嫁と一緒になってこのかた、
最近は「本当の豊かさとはなにか」ということについて、
考えを深めるようになった。



若かりし頃、ひょんなことで分不相応の大金を掴んだ私は、
それはそれは、無駄にお金を浪費していた。


あの頃。


ジャブジャブとお金を浪費することこそ、
豪放な自分にふさわしい、と、
なかば本気で思っていた。

毎晩のように飲み屋街に繰り出しては、
大枚をはたいて皆に奢り、泥酔していた。

財布をなくした、と困っていた初対面の女子に、
むりやり1万円をあげて、さらに困らせたこともある。

タクシーの運転手さんに、
チップだといって、2,000円の運賃のところ、
1万円を渡したこともある。

今日が誕生日だというそれほど親しくもない知人がいれば、
その足で飲み屋街の花屋へ行って、
3万円の薔薇を手配し、渡した。
(すると、たまたま来店していた近所のキャバクラの経営者が、
 「社長!!私はこういうものです!!」と名刺を渡してきた。)

週に数回は有名だ絶品だと噂される飲食店へくりだし、
数万円単位で、後輩に奢っては、
どうだどうだと、威張り散らしていた。

いまからしてみると、
都度都度の金額は言う程、大金でもなく、
チマチマしているが、
単なる自身の虚栄心を満たすためだけの、
使わなくていいお金だった。

品のない、お金の使い方だったなぁと、
心底思う。



まぁ、そんなことも、
今となっては青春の1ページ。

無形のなにかにはなっているのだろうから、
ある種の投資と割り切ってはおるが、
今となっては、まったく違うことに価値を感じる自分に少し驚く。




今はもう、あのあぶく銭の、そのほとんどを使ってしまったが、
もし今、あのお金を持っていたとしたら、
もっと全く、違うことに、使うだろうと確信がある。




それは、嫁と過ごす豊かな時間。




値段が高いもの自体を浪費するための出費ではなくて、
嫁と過ごす豊かな時間を得るために、
必要な出費なのであれば、いくら高くても、
惜しくはない、と思う。



あの頃は、目に見えるものにばかりお金をかけて、
目に見えないことには無頓着だった。




けれど、本当に価値のあるもののほとんどは、
目に見えないものなのだと、
嫁が教えてくれた気がする。




うちの嫁は贅沢が好きな人だが、
成金趣味ではない。




たとえば、ゆったりとお風呂で過ごす時間を大切にする嫁は、
そのお風呂で使用する、入浴剤であったり、
せっけんであったり、そうしたものを良質なものにしようとして、
高価なものを選ぶ。

たとえば、新鮮な野菜をたっぷりと採ったり、
良い香りのお酒をゆっくりと楽しんだり、
そうしたことが好きな嫁は、
通常よりも少し値段が高くても、
良質の野菜や調味料やバーボンを選ぶ。

そうすることで、豊かな時間を買う人だ。



それは私に衝撃を与えた価値観であった。



それこそが真の豊かさではないのか?



そのような考えが私の味覚と感覚、を少し変えたのか、
長時間の電車通勤も耐えがたいものに急に思われて、
それまでの自分には縁遠かった自転車に乗って、
会社まで3駅で到着できる路線に乗って通勤を始めた。


それまで、週に4回は朝、タクシーに乗り込み、
無駄な出費を重ねていた私にとって、
それはとても大きな変化だった。


すると、あんなにイヤだった朝を、
少し好きになった。



季節の移ろいゆくさまを、
自転車に乗って眺めながら、
風の香りを感じながら、駅までゆく10分は、
決して悪いものではない。


むしろとても爽快である。


さらに駅からは、たった6分だけ電車に揺られれば、
会社の最寄り駅につくのだから、
通勤地獄に毒されることがなくなり、
とても毎日が快適になった。


これもまた、とても豊かなことのひとつだと思う。


こうして書いてみると、
まるで嫁がエコでお金のかからない人のようなイメージに思われるかもしれないが、
そういうわけでは、、、ない(笑)。


やはり高品質なものはそれなりにお金がかかるので、
嫁の生活には、それなりにはお金がかかる。


(※ちなみに、私も嫁も、傍から見ると、超贅沢に暮らしているように見えるらしい。
  けれど、人が言う程、そこまでではない、意外に質素、というのは事実。)


一緒に暮らすからには、
なるべくそうした嫁のクラス感をたいせつにしてあげたいので、
必然、私自身が自由にできるお金も、減る。



嫁はしきりと、そのことを心配しているみたいだけれど、
不思議なほど、私の心は軽い。



なぜなら、うちに帰れば、
暖かい嫁の笑顔と夕飯が待っていて、
生活を構成するひとつひとつの要素が、
とても高品質で豊かな気持ちにさせてくれるものであるのに、

一体、それ以上なにを望むというのだろう?
なににお金を使うというのだろう?




ただ、嫁は歌舞伎やら芝居やら海外旅行やら、
そういった、本気で取り組むには高価な趣味をたくさん持っているので、
(けだし、私自身も海外旅行が好きである。)
やはりここは、収入を増やすほかない、と思うダンナなのであるが、


収入を増やすために頑張る、
というよりも、
私がただ、私自身でありたきために頑張るのだ、
という誇りとパワーを、



嫁という人は与えてくれているのだ、
と、つねづね思う今日この頃である。

そう私に思わせる、
嫁の贅沢な品の良さ、
価値観、そして価値が、本当に好きである。



やはり、良いものは高いのだ。
ダンナはボクを風の人とゆう。
?がいっぱいになる。


ボクがココロに持つ風景にダンナは興味があるみたいで
いろいろ思考してるみたいだし。
きっといろんなことに対しての知識欲が旺盛でつきないんだと。


いつも、この人はホンマに不思議な人やなと思う。






ボクが思うに

ボクは鏡でダンナの欲しいものがボクにあると
ダンナの目には映ってる。





そりゃそうか。





みんな、ないものねだりだもん、ね。

何かを誰かに求めるのは当たり前だと思うんだ。

だとしたら

ボクはダンナに何を見て何を求めているのか…




そんなこと改めて考えてみた。


ボクからみたダンナは優しくて熱いもので自身を包んでる。

繊細で豪快。

そして、大きな小さい子供で
なんかいつも一生懸命で
あまりにも可愛い過ぎて微笑ましい。

てか、なんか愉しい。

きっとダンナのココロの中のダンナは
純粋で賢すぎてどこかコズルイ、コドモなんだと思う。

いつも目をキラキラさせてるけど
それが楽しいからなのか
ホントは寂しいからなのか



それは未だに謎…のまま。



ボクはそんなダンナが好きだから
ダンナと違う道を選んで
あえて追求しないでおこう。




ナチュラルなダンナを愉しもうと思う。



いつか、わかりあえる時がきたら
いろんなことを笑いあおう。




それまではしばらく今を愉しもうと思う。





その時がいつくるかわからないけど
きっとくることだけは確かだから。








ここのところ、嫁の心の中にある風景について、
考えることが多い。





いつも「どこがすき?」と聞かれるたびに、
顔、とか、透明感、とか、存在感、とか。

答えておるが。


本当は、


嫁の心の中にある心象風景に、
旅立ちたいのかもしれない、と。


最近思う。




不思議な話なんだが。



そういうことばかり考えているからだと思うが、
最近は、嫁の心の中の、その風景が、
見えるような気がする。



そこはとても乾いた風の吹く碧い土地。




心の中に異国を持つうちの嫁は、


だからとても心が自由である。







心が自由であるということは、
とても素敵なことだ。




このご時世、心が本当に自由な人は稀有だ。


嫁に、スナフキンみたいなところが好き、
と言ったら、????と思われてしまったけれど。



自分もまた、そのように自由な心を持ちたいけれど、
私の心の中には泣いている子供がいる。




その子供は自由になりたいともがいているが、
何かに非常に傷ついているので、飛び立てない。





けれど、嫁といると、
その子供が笑顔を取り戻して、
飛べないなりに、自分の足で、
飛びたとうとするのだ。




そのような自由闊達で爽やかな心、
もちろん雨が降ることもある心ではあるのだが。




そんな嫁の美徳を、たまらなくいとしく思うし、
そこにこそ、最もひかれているのかもしれない。




だから、いつも、嫁のことは、
風のような人、と表現している。




書いていて、そのことが整理できた。
本件については、もっと考察を深めていきたいと思う。




それはきっと私の当面のライフワークになることだろう。





6月には嫁の誕生日がくる。





その月に、
私が思う、嫁の心の中の風景に、
もっとも近い誰も知らない場所で、
ひっそりと二人、さまよい、


乾杯をしたいと思う。

これはマリッジブルーならず引越しブルーなんやと思う。



なんかお仕事もおうちのこともほったらかし気味で反省中。

ため息の多い毎日で、、、疲れる、と。。。思ってたら



なんのこっちゃない、女子dayだった苦笑

まぁ、ブルーdayには間違いないけど。



しかし、ここ最近はいつも以上に不安定になってて

お仕事で疲れてるダンナに八つ当たりしまくり。


それもブルーな原因になってる。

そやったら、やめとけって話なんやろうけど、、、

なんやろか???当り散らすんがとまらんかったり。



自己嫌悪。。。。



ダンナはもともと頑丈にできていて打たれ強い性格だから

ボクの不安定なこの性格をガッツリ支えてくれてる。

ちょっとやそっとのことやとびくともせえへんのでやり過ぎる。



あかん、なぁ。



あぁ見えてダンナも繊細で神経質だからきっと悩むだろうなぁ。。。。


なんでかわからへんけど、たぶん勢いだけで

「インドに行くからっ!!!」と。。。ゆうてしもたし。



はぁ、、、、ホンマにちゃんとしゃんとせなあかん、、、わ。






と、ブルーな日記。





書き出したらちょっとは元気になるかと思いきや

さらに凹むとゆう悪循環にはまりそう。




こんな時は思い切って大掃除か洗濯。

それに引越し準備も始めなあかんし。



そやけど、その前にゆっくりお風呂でも浸かりたい。













ボクのココロの中にある砂漠。


朝も昼も夜も雨も降らず、乾いた風が吹いている。

荒涼としててなにもない。

だから、好きだったりもする。


砂漠の日差しは痛いくらい熱くて

砂漠の夜は凍えるほど寒いけど


太陽は眩しいくらいに大きく

月は手が届きそうなほど傍にある。


だから、独りで過ごすにはちょうどいい。







でも、砂漠にはちゃんとオアシスがある。

それはダンナだってこと気がついてる?





ねぇ?ダンナさん?







いろはにほへと ちりぬるを





嫁というひとは、
奥行きの深いひとだ。



すぐには分からせてくれないのは、
承知の上。
わかっていたこと。



少女のようで、
赤子のようで、
すごく大人でもある。


紫の上のようで、
六条御息所でもあり、
明石の上のようでもある。





不思議な魅力。





4年前に初めて会ったとき、
その眉目秀麗のみならず、
向こうが見えそうな透明感に心ひかれた。

はんなりとした柔らかさの向こうに、
凛とした芯が見えた。





憧れに近い気持ちだった。





それが今、なんとなんと
なんの気まぐれか、
うちの嫁になってくれるそうだ。




嫁は気まぐれだ。


だから嫁に来てくれるのも、
気まぐれなのかもしれない。


風のように来て、
風のように去ってしまうのかもしれない。



そんな風にも思う。



けれど、それでも嫁は、
とにもかくにも、
嫁に来てくれるのだ。


なぜ私を選んでくれたんだろうと、
その心の奥をのぞきたい気持ちになることもある。





そして分かるのは、
嫁の心の奥には、
生命あふるるジャングルや、
豊穣の海もあるが、
寂寞とした砂漠もあるということだ。



そして嫁は、寂寞とした砂漠だけは、
私と、いや誰とも、共有はしないということだ。




そこへ落ちる太陽が映し出す、
きっとこの世のものとも思えぬ美しい夕日は、
そしてそこから始まる夕闇は、
誰のものでもない、彼女だけのものなのだ。




そのことしか、まだいまは分からない。




多分、嫁はその寂しさをも楽しんでいるから、
べつにそれを他者と共有したい、と思っていない。



だから私にも、見せてくれない。



きっと、永遠に、見せてはくれないだろう。




だから嫁は、きっと、
年を経ても、いつまでも魅力的なのだ、と思う。
いつまでも、尽きることのないファンタジーが、
その少女のような心の中で、いつまでも輝いているのだろう。





だけれども、ヒリヒリと何かが燃えるその残骸を、
癒せる木漏れ日がきっと、
私の中にあるのだろう。




私の中の孤独をきっと、
嫁は見つけてくれたのだ。




嫁の心の中にある孤独が、
それを見つけてくれたのだ。




そっと。




手をさしのばしに来てくれたのだろう。
















あさきゆめみし ゑいもせず