皆さま

現代の宗教は、大きくモノに依存しています。絢爛豪華な神殿、目を見張るようなきらびやかな仏像、お札にお守りなど各種グッズも充実しています。お金さえ出せば、わざわざ神社仏閣に行かなくても、御朱印など神仏に関するモノもネットで事足ります。

これに対し、古代の祭祀は、神殿を造るにも、資材の調達は困難をきわめたし、あり合わせのものを集めてきて粗末な祭壇をこしらえ、心ばかりの品々を供えて、自然神や祖霊神に満足してもらおうと試みたに違いありません。モノが絶対的に不足しており、モノを加工する技術力も低かった時代の祭祀は、現代のようにふんだんに物資を用いた祭祀はできなかったでしょう。

しかし、ムラが連合してクニを形成し始めた時代になって、クニの長を頂点として共同体連合を統率し、人心を掌握するための政治的なシステムを構築していく必要が出てきました。それは宗教・祭祀を共有し、祭祀を通じてクニの連帯を強化する祭政一致の神権政治のシステムです。

 

神権政治の祭祀には、当時の技術の粋が結集され、ありとあらゆる<モノ>が神への供物として捧げられたのです。捧げ物の中には人も含まれていました。

 

今回は、神々に生贄を捧げる祭祀の意味について深く考えてみます。

 

よろしくお付き合いくださいませ。

 

生贄を求める神々

神権政治における祭祀は中国の古代国家、殷(商)(紀元前17世紀頃 - 紀元前1046年頃)にその萌芽を認めることができます。

 

殷の時代、王はさまざまな決定をする際にかならず占いをし、神の意思を確認して命令をくだしました。祖霊や自然神も重視され、神々に対して動物や奴隷などを生け贄としてささげ、祭祀を行うことも王の重要な役割でした。

たとえば、殷墟からは14.000体を越える「首なし人骨」が出土しています。王の埋葬に際しても、数千人の人間が生贄として捧げられ、数百頭の馬を犠牲にしていました。

 

犠牲になった人間の多くは、殷に服従しなかった部族だったと推察されますが、生贄を確保するために戦争を仕掛けることすらあったといいます。また、王室の定期的な祭祀の際にも、異民族の人間、牛、羊、犬などの動物を生贄に捧げていることも確認されています。

 


殷王墓から出土した生贄の人骨と馬の骨

 

 

殷墟:犠牲祭祀の紹介は23:46あたりから YouTubeより

     

このように、神権政治では、犠牲祭祀が執り行われ、王の権力は神と一体視され、政治、経済さえも祭祀のシステムの中に取り込まれたのです。

 

人間も神への供物にしてしまう。

 

基本的人権の1つである生存権(自由や生命を脅かされずに生きる権利にとどまらず、人間としての尊厳を持って生きていくために必要な物資、基盤、環境等の条件の確立を国家に対して要求する権利)の概念さえもなかった時代の話です。

同じ事は弥生時代の日本にも当てはまります。規模こそ違えども、およそ2000年前の日本においても、祭政一致のシステムは存在しました。

 

少なくとも、弥生時代の出雲と対馬において神権政治が行われていた、というのが私たちが独自に得た情報です。そこでは、現代に生きる私たちの感覚では理解できないような血にまみれた儀礼が執り行われていました。
 

 

出雲の現神(あきつかみ)
 

私たちは、これまでに何度も出雲に巡礼を行い、現地でサイコメトリーを行っています。

 

出雲地方でも出雲大社のある杵築には、出雲王国とでも呼べるクニが存在したのではないかということは、考古学的発見によっても裏づけられています。

 

私たちが特に注目しているのは古代神殿に関する霊的情報です。

 

 出雲大社の背後にある八雲山

出雲の祭祀がかなり血なまぐさいものであることは、すでに述べたとおりです。

 

 

 

 

杵築にあった神殿では、宇豆柱を建てる前に、その下に生贄を生き埋めにしています。また、山腹の神殿部分の建設にあたっては、生贄を木に縛り付けて、鳥につつかせるというやり方で完成をめざしました。

工事は当時の技術的にもきわめて難しく、何度も工事中に倒壊し、当初の計画よりも低いところに神殿を建ててようやく完成しました。しかも、神殿が倒壊するたびに、生贄の数を増やして、神の加護をもらおうとしたのです。

当時は、そもそも「個人」という概念がなかったし、生贄は「神の使い」として、神と一体化するという尊い役目として神聖視されていました。生贄には子供が使われることもありましたが、親も悲しみというよりは、神聖な役目を担う我が子に畏怖の念さえ覚え、誇りに感じました。いずれにしても、生きたものを、そのまま神に捧げる事に意味があったのです。


銅剣を地中に埋葬する祭祀においても、子どもの生贄を捧げています。これは子どもの生命力を剣に宿らせるという呪術的意味を持っていました。

 

子どもたちは生き埋めにされました。その際に、瀕死の状態、身体の衰弱している子供が選ばれることが多かったのです。そうすることで、子どもの魂は神と一体化すると考えられました。親も我が子が神の使いになって、自分たちの集団を守ってくれると信じていたわけです。

また、古代の出雲では、奇形の子供を食べる風習がありました。これも、神が与えたものとして神聖視されており、それを食することで神と一体化できると考えられていたからです。このような風習はカニバリズムと呼ばれるものです。

話を高層神殿に戻します。どうして、古代出雲人はそこまでして高さにこだわったのでしょうか?

 

それは、彼らの世界観に根ざしています。神の座である天に近づこうとしたというのも、理由の1つですが、彼らの世界観では天と地の中間に神殿を建設することで、天と地(海)の両方の<パワー>をもらおうとしたからです。

 

天の神は自然の恵みを与える神であり、万物を活かす自然神でした。これに対し、水平的な軸に沿った神の概念は少し異なり、海の向こうの「常世の国」からやってくる<異邦人>を神と見なしたのです。

すなわち、自分たちが知らない知恵と技術をもっていた渡来人を<神>とみなし、生活の道具を教えてくれる<技術神>として祀りました。高度な文化を持った人々を、出雲土着の人々は神と見なしたわけです。

 

そういう神々の中に、ある渡来集団もいました。出雲の古代信仰は、自然神信仰に加えて、未知の人を神と見なす<現神>(あきつかみ)の概念との交錯によって成立したというのが私たちの得た結論です。

 

日本神話に登場する神々の多くは人神信仰に根ざしたものが多いのですが、これも古代社会では祖霊を神として敬う心性があったためです。

 

その中には海の向こうからやってきて、人々に高度な知識と技術を伝えた「まれびと」も含まれていました。

出雲の場合も、中国や朝鮮との交流があったことは間違いないわけで、海の向こうからやってきた人を神に押し上げていったものと思われます。

 


対馬天道信仰のタブー
 

場所を長崎県に転じます。

 

対馬の天道信仰は一種の太陽信仰で、神道の原型になるような対馬独自の祭祀から発生したものです。

 

天童法師という超人伝説に姿を変えて中世以降伝わっていますが、その起源ははるか昔にまで遡ることができます。少なくとも弥生時代の神祇信仰にまで戻ってみることができると私たちは考えています。


天道信仰の中心地は南部の多久頭魂神社と北部の天神多久頭魂神社ですが、どちらもご神体は「山」です。

対馬南部には照葉樹原始林の広がる龍良山を中心にして、北側の麓に天道法師祠(裏八丁角)、南側の麓に天道法師塔(表八丁角)が建っています。どちらも聖地であり、特に南の表八丁角という場所は、「恐ろし所」といって、近寄ると祟りがあると言われ、地元の年配の人は今でも近寄るのをいやがります。(対馬に住む人から以前教えてもらったことがあります)

 

対馬天道信仰(裏八丁角)の拝殿

古びて、何の変哲もない場所のように見えますが、霊的には強烈なパワーが土地全体から出ている場所です。

 

対馬天道信仰(表八丁角)の「オソロシドコロ」

原始林の中に天道法師の塔はひっそりと建っています。杜の精霊たちの声が聞こえてきそうな場所です。

 

地元では、ここを「恐ろし所」と呼んで神聖視しています。

 

なぜ祟りがあるのか?それは一種のカモフラージュです。


サイコメトリーの結果を以下に要約しておきます。

 

1.ここは自然のエネルギーの集中する場所であり、霊能力を身につけるための儀礼の行われた聖地だった。塔は以前は何カ所もあり、シャーマンたちが塔の周りをグルグル回りながら「天のエネルギー」を得る儀礼を執り行っていた。現存している塔も以前は、今よりずっと高かったものが崩れて今のような状態になっている。

 

2.ここで修行をしたシャーマンには極端な効果が現れ、ブラック系とホワイト系のいずれかになってしまうため、この場所が持つ特殊な効果を隠すために、祟りのある「恐ろし所」であると吹聴したのである。

 

3.この地は生命エネルギーを増幅する意味を持った場所でもあった。地元の人々は、子どもが生まれると天の神に感謝して、この塔に生まれたばかりの赤ん坊を横たえて、健康に育つように祈りを捧げた。子どもが15歳になったときに、もう一度通過儀礼をこの塔の前で行うしきたりがあったはず。

 

4.天童法師の塔がある表八丁角は、葬地でもあった。死期の迫っている者や死者は現在、塔の建っている場所のあたりに横たえられた。やがて、死体は鳥や獣、ウジ虫、微生物に食い荒らされ白骨化していった。死者の身体は山の神に捧げられ、その魂は祖霊化して氏神になっていった。山の神の使いとは、龍良山に生息している鳥獣、昆虫の一切である。

 

このように、墓地、葬地とは必ずしも「穢れた場」ではなく、むしろ神聖な場(祭場)でした。

 

死骸が朽ち果て、その合間から草木が生え、やがて神の住まう杜になる。祠が死者の葬られた杜に、やがて建つようになった。

 

八丁角が「おとろし所」(恐ろしい祟りのある所)と畏れられたのは、そこが氏神化した死者の魂が住まう聖地であり、人間の生死に関わる重要な儀礼の行われた場所だったためではないでしょうか。

 

 

「ヒコ」を産むための儀式


ところで、対馬の古代信仰には、浦々に海の神、日の神を祀る祭祀場もあって、共同体のリーダーでもある神官が儀式を執り行っていました。共同体の中で神に選ばれた人が神官を務めるわけですが、そのためには特別な才能や能力をもった子供が生まれてくる必要がありました。

その子供は神の使い、言い換えると神と人をつなぐ存在でした。天童とは神童であり、天の神、日の神の息子である必要があったわけです。すなわち、日の子供=日子=ヒコとなります。

世継ぎとなるヒコを産むための特別な儀式がありました。

 

引き潮の渚で、朝日の昇る時刻に、男性の神官と女性の巫女が交わりを持ちました。その巫女も共同体の中から特別に選抜されて育てられた女性であり、神を感得しやすい特性を持っていた処女が選抜されています。

交わる場所、時刻は引き潮の渚、つまり潮が満ちたときには海になる遠浅の場所で、日の神の魂が入るためには、朝日が昇る時刻を選ぶ必要がありました。

天道法師縁起には処女懐胎の物語が展開されている。天道法師の母は太陽の光に感精して、法師を身ごもったと伝えられています。実際はそこに男女の性愛的儀礼があったというのが私たちの解釈となります。

 


対馬の朝日

男女交合の後、巫女は龍良山の北側の祭祀場まで連れて行かれ、そこで妊娠したかどうかを確かめられました。もし、妊娠していなければ、巫女はその場で殺されました。妊娠がわかったときは、臨月までその場に籠もり、神職以外の人間との接触はいっさい断たれたのです。

臨月になり、陣痛が始まる頃に、急いで龍良山を担いで登り、今度は南側に降りて塔のある場所に臨時の産屋を作り、出産しました。

 

生まれた子どもが男子ならば、<天童>である可能性があるとされ、子供は「神の子」として丁重に育てられましたが、ある程度の年齢が来ると本当に天童なのかどうかの「審査」が行われました。

 

もし、子どもに特別な才能がないとわかったとすると、この子は神の子ではないと判断されて、生贄として海の神に捧げられました。「蛇瀬」などの祭祀場で犠牲祭祀が行われたのです。
 

対馬の蛇瀬 ペルセウス=アンドロメダ型の伝説が残る

 

蛇瀬島伝説

往古この瀬にしばしば悪害をなす蛇が住んでいたが、応永の頃(室町時代)宗総左衛門澄茂という武将が弓で退治したという伝説と、三月三日の干潮時、瀬上に現れたこの蛇を、人身御供の乙女の代わりに火桶を飲ませた里人の知略により退治した伝説二つが複合し、この瀬にまつわって伝えられている。

 

 

こうして代々神官たる男性、「ヒコ」が継がれていったというのが、私たちの得た情報となります。ヒコ何世というふうに、ヒコは世襲されていったのでしょう。ヒコになった人は、先代のヒコが亡くなったときには、その力を受け継ぐ儀式として、彼の肉を食べるカニバリズムの儀礼も行われていました。

こうした儀礼が行われていたのが、原始天童信仰であり、これは中国~朝鮮半島から入ってきた知識に基づくものだったようです。

 

優生学的発想もあったようで、特別な能力(霊能力にかぎらず優れた才能の持ち主)をもった者だけが神に仕える人物としてふさわしいと考えられ、共同体の代表として、念入りに選抜されたわけです。

 

まとめ


中国の殷王朝は神の意志を占うために大勢の人間を生贄に捧げました。それは殷に反発する勢力に対する見せしめの意味もありました。しかし、やがて殷は周辺諸国からの侵略を受けて、滅びる運命をたどりました。

 

その意味で、神は決して人間を供え物としては要求していなかったというべきです。

現代人の感覚からは残虐としか言いようのない儀礼には、何か特別な意味が込められていたのかもしれません。

 

民俗学の研究によれば、生贄とは産まれたときから初なままで養育され、何の罪穢れも知らない無垢な状態の人間、動物を希少価値のあるモノとして神に捧げることを意味します。

 

人間も神なる自然から産み出されてくるモノであり、その神の怒りを鎮めるため、あるいは加護を得るために、もっとも貴重なモノ=人間を捧げたのでしょう。

犠牲にされた人間の魂は神なる自然に還っていき、それがまた巡り巡って共同体に恵みを与えます。共同体全体の運命を左右しかねない重大な事態に陥ったとき、その局面を打開するために一番大切なモノを捧げること、すなわち人の命を捧げることを古代人は思いついたのかもしれません。

 

モノが乏しかった頃の話、個人主義という思想が確立するずっと以前の物語です。

 

参考文献


小松和彦(責任編集)2001 怪異の民俗学7 異人・生贄 河出書房新社
永留久恵 1994 対馬歴史観光 杉屋書店
永留久恵 1982 対馬の歴史探訪 杉屋書店
永留久恵 2001 海童と天童-対馬から見た日本の神々 大和書房



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