皆さま

 

出雲王朝は、スサノオやオオクニヌシが支配していたとされる王朝です。出雲王朝の支配領域は、現在の島根県(出雲国+石見国)と鳥取県西部(伯耆国)ではないかと推定されています。山陰地方には有力豪族がいなかったために、未開地が多く、出雲王朝による統一は簡単だったと考えられます。


かつて、スサノオやオオクニヌシの出雲王朝がこの国を支配していたと言います。 韓国から渡来したスサノオは人々を苦しめる豪族=ヤマタノオロチを退治し、出雲平野に豊かな王国を築くがやがて衰亡。 南九州から東征してきた天孫族に国譲りを迫られたといいます。

 
一方、近年の纏向遺跡発掘の成果により出雲王朝も神武東征も否定されています。2世紀に弥生文化が崩壊した後、主たるクニの話し合いでヒミコを王に擁立し纏向を首都とした新しい連合国・ヤマトが3世紀初頭に建てられました。出雲は製鉄技術でヤマト国に貢献しましたが、3世紀後半、出雲はヤマト国と対立し滅ぶことになります。

 

前説として、ザックリと出雲王朝の興亡についてまとめましたが、こんなストーリーで集約できるほど、出雲の歴史は単純なものではありません。

 

今回は、古代出雲人の祭祀心理について巫師の観点から論じることにします。

 

よろしくお付き合いくださいませ。

 

出雲の高層神殿

 

まず、出雲の高層神殿の話から始めましょう。

 

2000年に発見された神殿柱は鎌倉時代のものでしたが、同じような建築物はもっと昔から存在しました。掘っ建て柱の超高床式倉庫を連想してもらえればいいと思います。

 

古代神殿の御柱跡(2001年11月撮影)

 

大国主命の像
 

出雲人は天にカミの座があると考えており、いつも天を意識していました。できるだけ高い建築物を造ろうとしたのは、少しでもカミのそばまで行って、カミとの交信を試みようとしたためです。


神殿に登ると下界にいる人々は豆粒のように見えます。上から見下ろす眺望は「カミの視点」であり、神官は自分がカミのようになった気分を味わうことができました。

 

朝日が神殿を照らし出す。その太陽そのものがカミです。そして太陽光が神殿を照射することによって、神殿自体が熱せられます。太陽光の熱線によって、神殿の中にいる神官の体も温まります。太陽熱を浴びる行為が「カミのエネルギー」をいただいたという儀礼的意味でした。


下界をカミの視点で眺めること、身体がカミの熱で温められることで、神官はトランス状態に入り、ご神託を人々に告げました。


現在の出雲大社の神殿


高層神殿の周囲には、供物を供えるための高床式倉庫も建ちならび、人々がカミと出会うために神域内に出入りしていました。中でも高層神殿はカミの天降る神聖な場所だったのです。


当時、雨、風、雷、地震などの自然現象はすべてカミの働きであると考えられていました。

 

雷が落ちたときは、今でもドキッとしますが、当時の人にとってはもっと恐ろしい「カミの怒り」でした。


そこで、彼らはこの恐怖をうち消し、心を奮い立たせるために、自分たち人間にも、これだけのことができるという意気込みを誇示し、荒ぶるカミを鎮めるための儀式を行ったのです。


それは銅鐸を鋳造して大地に埋納し、天のカミに張り合うという行為でした。こうして戦いや天変地異の度に、呪具として銅鐸を埋葬し、士気高揚を試みたのです。


その他にも謡ったり、踊ったり、お酒を飲んで騒いだり、カミを喜ばせるための行為も<祭>として不可欠の要素でした。


さて、高層神殿のご神前に出ていくのを許されたのは首長やシャーマンだけでした。

 

冬は太陽光も弱まるので、とても心細く、また熱線をいっぱい浴びてエネルギーをもらえるよう、太陽神が復活するのを真剣に祈りました。これが、「冬至の儀式」です。


出雲人にとっては太陽の恵みは農耕にも直結するわけで、まさに死活問題だったのです。


青銅器を利用した祭祀については、サイコメトリーから次のような情報を得ることができました。

 

銅鏡は太陽神の象徴であり、反射された光を見て人々は畏れ、ひれ伏しました。光輝くものはいずれも畏怖すべきものであり、崇高なるものとして珍重されたのです。


また、人間の手によって造ったものを見せ「ここまでわれわれにはカミに張り合うものを造ることができるのだ。どうだ見てくれ」という心情は独特のものですが、その半面、いつもビクビク、オドオドしながらも、精一杯意地を張っていた部分もあったのです。
 

もう一つつけ加えておくと、「火」も古代出雲においては重要な儀礼的意味がありました。火も「日」に通じるので、火を拝むことは太陽を拝むのと同義だったようです。

 

なぜ出雲人は高層神殿を建てたのか?

出雲大社の高層神殿の柱跡も出現した頃によく見に行ったものです。

 

「雲太」。すなわち、平安時代の48メートルもある神殿は実在したことがほぼ確定していますが、その前にあったと伝えられる96メートルの超高層神殿の実在性については疑わしいとされています。


しかし、発想を変えると高さ96メートルの神殿は建設可能です。

 

サイコメトリーによれば、八雲山の一部を削って平地を作り、そこに神殿を造り、神殿に通じる長い木造の階段を架けたのです。

 

しかも、階段を支えるには人工の柱だけではなく、生木を利用していました。自然林を利用して、しっかりと根をおろした大木を「柱」がわりに使ったのです。こうすれば比較的安定した神殿を建設することは可能だったといいます。全て人工物で作らなかったという点を考慮に入れてみたら良いのです。

 

ならば八雲山を掘ってみたら、何か手がかりになるものが見つかるかもしれないと思いますが、なにぶんそこは禁足地。ご神体山=神奈備を踏み荒らすなど恐れ多いことです。


平安時代の雲太の模型
 

当時、出雲大社のある杵築地区にはクニと呼ばれる共同体が存在し、王を中心として神権政治を行っていました。宗教(祭祀)と王権は一体化しており、宗教と軍事も不可分の関係にありました。


王権にはブレーンとなる人々がいました。彼らは土木技術、医薬技術はもちろん、呪術に関する知識も持っていた頭脳集団でした。

 

その主体は渡来人でした。彼らは、出雲の人々に技術指導を行い、宗教=政治の仕組みについても影響を与えました。

 

今の杵築地区は地政学的に見ても、重要な戦略拠点であり、海の幸、山の幸などの食料はもちろん豊富でした。航海をするにも貿易の中継地点として重要な港もありました。宍道湖から玉作温泉にかけては瑪瑙などの玉も出ました。稲作にも適した湿地もありました。


出雲の地は、喉から手の出るほどほしい土地だったのです。だから、部族間紛争、外敵の侵入も起こりました。


当時の「戦争」は、金属器は貴重品だったため、石礫や石器を使った戦いが中心でした。槍や弓も使いましたが、あまり大勢の人間が争うと労働人口が減少して生産力の低下につながるために、威嚇や脅しを多用したのです。

 

そのための呪物が銅鐸だったのです。


神殿の中に祭祀を司る神官=シャーマンらは銅鐸を吊し、うち鳴らしました。1つ2つではありません。たくさんの銅鐸を吊して「神の声」として鳴らし、外部の者に恐れを抱かせたのです。

 

銅鐸はうち鳴らすととても大きな金属音がします。これを同時に鳴らせば、かなり遠くにいても大音響が聞こえ、恐怖心をあおる効果がありました。


神殿内部には今でもオオクニヌシを祀る祭壇との間に間仕切りがあって、神殿を開けてもご神体は見えないようになっています。オオクニヌシは、西の方角を向いて日本海をにらむように鎮座しています。当時も仕切りを作り、その向こうに神官が身を潜めて銅鐸を鳴らすのが役目でした。

 

銅鐸はまた外敵の襲来など警鐘の役割も持っていました。


とても高い神殿を造ったのは、見る者に畏怖の念を起こすためです。人間は上から見下ろされると萎縮し、服従しやすくなります。彼らはこの視点の心理的効果を知っていて、心理戦として部外者に海の向こうからもひときわ目立つ建築物を見せつけることで、戦意を喪失させ、士気を低下させるために「高さ」を利用しました。

 

これを社会的威光の効果と言います。「かしこきもの」とは<高いもの>だったのです。


杵築のシャーマンはまた、この神殿に人間の生け贄を捧げていました。成人だけでなく、生まれたばかりの赤ん坊も生け贄にしています。そしてその生け贄を人々に見せつけるということもやっていました。


彼らは生まれたての命を神に捧げることで、人々にこのクニを守るだけの力があることを示そうとしました。命は新しければ新しいほど、生命力が強いと考えられており、あえてその命を神に捧げることで、他の部族にはまねのできないような「強さ」がこのクニにはあることを誇示しようとしたのです。


このように杵築のクニは、軍事的防衛として今で言う「心理戦」を多用しています。

 

国内はもちろん国外の人に対しても戦意喪失、士気阻喪をねらって、恐怖心を喚起するような儀礼を執り行っていたのです。


出雲大社の禁足地 八雲山
 

出雲には縄文晩期から弥生時代にかけて、中国大陸や朝鮮半島からつぎつぎと渡来人がやってきました。

 

最終的に出雲地方に大共同体を構築したのは、オオニクヌシとスサノオを祖霊神として頂く集団です。

 

スサノオはヤマト側から見た神話では荒ぶる神として、高天原から追放されていますが、出雲地方に残っている神話ではまことに情愛深く、出雲の人々に新しい文化と技術を伝えた神として位置づけられています。

 

ちなみに、スサノオは建材、船材の神であり、厄よけ、まじない、民間医療の神でもあります。

 

また、オオクニヌシは農耕、畜産、国土開発、鍛冶、漢方医療の神として崇敬されています。

 

薬草に関する知識や金属を鍛える技術はきわめて重要なものでした。彼ら渡来人をブレーンとして迎えた古代出雲人は、外来の技術・文化を受け入れて国土経営を行ったのです。

 

 

金色に輝く銅鐸、銅矛、銅剣。これこそがカミのパワーの象徴だった。

 

出雲市、西谷墳丘墓群。2世紀末(弥生時代末)に出現したイヅモの首長の墓といわれる。四隅突出型墳丘墓という出雲、山陰地域独特の形状を示す。
 

 

なお、最近、古代史界隈で色々と物議を醸している「出雲口伝」(向家文書)では、出雲王家をオオクニヌシ(オホナムチ)=主王の職名、コトシロヌシ=副王の職名としています。

 

そして、出雲王は秦から渡来した方士・徐福(その後ニギハヤヒとして九州にも上陸と伝える)の一行によって幽閉&枯死させられたと口伝にはありますが、今回はこの言説は取りあげません。

 

出雲への渡来集団

日本的霊性を理解する上で、縄文時代から弥生時代の古代祭祀は重要な意味を持っています。

 

出雲大社でのサイコメトリーで、古代出雲は中国大陸、朝鮮半島及び北部九州との結びつきがとりわけ密接だったことをうかがうことができました。

 

では、古代出雲国を作り上げていった人々は、どのような人々だったのでしょうか?


隠岐には、この地方の創成伝説を伝える口述聞き取り書「伊未自由来記」(いみじゆらいき)があります。

 

明治四十三年、金坂亮氏が隠岐北方郵便局に在職の時、那久の阿部廉一氏が原本を持参し、金坂氏に口述しつつ説明したものです。

 

それによれば、隠岐に渡来してきたのは、①木の葉族、②海人族、③山祇族、④於漏知族の順番です。これは、縄文時代から弥生時代にかけて渡来してきた部族に対応しているものと考えられます。


①木の葉族……下に獣の皮で作った着物を着て、上には木や川柳の皮で綴ったものを着ていた。髪を切らず延ばしっぱなしで、目だけがギョロギョロして恐ろしい風貌だったが、人柄は温厚であった。焼畑農業を営み、小麦団子を作るときに謡った「杵取歌」が伝承されている。この歌は古代朝鮮語の混ざった歌で、彼らは新羅方面からやってきた渡来人であろうと考えられる。

②海人族……アマ族。顔から全身入れ墨したものすごい風貌で、彼らが隠岐にやってきたとき、木の葉族の人々は大いに驚き恐れて、最初は木の葉族が集合して彼らに立ち向かったが、海人族も非常に温和で、漁が上手であったため、やがて木の葉族と雑居するようになった。

③山祇族……ヤマギ族。海人族が渡来して間もなく隠岐にやってきた。しかし、数は少なかった。出雲の鞍山祇之大神の御子、沖津久斯山祇神が来航したと伝えられる。海防に努めたが、やがて出雲地方を支配した於漏知族と激しい闘争になる。

④於漏知族……オロチ族。彼らは金属器を鋳造する技術を知っており、それで鎧・兜・盾・剣を作るので、数は少なくても戦いは強かった。隠岐にしばしば来襲し、ついに隠岐を征服した。

このオロチ族がヤマタノオロチの神話につながる渡来人ではないでしょうか。オロチ族のルーツを中国東北部、さらにバイカル湖東部に居住しているオロチョン族に結びつける説もあります。

 

また、彼らは当初、島根半島の先住海人族だったが、やがて豊かな農耕地と良質の砂鉄を求めて、斐伊川流域に移住した後、後続の渡来鍛冶集団であるスサノオ集団によって討伐され、滅亡したという説もあります。
 

荒神谷遺跡の青銅器祭祀

昭和59年(1984)夏、ここで358本もの銅剣が一挙に発見されました。翌年、そのすぐ隣の場所からも銅鐸6個と銅矛16本が同時に発見されています。

 

従来、銅鐸、銅剣、銅矛は別々の文化圏に属するものと考えられていましたたが、この出雲の地でそのすべてが同じ場所から出土したことから、従来の学説の再考が迫られることになったのです。


私たちのサイコメトリーに基づいて推論すると、この場所には弥生時代のシャーマン集落があり、巫女や神官を養成していたところです。

なぜここに大量の青銅器、とりわけ銅剣が多数出土したのでしょうか?

 

それは青銅器にサイキック・パワーを込めるための儀式が執り行われていたためです。

 

つまり、銅剣や銅矛を使って人間を殺害し、血をいっぱい吸わせた状態で大量に地中に埋葬し、霊能力を強めるための「聖地」あるいは修行場として利用したというのです。
 

荒神谷遺跡の銅剣出土現場


これまでに解明されている銅剣に関するデータをまとめておきます。

 

荒神谷遺跡から発見された銅剣は「中細形銅剣c類」または「出雲型銅剣」と呼ばれ、発見された358本の中で朝鮮半島産の鉛を使っているものが1本、残りすべてが中国産の鉛を使って作られていることが判明しています。

 

さらに、その後の測定調査により朝鮮半島産の鉛を使ったとされる1本が、中国の三星堆遺跡で出土した青銅器に含まれる鉛と同じ特徴を示すことが明らかになりました。つまり、この銅剣の鉛産地は雲南省の可能性が高いといいます。


また、中国産の鉛を使った銅剣の産地は山東省か遼寧省である可能性が高いとされました。

 

古代中国では金属材料が貴重なため、青銅器を戦利品として奪い、壊れた青銅器や鋳造クズのリサイクルを行ったものと考えられます。

 

いずれにしても、荒神谷遺跡の銅剣は中国などから持ち込まれた鉛を再利用しているわけであり、渡来人の指導のもとに出雲で鋳造されたものと見ていいでしょう。


私たちが現地でサイコメトリーを通じて得た情報は、古代シャーマンの尋常ならざる所業でした。

 

祭祀に血は付き物だったのです。

 

弥生時代の出雲ではこういう場所で霊力を高めたシャーマンが神殿に出入りして祭祀を司っていました。

 

青銅器など祭祀用の道具は関係者以外には決して見せないように部外秘扱いしていたが、部族間で紛争が起こりそうになったときには、青銅器で人を殺して血に染まった剣や矛を敵対勢力の人々に見せつけ、攻めてこないように威嚇しました。


彼らシャーマンは、戦士でもあり、戦いの時には先頭に立って邪眼を使い、呪詛をかけ、敵の士気をくじく役割も持っていました。

 

霊力を研ぎ澄ますための儀式・修練の異様さに、尋常な精神状態ではいられない者も続出し、精神に異常をきたした者は次々と命を奪われ、生贄にされていきました。

 

また、共同体の中で労働力にならない者、いわば弱者も犠牲になったし、若い男女、子どもを捧げることもありました。

 

基本的に生贄は生かしたまま他から隔離して育てた動物を儀式の時に殺してカミに捧げるというスタイルを踏んでいたのですが、人間もその例外ではなかったようです。

 

まとめ――古代出雲の信仰


サイコメトリーによって得られた情報を総合すると、古代出雲人は、どうも生命に対する見方が現代人と根本的に違うようです。

 

現代に生きる私たちは、自分の命は自分のものだし、個人の中に命は宿っていると考えているわけですが、彼らは個人よりも集団、=クニを守ることを第一義的に考えていました。

 

共同体のための生命という感覚です。

 

もっといえば、共同体の長である王のための生命であり、王が長生きをし、多くの子供をもうけるためには何でもしたのです。


王はカミの意志を実行する存在であり、クニを守る責任がありました。だから、戦に負けると王の責任が問われ、失脚どころか殺されました。

 

王は強くなければいけない。強力な生命エネルギーをもっていなければ、共同体全体が崩壊してしまう。クニが破れることはカミも負けることを意味していたのです。


このため、他人の命をカミに捧げて逆に自分のエネルギーを強め、カミのエネルギーも強化する必要があったのです。

 

古代出雲神殿でシャーマンが新生児を生贄にしたのは、脅しの意味だけではなく、新しい命をカミに捧げて、より強い生命力を授かるという霊的な意味がありました。

 

捧げる命は新しければ新しいほど、王、クニ、カミは強く大きくなり栄えると彼らは考えていたわけです。


出雲の地で私たちが受けたメッセージは、スサノオの八俣大蛇退治のエピソードを連想させものでした。

 

八俣大蛇は櫛名田比売(クシナダヒメ)を生贄として要求していたわけであり、それを阻止して退治してしまったのがスサノオです。

 

こういう神話の背景には、縄文以来の土着神が生贄を必要とする<神>だったことを連想させるのです。

 

荒神谷遺跡は文字通り荒神を祀る谷でしたし、昔から祟りのある谷として土地の人からも畏れられていました。

 

生贄祭祀の問題に戻りますが、農耕(神)が生贄を必要としたのではという説があります。

 

縄文晩期から弥生にかけて、特に水稲稲作が定着した頃から生贄が活発化したというのです。そうだとすれば、荒神谷遺跡でのシャーマンの生贄祭祀も時代背景的に合致します。


稲作農耕民族には共通した信仰があります。太陽崇拝(東方重視)と蛇祭祀がそれです。

 

中国には長江文明という黄河文明とは異質の文明の遺跡があります。長江文明は高床式住居と稲作を特徴とする古代文明です。

 

雲南省の昆明に<テン国>という倭族の国家が存在しました。時代的には紀元前7世紀、春秋時代中晩期のころです。


その王墓遺跡から出土した青銅器に当時の祭祀の様子が描かれています。男女が両腕を縛られ、足かせでつながれて生贄としてまさに命を奪われようとしている場面が描写されているのです。

 

しかも、彼らが縛られている柱には蛇が巻き付いています。犠牲にされた人々は、死んだ後農耕神である蛇として再生し、その年の豊作をもたらしてくれるという儀礼だったようです。

 

テン国では、稲作が始まる前に、彼らは最高神である蛇神を迎えるための儀式を執り行っており、それが犠牲祭祀の形態をとっていたわけです。


この儀式が数百年後、前漢の時代になると高床式の掘っ建て柱建築の祭殿が設けられ、祭殿の前で人間と家畜(馬、豚)を生贄にして、蛇神に捧げる形に変化していきます。

 

おまけに、祭殿に生贄になった人間の首を置き、<神>として祀っています。これは犠牲にされた人間が再生して、蛇神と合体する様子を象徴したものだと考えられています。


さすがに食人はしていなかったようで、代わりに家畜の肉を供物として差し出し、王族らが蛇神と同じものを食べ、神の力を得ようとした様子も描かれています。

 

こうした犠牲祭祀は、中国南部から日本列島に移住していった倭族にも継承されていたと考えるのが自然です。出雲人も蛇は拝んでいたし、太陽も拝んでいました。同じ儀礼が出雲にもあったのでしょう。

 

出雲 稲佐の浜 弁天島

神在月には、黒潮の流れから押し出された海蛇が、稲佐の浜に打ち上げられる。

 

とりわけ、龍蛇信仰は広く中国南部から日本列島に至るまで「倭族」の間で広まっていたもので、日本では海人族が神のお使いとしてウミヘビを神聖視していたものです。

 

 

出雲大社教には、この龍蛇神を信仰する人たちの組織があります。

 

いずれにしても、稲作民族の生活周期は、冬に生産が停止し、春の訪れと共に生産活動に従事するものです。

 

蛇は冬の到来と共に冬眠(死)し、春になると穴から出てきて活動(再生)します。この死と再生のサイクルが蛇を農耕の神=宇賀神として崇拝するようになった理由です。

 

そこからさらに踏み込んでいくと、豊作を祈るために人間の犠牲を出して、蛇と合体させ、神として祀るようになっていったわけです。八俣大蛇伝説には、そういった古代の神のイメージが込められているのです。

 

参考文献

 

 

 

富士林 雅樹 2019 出雲王国と天皇政権 大元出版
斎木 雲州  2012 出雲と蘇我王国: 大社と向家文書 大元出版

原田実 2006 『古史古伝』異端の神々 ビイング・ネット・プレス

鳥越憲三郎 2000 古代中国と倭族 中公新書1517

 

 

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