お白石持行事 | 天下泰平

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※ハッピとハチマキ

 さて、今からハッピとハチマキを持って伊勢神宮へと旅立ちます。ハッピとハチマキだからといって「お祭り」に参加するのではなく、これは「お祀り」の方への参加で、20年に1度、伊勢神宮でご神体を新しい神殿に移す式年遷宮において、新正殿敷地に石を敷く行事「お白石持(しらいしもち)行事」に参加するからです。

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この行事の歴史は古く、古文書に「寛正三年(1462)に内宮の第四十回式年 遷宮から始まった」とあるように、約550年の伝統行事です。

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お白石持行事では、「旧神領民」と呼ばれる住民らが、9月1日までの土、日曜日などに、市内の宮川で集めた拳大の石英系の白い石を選び、普段は入れない神宮の内宮と外宮の新しい御正殿の敷地に「お白石」を敷き詰めて奉献する民俗行事です。

この行事には、伊勢市内の地区ごとに結成した奉献団77団体の約8万人が参加し、この他に全国の神社を通じて昨年4月に募集した7万3千人を「特別神領民」として参加を認めているそうです。

今回は、なぜか特別にご招待?ということで有り難く参加させて頂きます。

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伊勢神宮の遷宮は、今から約1300年前、持統(じとう)天皇の時代に始まったといわれています。戦国時代に一時中断はありましたが、 平成25年10月は「第62回神宮式年遷宮」となります。

伊勢神宮と式年遷宮について、過去にザ・フナイに少し書いたことがあるので、その内容の一部を以下にご紹介しておきます。

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「式年」とは定められた年を意味しており、「遷宮」とは新しいお宮を造って大御神(おおみかみ)にお遷(うつ)りを願うことです。神宮には内宮・外宮ともそれぞれ東と西に同じ広さの敷地があり、20年ごとに同じ形の社殿を交互に新しく造り替えます。また約800種1600点もあるという神様の御装束神宝も新しくされます。

今から20年前、平成5年の第61回式年遷宮の経費は327億円でしたが、今回の第62回式年遷宮の経費は、前回の実績を踏まえて伝統技術の継承に掛かる経費増などを考え、現時点では約550億円が試算されているそうですから、あらゆる面において他に例のない日本の伝統的な一大行事となります。

式年遷宮の制度は、今から約1300年前に第40代天武(てんむ)天皇が定めたものであり、次の第41代持統(じとう)天皇の4年(690年)に神宮の第1回目の遷宮が行われました。以来長い歴史の間には一時の中断はありましたが、20年に一度繰り返されています。

それでは、なぜ20年に一度遷宮をする必要があるのでしょうか。

それについては諸説があり、「神宮の社殿は桧の素木造りで屋根が茅葺きであるため、常に清々しい姿を保つには20年を限度として建て替える必要がある」「宮大工、御神宝装束を調進する工匠などの伝統技術を次代に伝承するには20年が適当である」「昔は20年を満数といって、20年経てば全てが初めに戻るという考え方があった」「古代日本の経済を支えた稲(乾した飯)の貯蔵年限が20年であったから」など、さまざまな理由があるともいわれていますが、はっきりした定説はないようです。

また、場所を移すことの意味としては、式年遷宮はいわば神様のお引っ越しのようなものであり、私たちも新しい住まいに引っ越すとフレッシュな気持ちになるように、式年遷宮では、神様のみずみずしい力の永続を祈るともいわれています。

それらを考えると、伊勢神宮は式年遷宮によってすべてを造り替え、繰り返し再生することによってその美しさを保ち続け、まさに、みずみずしいままに「永遠」を目指す、伊勢神宮の「常若」の精神を象徴しており、それを人々にも伝えているようにも思えます。

伊勢神宮には、太陽を神格化した天照大御神を祀る皇大神宮(内宮)と、衣食住の守り神である豊受大御神を祀る豊受大神宮(外宮)の2つの正宮があり、特に皇室の氏神である天照大御神を祀るため、天皇家との結びつきが強いともいわれています。

しかし、一方で天皇が直接伊勢神宮に足を運んで参拝をしたのは近代に入ってからであり、明治天皇による伊勢神宮の参拝は、在位中の天皇としては、なんと約1000年ぶりの出来事であったようです。

そして、それまでの天皇が伊勢神宮に参拝をしなかったことについては、いまだに諸説がとなえられているものの、決定的な理由については依然不明のままとなっています。

単純に伊勢が遠方だから参拝ができずに近代になって交通の便が発達して参拝できるようになったからという理由は、1000年というあまりにも長い不参拝の歴史が続く中では、到底考えられないことです。

それでは、そもそも伊勢神宮とは一体どのような背景を持って今の伊勢の地に誕生したのでしょうか。

日本書紀などの伝説の中では、第10代崇神天皇の時代に疫病が流行り、 その原因が天照大御神を朝廷の中で祀っていることに起因するという神託が下りたのを機に、天皇の皇女である豊鋤入姫命(とよすきいりひめのみこと)が「御杖代(みつえしろ)」となって天照大神を戴いて大和を発ったことから神宮の歴史は始まっています。

そして、安置できる場所を確定できぬまま豊鋤入姫命は亡くなり、その遺志を継いだ第11代垂任天皇の皇女である倭姫命(やまとひめのみこと)が、ようやく伊勢に到着したことで現在の伊勢の地に神宮が落ち着いたと伝えられています。

豊鋤入姫命が大和を発ってから伊勢に落ち着くまで80年以上の間、 神宮は、丹波、吉備、伊賀、近江、美濃等の諸国を転々とした経緯があり、そして、各地で、いったんはそこに祀られながらも遷宮された場所が、合計20ヶ所以上も存在しています。

それらの場所を「元伊勢」と呼ばれていますが、このように短期間の間に次々に各地へと遷宮されてきた伊勢神宮の歴史的な起源を見ると、現代にまで続く遷宮という風習は、伊勢へ辿りつくまでの変遷の歴史をなぞるためか、あるいは天照大神を祀るためには「何かの理由」で遷宮という制度が必要であったかのようにも感じさせます。

その謎を解くには、元伊勢が大神神社(おおみわじんじゃ)で始まったこと、そして、その背景にある日本最初の統一政権となった「大和朝廷」が出来上がるまでの歴史を紐解くことが重要となってくるようです。

つまり、教科書で教わった歴史の流れからすると、当日の日本を治めていた政権が卑弥呼のいた邪馬台国から大和朝廷へと移り変わった時代の史実を知ることで真実が見えてくるのかもしれませんが、残念ながら、それらの歴史的な背景については、日本史上謎に包まれている「空白の4世紀(266年~413年)」の期間が舞台であり、現代の考古学の中では詳しい史実はわかっておりません。

そのため、この時代背景を考察するには神話や遺跡をもとに読み解くしかなく、それによって今でも様々な諸説が世にはびこっています。

とはいえ「歴史は勝者によって作られる」という言葉があるように、今私達が教えられている歴史というのは、時の権力者によって都合良く作り替えられている可能性があることも否定はできません。そう考えると、やはり「大和朝廷」が出来上がる背景となった、この「空白の4世紀」には、何か大きな秘密が隠されているようにも思えます。

というように、日本の歴史に封印された「空白の4世紀」を読み解くことで、伊勢神宮と遷宮の本当の意味についてを説明しているのですが、結論からいえば、伊勢神宮の内宮の“御祭神”は、天照大御神ではなく、実は出雲族の「大物主」であると思われます。

つまり「今の日本」の源流である大和朝廷は、自ら討伐した出雲族の祟りを恐れて伊勢の地に祀っており、だからこそ、明治天皇になるまで天皇は参拝に行けなかったのでは?という説があるのです。

しかし、新時代のスタートとなる今年の伊勢神宮の式年遷宮は過去とは違い、いよいよ出雲族の末裔も遷宮の行事に参加して、大和朝廷(日向族)と出雲族の和合が実現します。

詳しい話は、またどこかでお伝えしますが、縄文の流れを汲む「物部氏」がいよいよ動き出したのです。物部氏と秦氏の和合も始まっているのです。そうすると裏天皇の動きも活発化し、それに伴って諸外国からの日本の圧力も激化してくると思います。

とはいえ、“新旧日本の和合”によって、本来の日本の復活が始まっているので、この大きな流れは止めることはできないと思います。本当の日本の時代は、これから始まります。