レアル・マドリーの”7”。
1994年10月29日。
当時レアル・マドリード監督だったホルヘ・バルダノは、
ロマデラで行われるサラゴサ戦にカンテラFWを
召集することを決めた。
その17歳の若者こそ、ラウル・ゴンサレス・ブランコ。
後に、このクラブの、そしてスペインサッカーの象徴となるラウルは、
このデビュー戦で記念すべきファーストゴールを決めている。
その数年後、バルダノはEl Mundoのオルフェロ・スアレス記者に
このデビュー日についてこう語っている
『彼にとって初めてのトップチームデビュー戦の会場
ロマデラスタジアムに向かうバスの中のこと。
僕は、不安に襲われているであろうラウルに近付こうとしたんだ。
そこで見たのは、舟を漕ぐようにぐっすり眠っていた彼の姿だった。
その冷静さこそ勝者としての資質そのものだと感じたよ。』
衝撃のデビューから一週間後。
ラウルはかつて自分がサッカー選手として育ったアトレティコ・マドリード
とのダービーに先発メンバーとして臨んでいる。
これぞ恩返し。4-2で勝利したマドリーの得点の中には、
ラウルが左足で放り込んだ通算2ゴール目が含まれている。
あまりにも鮮烈なそのデビューは、
その後の彼のサッカー人生をより輝かしいものと彩っているわけだ。
そのラウルが、今日レアル・マドリードを去っていく。
誰が調べたのか、
本日ベルナベウを去っていくラウルが
マドリディスタとして過ごした日数は5,747日であるという。
その間に、リーガ優勝は6回。
3回の欧州制覇、2回のトヨタカップ獲得、欧州スーパーカップ1度優勝、
スペインスーパーカップは4回優勝している。
そして、個人成績としては、リーガで550試合に出場。
45試合のカップ戦、チャンピオンズリーグには135試合の出場を果たした。
リーガでの総ゴール数228。
さらにカップ戦の25ゴール、
欧州における69ゴールは見事のひとこと。
とりわけ我々日本のマドリディスタにとって印象的なのは、
念願のインターコンチネンタルカップ・バスコダガマ戦だろうか。
東京国立競技場で、
決勝点となるゴールを決めたのもラウルだった。
右サイドのシードルフから大きなフィードを
見事にトラップしたラウルは、DFを1人交わすと、
GKも切り返しゴール。
いやはや、実にお見事な得点であった。
そんな記録にも記憶に残る
ファインゴールをいくつも残すラウルであるが、
ゴールで自らを誇るばかりでなく、
得点後、薬指にキッスをし愛妻に、
胸に手を当て、息子達にゴールを捧げていたらしい。
このように賞賛するに相応しい足取りで
およそ700試合に出場しているラウルであるが、
一度たりとも退場処分を下されていない
フェアプレーの代名詞であることも忘れてはいけない。
そんな紳士的かつ模範的な選手であったからこそ、
あのレアル・マドリードのキャプテンとして、
そして、象徴として君臨できたのだと思う。
数時間後に行われる最後の会見で
どんな言葉を残してくれるのかを心待ちにしよう。
グティ『心は常にマドリディスタだ』
『僕は、これからも他のチームでプレーを続けるが、
僕の心は常にマドリディスタだ。』
先ほどサンティアゴ・ベルナベウスタジアム内の
記者会見場でグティが語った言葉です。
『僕は良い時間も、そして苦渋の時間も過ごしてきた。
日々、自分がマドリディズムを好んでいたことを実感するんだ。
ここでの時間は信じられないほど驚きに満ちた時間であった。
できることなら、再びこの家に戻って来たいと思っている。』
その発言には、彼が言葉にするには難しい数々の
想いが込められているでしょう。
グティ退団。
僕が実物の彼を初めて見たのは96/97シーズン。
当時マドリーの練習場であったシウダデポルティーバにて
シードルフ、ロベルト・カルロス、ミヤトビッチら
ワールドクラスの選手たちに囲まれるも、
闘志を剥き出しにアタックしている彼の姿がとても印象的でした。
紅白戦では、ボールを持ったらとにかく左足でシュートを打つ。
そのシュートを失敗しては
「Mierda!!(ちくしょー!)」と絶叫する。
一見、身勝手なエゴイストが誕生しようとしていました。
この時監督だったヘインケスは、
明らかにエゴイスト的な動きを見せるグティに対し、
徹底したチームプレーを求めますが、
ここで自分のプレースタイルに無用な修正を加えなかったことが、
現在の彼のパフォーマンスに繋がっているのかもしれません。
2002/2003シーズンは、彼らしさ、
彼の恐ろしさを知らしめたシーズンとなりましたね。
ルシェンブルゴ監督との確執も何のその。
グティはグティ。
あのロナウドが、『凄まじい能力を備えた選手』
と絶賛を続けたのがグティでもありました。
リアソルでの『神のヒール』 は、彼がマドリーの選手として、
世界中のマドリディスタに放った最後の贈り物。
身勝手な天才肌。
そんな選手だからこそ、存在感がありました。
「遅刻」「敵サポーターへの挑発行為」etc
『紳士的』という言葉から程遠い態度にも、
もう文句の声もあげられないのか・・・
今さらながら”14”の偉大さを噛み締めるのでした。
グティー移籍会見へ
移籍が濃厚なラウル に先駆けて、
本日、現地時間13時にて、グティの移籍会見が行われることが
決定したようです。
トップチームで14シーズン。
下部組織時代を加えると、23年間レアル・マドリーの選手として
サッカーに邁進したグティですが、
遂にこの日を迎えることとなります。
現在33歳の彼の移籍先として濃厚なのは、
かつての指揮官であるブレンド・シュスター監督が
就任したトルコリーグのBesiktas。
グティの能力を大変高く評価しているこの監督の元で、
かつての輝きを放つことが出来るのか注目されます。
彼がトップチームにデビューしたのは、1995年11月2日。
奇しくも、本日の会見に同席するホルヘ・バルダノが、
当時の監督としてグティを抜擢したのでした。
昨シーズンの最終戦、すでにチャマルティンの
マドリディスタには別れを告げていたグティ。
これまでマドリーの紳士的イメージからは逸脱する
スタンドプレーにより、多くの非難を浴びせたものですが、
彼の存在こそ、『役者』そのもの。
実際にこんな日を迎えると、
寂しさしか感じることが出来ません。
今日は、グティ・・・
明日は、ラウル・・・(!?)
マドリディスタにとって悲しい惜別が続きます。
マドリディスタとしての敬意
昨日のMARCA紙の一面はこの通り。
『もしラウルがいなくなれば、
クリスティアーノが7を背負う』
このブログでも再三お伝えしている通り、
移籍が濃厚とされるラウルですが、
ただでさえ居場所を失いつつあるラウルが
このような紙面からも追い討ちをかけられているようで
嫌悪感を感じます。
マドリー寄りのスポーツ紙で知られるMARCAですが、
紙面の売り上げが落ち込むこのオフシーズン。
世間をあっといわせる大型補強も無く、
注目を浴びる『話題性』が最優先なのは
理解できないでもないですが、
MARCA(AS)はマドリディスタの声を代弁する
といわれるように、厳しくも愛情が込められた
紙面による報道が、クラブ経営や選手個々に
与える影響は絶大なのです。
その彼らが「功労者ラウル残留」など望むことなく、
『若き新リーダー誕生』
と一面に飾ってしまっては、
ラウルへの配慮に欠けているというもの。
時折、「R・マドリーは選手の扱いが劣悪」
「選手をリスペクトした出口を用意していない」などと
批判を繰り返すマスコミですが、
この種の報道は、そんなクラブの体質を
助長している気がしてならないのです。
遅かれ早かれ彼はこのクラブを離れていくでしょう。
しかし、現在ラウルが『マドリーのラウル』である以上、
マドリディスタもマスコミも、Capitanである彼への尊敬と
敬意を忘れて欲しくはありません。
『Raul, no te vayas!!(ラウル、行かないでくれ!)』
そんな1面記事で、花道を作る彼らであって欲しい。
去る者追わず。
教師になって7年目。
日々「教育とは何か」頭を抱える。
今日、あるゼミ生が退学の意思を伝えてきた。
2年半大学に通ったが、取得単位は、他の学生の1/3程度。
「このまま大学に通っていても卒業など見込めない」
最大にして唯一の理由だった。
彼は海外からの帰国子女なわけだが、
豊富な海外経験、堪能なイタリア語など
様々なアドバンテージを背負っておきながら
入学直後から大学生活への順応を怠り、
すぐさま退学の二文字を口にしていた学生であった。
当時、なぜか僕を慕ってくれていた彼には、
就学意欲を高めるべく、大学で努力する意義を伝え、
何とか引止めに成功したものの、
結局、2年という月日は、非情にも彼を退学者に仕立てた。
聞けば、
全力でぶつかったのではなく、
堕落で浪費した2年間。
もしや僕の教育的配慮は、
彼の2年間を奪ってしまったのだろうか。
『先生のお陰で・・・』
保護者からの電話連絡で耳にした感謝の言葉であるが、
教師として感じるのは、彼の将来への不安と
無力感だけ。
去る者追わず
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