皆さま


私たち一族には、古史古伝というものがありますが、その内容は歴史書には載っていない事柄も多く、学術的に通説とされているものとは大きく異なります。

 

前回は、邪馬台国の時代に焦点を当ててみましたが、渡来系氏族が、日本の国家形成に対してどのような役割を果たしたのかについて、もう少し踏み込んだ話をいたします。

 

よろしくお付き合いくださいませ。

 


渡来人の移住

最近の考古学の研究によれば、弥生時代は、紀元前10世紀頃から、紀元後3世紀中頃までにあたる時代の名称になっています。採集経済の縄文時代の後、水稲農耕を主とした生産経済の時代とされています。

弥生時代後期後半の1世紀頃には、西日本各地に部族単位の「クニ」が形成されるようになり、3世紀に「邪馬台国」が日本にあったと中国の史書にはあります。その後、3世紀中頃から古墳時代に移行しヤマト王権の時代に移行していったと考えられています。

縄文時代(紀元前14000~紀元前4世紀)と弥生時代(文化)が併存する形で、以前のように縄文時代⇒弥生時代へという直線的な時代の流れを否定するような研究結果も示され、縄文人と渡来人が同じ地域に暮らしていたと考えられるようになりました。
 

 

この記事によれば、縄文時代晩期末と弥生時代前期が、交錯してくることがわかってきたと書いてあります。

縄文時代からある日を境に、急に弥生時代に切り替わったというよりも、少人数の渡来人とともに縄文人が水田稲作を受け入れ、次第に、大陸からもたらされた文化に染まっていったことがわかってきたというのです。

当ブログでは 高知県の居徳遺跡で殺傷痕のある人骨が見つかり、「縄文時代の戦争」と騒がれた件を取り上げて考察しています。

 


確かに、最初は高度な技術を持った渡来人が少数派で、縄文人の方が多数派でした。

けれども、大陸から流れてきた渡来人には、縄文文化とは全く異なる新しい技術を携えて移住してきたわけで、これを縄文時代の日本列島に伝えたのです。

 

日本では縄文人と渡来人との混血は、比較的平和裏に進んでいったと言われていますが、地域によっては「衝突」も起こっていました。

圧倒的に進んだ技術を持っている渡来人が、縄文人と混血していき、数百年かけて九州から東海、北陸地方までを「東進」していき、西日本から弥生文化が広まっていきました。

考古学者・金関恕は、『弥生文化の成立』(角川選書)の中で、弥生時代の始まりを、次のようにまとめています。

 

 


1.イネは遅くとも縄文時代後期に日本に伝わり陸稲として栽培されていた。

2.朝鮮半島南部とは密接な交流があり、縄文人が主体的に必要な文化を取捨選択した。

 

3.縄文人と渡来人は当初棲み分けを果たし、在地の縄文人が自主的に新文化を受容した。
 

4.まとまった渡来人の移住は、弥生時代初期ではなく、そのあと。

自主的に新文化を受容したかどうかについては、先述したように地域差も大きく、弥生人=渡来人が穏便な形で縄文人の自主性を尊重したとは言い切れません。

 

インカ帝国がたった数百人のスペイン人によって、いとも簡単に滅ぼされたのと同じような出来事もあったはずです。

いずれにしても、渡来人は最初は小集団で大陸から直接、または半島経由でポツポツとやってきた「開拓者」であったことは確かでしょう。



遺伝子から見た渡来経路

人類の遺伝子情報が既に解明されている今、東アジアで起こった人の移動経路も次第に分かるようになりました。

縄文人の遺伝子は、現在のチベット系民族と類似しており、北方から北海道、東北地方に流入した「マンモスハンター」タイプと、南方の民が台湾-琉球諸島-南九州へと流入した「海洋部族」タイプがあり、それらのグループが混ざり合って縄文人という比較的遺伝情報の均一化された人々が縄文文化を開花させたと言われています。

ただ、縄文人の人口分布は「東高西低」であり、縄文時代晩期の縄文人の人口は推定8万人程度しかいなかったのです。

 
<社会実情データ図録:https://honkawa2.sakura.ne.jp/index.html

 

上図のように紀元前3世紀には縄文人の人口は8万人弱であり、そこへ渡来人が移住していった結果、西暦7世紀頃には600万人近くまで人口が増加しています。

 

弥生文化が、日本文化の源流として、次の三つの特性を持っていたという指摘があります。

 

 

 

参考文献:広瀬和雄 (編) 2007 弥生時代はどう変わるか: 歴博フォーラム 炭素14年代と新しい古代像を求めて  学生社

1.水田稲作や金属器の製作・使用に代表される大いなる技術革新で、文明社会のいわば正の側面である。

2.第二は、社会の階層化や戦争や環境破壊など、その負の側面とも言えるものである。

3.第三は、そうした正・負の要素が中国王朝を中核にした東アジア世界のなかで動きはじめる、いうならば国際化である。

 

 

要するに、渡来人は高度な技術を持った技術者でもあり、農業に必要な潅漑、治水、水理、土木技術なども知っており、加えて「戦争慣れした集団」でもあったのです。

渡来人が中国の技術を持ち込み、新しい文化ももたらし、土地争いや水争いで戦を先導していった政治的、宗教的リーダーになったことは想像に難くはありません。


渡来人は、多様なルートから日本の各地に上陸して生活の基盤を作っていったのです。

最近の研究では、鳥取県の青谷上寺地(かみじち)遺跡の弥生人のDNA分析から、2世紀頃の弥生人の人骨から採取されたミトコンドリアDNA分析により、中国大陸の様々な地域をルーツとする人々が同じ場所に住んでいたことも分かっています。

 

しかも、Y染色体DNAの解析では縄文系が多かったこともわかり、日本の広い地域で縄文人の弥生化も進んでいたことがうかがえる結果となっています。

「大陸と交流 遺伝的に多様」 鳥取の遺跡、弥生人骨解析結果(2019年3月12日付 産経新聞より)

 


元々、この遺跡から出土した弥生人の人骨は殺傷痕があることで知られていて、弥生時代の「倭国大乱」を示すものではないかとの見方もされています。


私たちの歴史観からみた秦氏

 

ここまでは縄文から弥生へ移行するときに起こったであろう出来事について、サラリと見てきました。

 

この先は渡来系氏族、秦氏に関する独自の見解を展開していきたいと思います。

 

私たちに伝わる「伝承」によれば、秦氏の渡来は

 

①徐福集団の出雲上陸に始まり

 

秦族(秦王朝の本流:王家の子孫たちを含む)が北部九州に移住し

 

その後数百年の時の流れを経て

 

③秦に関係のある職能民=秦人が朝鮮半島を経由して渡来してきた

 

となっています。

私たちの歴史観では、秦族と秦人とを区別します。これを合わせて秦氏と定義します。

 

秦氏は、日本への渡来人の中で、古代から中世にかけて重要な役割を果たした氏族です。彼らは主に中国や朝鮮半島から来たとされています。秦氏は異なる時代に複数の波で日本に渡来し、政治、文化、経済、宗教の面で影響を与えました。

古代においては、秦氏は倭王権や豪族たちの中で重要な地位を占めていました。彼らは技術や文化の伝播、政治的な結びつきの形成などに貢献しました。また、秦氏は仏教の伝来にも関与し、仏教の広まりに寄与しました。

 


京都 太秦 広隆寺

中世になると、秦氏は武士としての地位を築きました。彼らは武家社会において有力な家格を持ち、戦国時代においては各地の戦国大名や武将として活躍しました。また、秦氏は儒学や中国の文化を広める役割も果たしました。

 

秦氏というと、『日本書紀』応神天皇条に、多数の民を率いて渡来した弓月君のことが知られています。山城国葛野郡太秦あたりを本拠とし、近畿一帯に強い地盤を築いたといわれます。

 

京都 太秦 大酒神社 秦始皇帝、弓月王、秦酒公を祀る

 

京都 秦氏の創建した松尾大社

 

ですが、秦人は秦氏の中でも後発の方にあたるグループであり、新しい方の秦氏となります。弓月君も、自らの出自を秦の始皇帝の末裔と称していました。

 

では古い方はどうなるかというと、始皇帝による命を受けて不老不死の仙薬を求めて「蓬莱」という東方にあるとされる場所へ赴いた徐福の集団が一つには該当します。

このことは、司馬遷の『史記』にも、「東方の遥か海上に蓬莱・方丈・瀛州という3つの神山があり、ここには仙人が住んでいます。童男童女とともに不老不死の仙薬を捜しに行くことをお許し下さい。」と徐福が始皇帝に願い出たと記述されています。

始皇帝は徐福の申し出を快く受け入れ、童男童女三千人、五穀の種子、百工(各種技術者)を派遣 し、徐福に託したのでした。

 

徐福 渡来の想像図

 

徐福は秦の方士でした。方士とは巫師(呪術師、祈祷師)、錬金術師、薬剤師、及び占星術・天文学に秀でた者のことです。

 

ただし、私たちの見解では、徐福は小集団で移動しており、出雲にたどり着きました。徐福は現地の出雲族と婚姻関係を結んで出雲の国造りに貢献しました。

 

なお、日本の各地に徐福伝説がありますが、これは徐福本人が渡来したと言うよりも、その子孫が散らばっていって住み着いたと言う方が正しい表現になります。

 

出雲口伝では、徐福が2回目の渡来で北部九州に上陸して、その後「物部氏」の遠祖となった話が出てきますが、これは部分的に私たちの伝承と一致します。

 

出雲の地では、弥生時代中期後半(紀元前1世紀~1世紀)ころには、青銅器祭祀が行われており、四隅突出型墳丘墓の存在からは2世紀~3世紀にかけて王朝と呼べるような「クニ」が山陰-北陸方面に存在したことが示唆されています。

 

銅鐸祭祀は近畿地方が発祥だと通説では言われていますが、これはむしろ徐福渡来以降の出雲族からもたらされたもので、出雲による祭祀の影響力が畿内にも及んでいたのか、あるいは畿内に移住した天孫族とその関連豪族が出雲式の祭祀を取り入れたのかのいずれかです。

 

たとえば、銅鐸の原型は中国の戦国時代にあったの遺跡からも出土しています。以下のような情報源もあります。

 

https://www.shikoku-np.co.jp/national/culture_entertainment/20060209000309

 

次に、秦が滅亡した後に日本に移住してきた秦族ですが、こちらのグループは徐福集団とは異なり、北部九州に上陸しています。

 

秦の時代には、すでに西洋との関係があって、西域を通じて人やモノの往来も存在していました。始皇帝は、アレクサンドロス大王の遠征によって中央アジアにもたらされたギリシャの彫像の影響を受けました。

 

 

 

兵馬俑を製作したときに参考にしています。その他にと呼ばれる武器もギリシャのものを参考に作られています。

 

こうした技術も日本移住後には次第に失われていきました。現地調達できることも限られていたし、秦の時代のものを日本列島にすべて持ち込んだわけでもなく、その後数百年の間に忘れられてしまった知識もありました。ただし、北部九州は朝鮮半島や大陸との交流があり、人やモノの往来もあったので「海外情勢」については把握していたようです。

 

それから時代は下って……

 

7世紀の「隋書」「秦王国」に関する記述が認められます。

「翌年(大業4年 608年)文林郎裴清を倭国へ遣し、百済から竹嶋に到り、南に耽羅国と都斯麻国(つしまこく?)(対馬)を経て大海に出、東に一支国、竹斯国(ちくしこく?)(筑紫)、また東で秦王国へと至る。その人々は華夏(中国人)と同じようで、なぜ夷州(野蛮な国)とするのか不明なり。」(隋書より引用)

この場合、そのそも時代が違うので、これが秦族の王国だとは言い切れません。後発組の秦人が移住した場所と考えた方がいいでしょう。昔の豊前国にあったものになります。

 

後発組の秦氏は、最初に豊前国に入って拠点とし、その後東へ移動していきました。

 

彼らは大和国、山背国、河内国、摂津国などに入って、土木や養蚕、機織などの技術を発揮して繁栄することになったのです。

 

秦人の居住地

 

1.山背国(京都府)の秦氏…太秦、深草

 

2.河内国(大阪府)の秦氏…讃良郡(寝屋川市)ここにも太秦という地名がある。

 

3.摂津国(兵庫県+大阪府)…豊嶋郡(池田市、豊中市、箕面市)

 

4.四国…伊予国(愛媛県)、阿波国(徳島県) 

 

というように、西日本が秦人の主な活動地域でした。

 

いわゆる邪馬台国の時代については、過去記事で詳しく述べているので、ここでは簡単に触れるにとどめます。

 

邪馬台国時代の3つ勢力

 

クニの連合のパワーバランスの変化によって、出雲族の祭祀によって束ねられた部族連合、また北部九州にいた秦族を中心とした筑紫のクニがありましたが、出雲と北部九州とは対立することはありませんでした。

 

なぜかというと、始皇帝の家系と徐福のそれは元々同族だったからです。始皇帝の姓は嬴(えい)ですが、徐福の家系も同じでした。血縁集団としては同じなのです。

 

そこに、1世紀頃に九州に渡来した天孫族が北部九州を攻め、さらに出雲との対立を起こして、西日本の部族間の関係性も目まぐるしく変化しました。

 

天孫族はクニが乱立して手狭になった北部九州から、開拓可能な土地の広がる近畿地方へ展開していき、畿内に部族連合をつくりましたが、出雲の勢力もなかなか引くこともなく、部族同士の小競り合いが収まらなかったのです。

 

そこで、女王を立てて緊張を緩和し、祭祀の力でゆるやかに西日本をまとめようとしたのが、いわゆる邪馬台国でした。天孫族の畿内連合にもヤマトの地に拠点が作られていました。ただし、祭祀に関わる女性は一人とは限らず、何人もいました。

 

政治と祭祀の拠点は筑紫連合、出雲連合、ヤマト連合の3つにあって、連合王国という形式になっていました。

 


古墳時代以降の秦氏

紀元3世紀半ば、邪馬台国が解体して、天孫族によるヤマト王権が権力の座に着くようになりました。また、出雲族を取り込むことにより、天孫族は秦氏による協力を得ることができたのです。

とは言っても、当時の大王(おおきみ)の地位は不動のものではなく、各地の豪族の意向によって大きく左右されるという有様でした。

出雲族の王国は消滅しましたが、秦氏は大陸・半島との結びつきも深く、渡来系のネットワーク抜きにして政権運営は成り立たなかったのです。

祭祀にしても出雲王権による銅鐸祭祀から、首長霊を奉る古墳祭祀に取って代わられるようになり、大陸や半島のとの交易を通じて、クニを強固なものにしていく必要もありました。

ちょうど、そのタイミングで朝鮮半島南部を拠点にしていた秦氏=秦人を、ヤマト王権は迎え入れることになったのです。

彼らの技術力による支援を得るために、ヤマト王権は大勢の秦氏を日本に移住するように便宜を図ったわけです。


秦氏以外の渡来人も日本へ移住するようになっていきました。

秦氏の側から見れば、自分たちが実権を握って裏からヤマト王権を操作することにより、膨大な利益を得ることにもなります。

 

また、自分たちが倭国に移住することによって「新天地」を開拓して、自分たちの安住の地を獲得することによって倭国を第二の故郷として繁栄を目指すことにつながります。

こうして4世紀以降、秦氏はヤマト王権のフィクサー的な存在になって、古墳の築造をはじめとする巨大プロジェクトに参画して、勢力を拡大していったのです。

 

まとめ

最近、なぜか秦氏に関する情報が出回るようになっています。不思議なことです。

 

私たちもその端くれにはなるわけですが、秦氏と一括りにできる巨大組織などは存在せず、渡来時期や部族の違いによって全く別の集団、派閥に分かれています。かならずしも一枚岩ではありません。

 

なので、近畿の方へ流れていったグループ、四国に定着したグループ、あるいは九州に留まったグループ、それぞれに独自の展開をしています。

 

それに、秦氏の中でも、巫師として存続してきたのが私たちのような存在で、日本の歴史の中で神社仏閣、神と仏の祭祀に深く関わってきました。祭祀専門の集団です。

 

秦氏がユダヤ人だったとか、原始キリスト教を持ち込んだとか、その手の話との接点はありません。

 

秦氏の祭祀については、別の機会に譲りたいと思います。

 

(不定期に続く)

 

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