発端はやはり新しいパートさんとの関係性なのでしょうが
このパートさん、明らかにASDの症状を発現しているにも関わらず、2児のママであり、何と2児を我が園に預けている保護者なのです。保育士の間でも「難在り」とされていたお母さんを、いわば給食室(常時人手不足)に押し付けられた感じではあります。
普通、自分が子供を預けている保育園にパートで勤める、なんてあり得ないのですが、最近のちまたではそういうあり得ないことが溢れかえっていて。それに、本来ならば仕事で仕方なく小さい子供(0才から3才)を預けるというのが保育園なのではないか?と思うのですが、最近は保育園に預けるために仕事を探す、というお母さんが多数。本末転倒なわけです。
どうしてそうなったのか?というのが、まぁ国の母子分離政策の結果とも言えるのでしょうが。
というわけで、子育てはほぼ保育園任せ、休みの日はおむつも変えられない、というお母さんが大量発生しているのが、今の現状だそう。どうしてそうなったのか。実に嘆かわしい状況です。
それで、仕事の出来なさはもちろんのこと、そのような新米お母さんの日々のとんでもない言動に、周りの我々の方が憔悴してしまう、というのが現状。「あなたが産んだ子供でしょ?可愛くないの?」と思うのですが、子供に対する愛情は感じられず、自分のことで精一杯なのはASDならではの在り方なのかもしれないけれど、ほんとにこれでは子供が可哀そう・・・と深刻にならざるを得ない現状ではありますね。
とはいえ、私やもう一人のパートさんのような先輩ママが親身になってアドバイスしたところで本人には全く響かないのが現状。感情の共有ができない彼女にはただの「音」としか聞こえないようで、現状が改善されるということは無さそうです。今のところ、協力的な旦那さんや身近にいる親御さんのおかげで何とかなっている感じではあるようですが、子供が生まれる以前はどのように過ごしていたのか謎でもありますが、ネグレクトまではいかなくてもややそれに近い状況。
実際、他の保護者についてもネグレクトの報告というものはちらほら聞くので、この園だけでもそうなので、どれほど多発しているのか、日常茶飯事なのか、と思うと、本当にどうしようも無く怒りが湧いてくるのは仕方がありません・・・
あまりにも個人の自由、多様性を重んじ過ぎた結果なのかなとも思う。
どこかで大切なものを見失って壊れて行ってしまっている世界を見せつけられている気がします・・・
さて、今日のタイトルの「カサンドラ症候群」なのですが、これはASDについて調べて行くうちに出会った言葉で
ギリシャ神話に登場するトロイの王女カサンドラにちなんでつけられた症名なのだそう。
これはASDの周囲の人(パートナーや家族、同僚)が心因的な不調に悩む状態を示しているのだそう。
なんでもかんでも症名をつけりゃいいってもんじゃねぇよ!と思ったりしますが
心療内科的には、実際症状が表れて苦しんでいる人たちを救済するために、何かしらの対策(カウンセリングとか薬物治療とか)を行うことで、自分達が利益を得られればよいのだろうな、とひねくれた見方をしてしまいますが
毎度気になるのはASDにしろ何にしろ、必ず薬物治療の項目が出てくること。「薬飲んだら終わりだぜ!」と自分的には思っているので、ああ、やっぱり患者を囲って生活の足しにしたいのだな、もちろん彼らにも生活があるから仕方ないかと思ってしまったり。
とにかくいかなる精神的な病についても医者や薬に頼るのは辞めた方がいい、というのが私の自論ではあります。
医療関係者にしろ保育関係者にしろ・・・何より行政をやってる人達が自分たちの目先の利益だけを考えて、社会を壊してきた結果が今の現状なのだろうと思います(注射然り)
なので、目の前の個人に対するやるせなさ、怒り、だけではなくて、もっと大きな権力だとか圧力に対する怒り、というものが自分の中にずっとあって、そこから逃れるためには出家して仏門にでも入らないかんのかな、いや、出家は若い頃にやったからもうええわ・・・とか思ったり。
出家したところでいつかは人間社会に舞い戻って来ないといけないし、そうでなければ意味がない、と自分的には感じたりしています。
それよりは、もっと現実と向き合い、今は自分自身の怒りの衝動も含めてですが
まずは世の中にはびこっている精神障害という名の課題について理解を深めて行くこと
自分を守りながら積極的に関わって行くということが自分のこれからの課題でもあるのかもしれないと思います。
恐らく私の母も、兄も、弟の嫁も(何なら姪も)自閉症スペクトラムのスペクトラムに属しているのだろうし
実際診断を受けている我が娘が、実はその中でも一番軽いだろうという認識と、その理由についても考察のしがいがあると思うし
そして恐らく私自身にもそのスペクトラムの一端があるのだろう。だからこそ、完全に除外するのではなく
積極的に取り組むことが可能だし、そこに意義を見いだすことができるのかもしれないと思います。
(ある意味、私自身のこういう言葉の使い方が、自閉スペクトラムっぽいんですがね(;・∀・))
そしてそこに、何かしらの興味(ワクワク?)を見出していることも否定はできないのです。
せっせと怒りながら(;´∀`)
自分自身については共感力が全く無いというわけは全く無い、と思ってます(;´∀`)
何より、とりあえず人の分まで仕事が担えているので、空間察知能力等については比較的優れている、とは言える。
それも恐らく年齢だったり経験だったりというものの成果が大きいということを考えると
恐らくですが、自閉スペクトラムは治る、改善する、ということに確信があったりするのです。
(医療関係者に叩かれそうですが(;´∀`))
それはもちろん、生死をさ迷うような地獄のような精神状態を通過してこそ得られるものでもあるかもしれません。
ただ、今そのようなところから逃げている人が多い、逃げることを推奨されている、という点で
いろいろと疑問を感じるところもあり。
そのような必要悪、というようなもの無しに、自閉スペクトラムを始めとする精神疾患が改善し得るのか?
というのは、これから模索していかなければいけない部分でもあるのかなと思います。
苦あれば楽あり、苦労なくして幸福は得られない、ってことなんですけどね。
人間が魂の成長のために生まれてきたのならば
それなりの試練無くしては、試練を避けていては、魂の成長なんかあり得ないと思うし
そんなの絵空事だと思うし・・・
ただそういう考えが古い、と言われるのが現代の多様性の時代、ってことなんでしょうね・・・
ある意味、時代を逆行していると言えるのかもしれませんが
自分ほどの苦しみを感じずとも、ある程度の苦しみは人生で感じていくべきだと思うし
それがある意味、ガメが社会に適応できている理由でもあるのではないかなと思う・・・
私を選んで娘として生まれてきた理由でもあるかもしれませんしね。ある意味ガメは我が家の希望?でもあるわけです。
兄については、只今断固拒絶されているので、今度いつ会うのか分かりませんけどね・・・
自分にとっては我が家の家系的な(遺伝的な)課題に向き合うことが、同時に社会的な課題と向き合うことでもあるようです。
こんな人生だけど嫌じゃない、愛おしいと思えるから良かったです(*´▽`*)9