- 咾豆(たかつき)を用い、手で食べる。(箸を使用していない)
- 男子は冠をつけず、髪を結って髷をつくっている。女子はざんばら髪。
- 着物は幅広い布を結び合わせているだけである。
- 兵器は矛、盾、木弓を用いる。その木弓は下が短く上が長い。
- 土地は温暖で、冬夏も生野菜を食べている。
- 人が死ぬと 10 日あまり哭泣して、もがり(喪)につき肉を食さない。他の人々は飲酒して歌舞する。埋葬が終わると水に入って体を清める。
- 倭の者が船で海を渡る際、持衰が選ばれる。持衰は人と接さず、虱を取らず、服は汚れ放題、肉は食べずに船の帰りを待つ。船が無事に帰ってくれば褒美が与えられる。船に災難があれば殺される。
- 特別なことをする時は骨を焼き、割れ目を見て吉凶を占う。
- 長命で、百歳や九十、八十歳の者もいる。
- 女は慎み深く嫉妬しない。
- 盗みはなく、訴訟も少ない。
- 法を犯した場合、軽い者は妻子を没収し、重い者は一族を根絶やしにする。
- 習俗には尊卑の序列があり、上の者のいいつけはよく守られる。
とあります。
どうも、この記述を読んでみると、中国の南部にいた海洋系部族=倭族のことを言っているように思えます。
イメージ的には南方系海人族(アマ族)に共通する習俗、信仰が見られます。
中国側の文献に関する読み解きについては、以下の文献が参考になります。
鳥越 憲三郎 2020 倭人・倭国伝全釈 東アジアのなかの古代日本 (角川文庫)
対馬海流は黒潮の支流でもあり、紀元前 10 世紀頃から始まった中国からの散発的な移住者の到来を誘い、そして紀元前 3 世紀から本格化した「渡来系弥生人」流入の中継地点になったのが対馬でした。
三国時代の中国から見た「倭」の位置認識(中国歴史地図集より)九州あたりが「倭」と認識されている
華南や長江流域から直接日本列島に渡来した人々の中には、春秋戦国時代の戦禍を避けて亡命してきた王族や貴族も含まれていました。紀元前4世紀頃から散発的に日本列島に到達したものと思われます。
彼らは黒潮に乗り、九州に続々と漂着し、他方で対馬経由で日本海側に上陸したグループもいました。
そこで多くの部族がクニを形成し始め、先住民であった縄文人と混血しています。混血がなかった場合でも、縄文人が弥生文化を受け入れて水稲稲作を始めた地域もありました。縄文人の弥生化です。
海人族はいわば水軍であり、船を巧みに操ることのできる部族であり、日本列島の至る所に自由自在に自らの拠点を構築していきました。
その中でも出雲を拠点とする「オオクニヌシ族」と後からやってきた「スサノオ族」は、日本海側に点在する国家連合を築いています。
オオクニヌシ族は山陰地方を拠点とする海人族の一派。スサノオ族は徐福をリーダーとする部族が始まりです。
いわゆる出雲口伝にも徐福が出雲に渡来して現地の女性と結婚し、その子孫が機内に移動していったといった話があります。また、徐福は九州にも再渡来していて、ニギハヤヒとなり、その子孫は物部氏になったとも伝わります。
その渡来時期は紀元前3世紀。秦の滅亡の直前と伝わっています。
ただ、私たちの得た情報では徐福は先住民だった出雲族の王と副王を枯死などさせてはおらず、むしろ当時の大陸における農業、土木技術、治水、医薬関係の知識などを教えて出雲族の国造りに協力しており、徐福の子孫は物部となり、その後畿内方面に進出していったという点が大きく異なります。
いずれにしても、これが第1期邪馬台国となります。
他方で、後続の渡来系部族であった天孫族は、1世紀に朝鮮半島を経由して松浦半島⇒佐賀平野⇒筑後川周辺に居住した部族の総称です。鉄器製造技術を持っていたのが特徴です。
2世紀にはその一部が、人口過密になってきた九州(食糧問題から争い多し)から東へ向けて移住を開始。
瀬戸内海を渡りながら河内に上陸し、すでに当地に居住していた徐福の子孫=物部等を飴とムチで取り込んでいき、葛城地域から大和地域に拠点を移していき、連合王国を構築するに至っています。
いわゆる神武東征の神話は、天孫族が九州から東進戦略により畿内に進出するプロセスを描いた物語です。
天孫族については以下の文献が参考になります。
宝賀寿男 2018 天皇氏族―天孫族の来た道 (古代氏族の研究⑬) 青垣出版
こうして、多くの部族国家が天孫族派と出雲族派とに二分され、「倭国大乱」の内戦状態となりました。出雲族派は新羅、高句麗とも国交を持っており、天孫族から見れば最大の難敵でした。
魏志倭人伝的世界観から見れば、出雲族連合王国である「邪馬台国」はその勢力の南にある天孫族連合王国=「狗奴国」と対峙することになったライバル国という構図になっています。
しかし、出雲族派と天孫族派は雌雄を決することはなく、疲弊しきったクニを立て直すため、和平会談を通じて共通の王を擁立することで合意に至りました。
そこで担ぎ出されたのが、出雲族の卑弥呼(姉妹)でした。
出雲族の卑弥呼(姉妹)はシャーマンとして祭祀を司り、実際の政治は天孫族の統領(大王)が取り仕切るというシステムでマツリゴトが行われました。
しかし、卑弥呼(姉妹)は「神からの託宣」として、出雲族連合王国に挑戦する他の部族や側近を徹底的に弾圧し、独裁者として君臨しようとしました。
ところが、卑弥呼(姉妹)は共に病にかかり他界してしまいました。
そこで、今度は天孫族の統領(大王)が国家統一に乗り出しましたが、再び倭国は内乱状態となり収拾がつかなくなったため、今度は卑弥呼たちの親族であった「台与」を女王として担ぎ出すことで、ようやく出雲勢力と天孫族勢力は和合するに至りました。
これが第2期邪馬台国となります。
台与の時代に邪馬台国は西日本を統一し、以後天孫族との軋轢はなくなり、さらに東進政策を推進していき、東海~関東に進出することが可能となりました。
台与没後は、天孫族の大王が初期ヤマト王権の長となり、後の天皇家の祖先となります。
日本神話に出雲に関する記述が多数出てくるのは、卑弥呼、台与による出雲王国の影響力の大きさを無視できないと見た天孫族の末裔が、その物語を抹消することなく残したことに由来します。
ちなみに、卑弥呼(姉妹)は非常に猜疑心の強い人々であり、いつも出雲-北部九州-ヤマトを転々と移動しており一箇所に留まることはありませんでした。
さらに、どこを本拠地として活動しているかを悟られないためにカモフラージュのための宮殿もあちらこちらに造っています。
それゆえ、邪馬台国の真相が考古学的に解明されることはきわめて困難です。邪馬台国は畿内でもあり、北部九州でもあり、出雲でもあるためです。
2世紀後半から3世紀半ばにかけての「UKJ」の3つの拠点
中国サイドから見たUKJ
ところで、巫師関係者には中国出身者もいます。日本側が得た情報と中国の巫師の側から提供された情報が微妙に異なっており、中国サイドからの追加情報としてUKJ に関する記述をまとめておきます。
まず、魏志倭人伝に出てくる倭国の女王、ヒミコの記述が意図的に間違っていると言うこと。
本当なら「弥呼妃」と記載されるところを、外国人の人名には蔑称の漢字を当てる風習から「卑弥呼」と書き換えられました。
卑弥呼の正式名称は「巫女妃」で、「神の妃」、「神の器」となる女性という意味でした。以下は卑弥呼ではなく、ヒミコとします。
彼女は中国からの渡来人と先住部族との間に生まれた娘で、出雲生まれ。6人きょうだい、ヒミコは長女、長男が スサノオでした。
文献的には卑弥呼は生涯独身だったと記されていますが、中国サイドからの情報では、ヒミコとスサノオは結婚して一子をもうけていました。
つまり、姉弟の近親婚だったわけです。文献的には、ヒミコに仕える男性が 1 人いたと記されていますが、その男性がスサノオになります。
当時では血族結婚は常態的に行われていました。
この夫妻が建国したのが「第1期邪馬台国」で、他の部族をまとめ上げ、初期道教である鬼道を駆使するシャーマン=女王として、現在の出雲に都をおいて、マツリゴトを執り行ったのです。宗教文化も人の移動に伴って流入してきますから、紀元前の日本にも大陸由来の道教が入っていてもおかしくはりません。
実際にシャーマン的資質を備えていたのは、ヒミコ妹の方ですが、それは「裏の存在」として歴史に記録されることはありませんでした。
ところが、ヒミコ姉と素戔嗚尊の間に生まれた子供が妹の手により殺害されたのです。姉妹は互いに謀って自分たちが王として君臨しつづけようという野心を持っていたからです。
兄弟姉妹といっても仲が悪かったのです。日本の戦国時代や中国のそれを振り返ってみても実のきょうだい同士が争い合うことは珍しくありませんでした。
スサノオは我が子を妹により殺害されたことを恨み、さらに妹と共謀したと疑った妻のヒミコ姉の存在も疎ましく思うようになりました。
そこにアプローチしてきたのが、天孫族の使者でした。
スサノオは天孫族と連合して、ヒミコ姉妹の暗殺を実行し、魏から賜った「卑弥呼の鏡」をはじめとする宝物一式を打ち壊して海に捨て、彼女たちの遺体をバラバラに切断して、同じく海に投げ込みました。
ヒミコ姉妹も自分たちの身に危険が迫っていることを察知していて、スサノオと天孫族の率いる連合軍と戦争になりましたが、ヒミコ姉妹が暗殺された結果、出雲王国(第 1 期邪馬台国)が敗北して、スサノオを王とする第2期邪馬台国が建国されたのです。
スサノオは、ヒミコ亡き後に別の女性との間にできた娘を妻としましたが、再び部族間の争いが激化して、王の権威が揺らぎはじめ、そのタイミングを見計らって今度は天孫族がスサノオを暗殺して、ヤマト王権の基礎を築きました。
また、ヒミコの親族であった「台予」を「卑弥呼の妹」と言うことにして、天孫族主導の元に女王の座に祭り上げ、部族国家間の争いを再び平定し、第3期邪馬台国が誕生しました。
しかし、国が安定してくると台予の存在も不要になり、これもまた殺害して 4 世紀にはヤマト王権が確立され、ようやく国家としての形が固まったのです。
きょうだい同士の骨肉の争いと、権謀術数をめぐらして UKJ は「倭国」となり、勢力の拡張と政権基盤の安定化を図り、「ヤマト王権」が成立したという物語になります。
もうドロドロの展開を経て日本は誕生したと言うことです。
4 世紀は「空白の4世紀」とも呼ばれ、外国の文献から日本の名前が一切出てこないのです。
ちょうど、弥生時代~古墳時代への移行期にもあたり、当時のヤマト王権は外交よりも内政を重視していたものと思われます。
これが弥生時代(祖先崇拝)から古墳時代(首長霊崇拝)への祭祀法の変化にも如実に表れており、歪曲された形で神話にも物語が紡がれ、記紀神話として今に伝わっている次第です。
この情報が正しいとすれば、邪馬台国の謎は永久に解明されることがない事になります。決定的な物的証拠が葬られてしまっているからです。
「仙人」が視た邪馬台国像
この話はまだ終わりません。
私たちと協力関係にある人の中に、中国で考古学研究に裏方として携わっている霊能者がいます。
遺跡の発掘調査などの時に、どこに何があってどのような状態になっているかを事前に霊視して、そこを発掘していくと、霊視で見えたとおりの遺物が出土するのです。
本職は「仙人」なので当然と言えば当然です。
中国政府は表向きは唯物論的なイデオロギーを掲げていますから、霊感とか霊能者などは否定する立場です。
その一方で、特異能力者の協力も仰いでいるという二重構造もあって、昔からの霊能者の一族は保護されています。
そういう人々との接点を私たちは持っています。
私たちの仕事の依頼で来日したときに、日本の古代社会の様子について語ってくれた内容があります。
このとき来日していた別の仙人から詳細な情報を入手していたのですが、私たちの一族が共有している UKJ の情報と重ね合わせていくと、そこに共通点が出てきました。
1.邪馬台国の中心は出雲だった。
2.青銅器祭祀の中心も出雲だった。
3.巫女の存在はマツリゴトを行うに当たって重要な位置を占めていた。
この情報は、誰が霊視しても似たような結果が出てくるので、あとは関連する遺物が出土すれば裏付けとなるはずです。
「仙人」に邪馬台国はどこにあったのか、と訊いてみると即座に出雲にあったと回答しました。
では卑弥呼の正体は?と訊いたら出雲族出身の女性をヒミコに仕立て上げた、と回答しました。
その意味は神懸かる女性シャーマンを連合王国が担ぎ出して神格化しただけだと言います。
しかも、「ヒミコ」と呼ばれる人間は何人もいたと言うのです。なぜなら、人間は病気もすれば、怪我もします。
神の巫女であるべきヒミコが病気をすれば、その権威が疑われるから、何人も身代りをたてないと政権運営に支障をきたすことになります。
神の巫女ですから、一般人の目の前には出てこない畏れ多い存在としてひた隠しにしたそうですが、当時としては異例の長寿(146年 - 189年頃に既に高齢の女性として記述、247-248年頃に没とされる)と見えるのも、何人ものヒミコがいたからです。
本来なら不老不死にしたかったところでしょうが、さすがにそれは無理な話です。
当時の「クニ」は、現代の国家とは異なり、共同体単位の小さな部族の集落に過ぎませんでした。たとえば、吉野ヶ里遺跡を中心とする「クニ」にしても、その人口規模は最盛期で5000人程度と推定されています。
それに、弥生時代の推計人口は約60万人ほど。これでも縄文時代晩期の約8万人に比べたら増えていますけど、人口密度はとても低かったのです。
共同体には神を祀る神官と神降ろしをするシャーマンがいて、男女でマツリゴトを取り仕切っていました。弥生時代の日本は基本的に母系制社会であり、代々女性が経済活動、財政、財産を握っていました。
男性は共同体を強固にするための肉体労働と戦闘要員が主な役割です。
そのため、男王を表向きの顔として立てることはしても、実権はシャーマンの家系の女性が握っていたという構造があります。
こうした母系社会の構造は古代日本、少なくとも縄文時代から平安時代中期までは残っていました。
そこで、ヒミコ1号、2号、3号……と何人も女性をすり替えて、UKJ の存続を図ったというのです。替え玉なら何人もいました。つまり、ヒミコとは「職名」だったと思ってもらえれば良いでしょう。
つぎに、銅鐸祭祀について尋ねてみました。
すると、これは「鐘」として使用され、男性の英雄のシンボルでもあったと言います。鐘や鎧、山などをイメージした形が銅鐸の始まりだと答えました。
では勾玉の呪術的意味は?と問いました。
これは魂の源(生命力)を象徴化したものであると回答がありました。
出雲では、妊娠した女性を生け贄に捧げた時に腹を切った中身の胎児の形を勾玉のモデルにしたと言います。
また、出雲では犠牲祭祀が日常的に執り行われていて、臨月前の女性の腹の子も生け贄にしたと言います。
腹を割いて取り出した子は生きて泣いた、その生命力は強いと言われ、豊穣と繁栄のシンボルとして勾玉崇拝につながったと言うのです。
しかも、勾玉は女性が身につけて初めて効果(パワー)が生じると信じられていました。そこで、女性シャーマンの呪具としても使用されました。
男性が勾玉を持てば、子宝や出世の妨げになるから身につけないのが習わしだったと言います。弥生時代の倭国には、まだ「個人」という概念がありませんでした。
あくまでも、共同体=コミュニティが1つの単位であり、共同体存続のためなら今では残虐だと思われるような儀式もやったのです。
しかし、当時は神に捧げられる選ばれし者という扱いで、神聖かつ崇敬の対象にもなったのです。
共同体が崩壊した現代日本と、共同体が生活の基本単位だった古代日本の思考の違いを理解してもらえたらと思います。
他にも秦と陰陽道との接点に関わる情報もありますが、これは秦氏関係か陰陽道関係の話題として別の機会に述べることにします。
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