長谷川等伯と富士山
去る3月、東京国立博物館で『長谷川等伯展』を見ました。
今年が画家・等伯の没後400年に当たるので、
国宝3件、重要文化財約30件が一挙に公開されたのです。
圧巻は、やはり例の水墨画「松林図屏風」でしたが、
その枯淡崇高独自に至る道のりの初めには多くの仏画があり意外でした。
日蓮上人をなん枚もなん枚も描いています。南無妙法蓮華経と
題目を大書した掛軸もある。等伯が熱心な法華経の信者であったこと。
それはぼくにとって発見のひとつでした。多くの批評や解説は
ほとんど彼の信仰に触れていません。迂闊というべきでしょう。
等伯という人物を予見なく見ようとすれば、初期の数多い日蓮肖像画を
無視する訳にはいかない。そう思うのです。
思わず、宮澤賢治を連想
それら日蓮上人像を眺めながら連想したのは宮澤賢治でした。
あの賢治もまた熱心な法華経信者であり、その信仰から生まれる価値観と
直観から賢治の詩も童話も、農学校での生徒指導も生まれたはずです。
しかし、賢治の詩や童話など文学的な仕事への評価が高いのに対し、
人間賢治の心棒・根源であった法華経信仰を重視した解説や
評論や評価はほとんど見られません。片手落ちを超えて、
公正さを欠いているように思えます。知識人にとって、宗教に触れることは
苦手なこと、できれば触れずにおきたいという空気があるようです。
こういう偏った見方からは、ほんとうの芸術評論は生まれず、
あの世の賢治は苦虫を噛み潰して嘆いているのではないでしょうか。
さて、等伯にもどります。
なんと、長谷川等伯は富士山を描いていた
等伯の「松林図屏風」、その水墨画の世界にぼくは放心しました。
二つの大型屏風は長く続く松林で、心を預けると枝をわたる風の声が
聞えるようでした。松林のなかでぼくは一本の小枝になって
霧のなかに溶ける。なにか、滝に打たれ清められるような思いです。
等伯は解脱してこの絵を描いたのだと、いや描くことによって解脱したのだ。
そんな自問自答がぼくを揺さぶります。
しばらく呆然となって、思考も言葉も消えて眺めていると
見ている者もなにか解脱に近いような気持ちになっていくのでした。
ふと気づくと、左屏風の右端に、富士山がある!
白い雪をかぶった、まぎれもない富士の山頂が描かれているのでした。
京都から富士山が見えるのか? 見えたのか?
いや、見えはしません。等伯は心の目で富士山を見ようとした。
そして見てしまったのに違いない。一心に念じてみた富士が
そこに、ぼかしの松の林の彼方に、彼は富士を見たのです。
法華経の信者等伯は日蓮を敬い、上人と縁のあった富士山を心のなかに
思い描いていたのではないだろうか。肉眼では見ることのなかった
富士山を、心の目で見てしまった。
そういえば富士山は見落とすほどにうっすらと、
しかも屏風の右隅に気品をもって描かれています。
このことを指摘する評論にも接したことはありません。
NHKの番組『日曜美術館』のなかでも、指摘されていませんでした。
些細なことと思われているのかもしれません。
しかし、じつは等伯を知る上で重要な鍵が
このかすかな姿の富士山に隠されているのに違いない。
ぼくはそう感じているのです。
約350ある富士山文化のネットワーク
これら「ふるさと富士山」はどうして生まれたのか。
ぼくが参加しているNPO (www.plantatree.gr.jp )では、いま
「おらが富士」というプロジェクトと取組んでいます。
全国の「ふるさと富士山」すべての、いわれ、歴史、伝承をはじめ
地域の富士山に係わるすべてを洗い出し、継承すべきことは継承するなど
地域の文化と産業を編集整理して発信し、ネットワークするという活動です。
「ふるさと富士山」を基点に新しい価値観で地域の活性化を、というわけです。
皆さんも、「ふるさと富士山」に関する情報を耳になさったら
ぜひ、お聞かせください。
一市民が見る、トヨタ問題。
一生活者にとっての「トヨタ問題」
ぼくが最初に感じたことは、「ああ、やってしまった!」
という、なにかやりきれない思いでした。
愚かなり日本企業、愚かなりトヨタ、という思いでもあります。
『悠々として急げ。悠々として急げ、と言っているのだ』。
そう言ったのは、故・開高 健さん。晩年の言葉です。
<追いつき追い越せ>という日本企業のスローガン。
一切の無駄を省き、可能な限り効率と利益を追求しようという企業姿勢。
そこに、問題の本質があるのではないでしょうか。
急ピッチで成長し、ついにゼネラルモーターズを抜いて
トヨタは世界一の自動車会社になり、世界の注目を集めました。
それから、まだ二、三年しか経たないいま、欠陥が出てしまいました。
そして、複数の死者を出してしまいました。
『おごれる平家、久しからず』です。なんともったいない。
新聞で報じられる損失だけでも、過去の努力と成果はあっという間に
吹き飛んでしまう様子。あまりにも大きな失敗と損失です。
世界の企業のあるいは他企業の「失敗」に学ぶ知恵はなかったのでしょうか。
得意絶頂を味わっていたであろう企業が陥った挫折でした。
もっとも恐ろしいのは「ブランド」への不信の始まりでしょう。
「トヨタブランド」だけでなく、「日本ブランド」も巻き添えを食らいます。
トヨタ社訪問の印象
ぼくは一度、トヨタの東京本社(?)を訪ねたことがあります。
その時の印象が忘れられません。1980年代の初めでした。
ある広告代理店から「トヨタ・・さんに広告の話をしてほしい」と頼まれたのです。
受け付けは企業の素顔です。なにか冷ややかな感じで驚きました。
企業がかもす「気」だったのでしょう。大会議室でぼくがお話ししたのは、
「広告は宣伝ではなく、コミュニケーションです」ということ。
個人が語るように伝えることの大切さ。その広告の発想法などを話しました。
しかし、「トヨタさん」からはほとんど反応はありませんでした。
コミュニケーションの話ではなく、販売促進の話を聞きたかったのでしょう。
大会議室の壁にただ一点、額装された大きな油絵が掛かっています。
一見して、つまらない絵でした。美しくもなく、魅力もないものでした。
そこにも人間らしいぬくもりや、生き生きした印象はありません。
なにか無機質な空間。「文化」の乏しい企業なのだと思って帰りました。
それがもし、トヨタの真の企業体質、企業文化だとしたら・・・
そういう企業に、ほんとうによい製品がつくれるのだろうか。
そういう不安と、好きになれない思いが交錯しました。
一度の体験で大企業を推し量るのは危険です。
しかし、こういう印象は、のちのちにまで及ぶのが人間でしょう。
企業人は一人ひとりが、自社のブランドを示しているのです。
企業文化と、もの作りの心
国宝を初め貴重な仏像などを拝見するとき、ぼくは「職人」を思います。
つくったのはすべて職人だという感慨です。芸術家や技術者ではない。僧侶でもない。
このことは日本だけでなく、歴史に残る世界の美術品にもいえます。
優れた「職人」がいちばん偉いなあ。素朴に感動するのです。
どれも「手づくり」です。そのなんとも言えない雰囲気と伝達する力。
その技はもちろんですが、想像力、工夫、努力。注文主の満足はもちろん
観る人に伝えたいという、心意気や気遣いが感じられます。
むしろ、見る人びとを思い、その心情も配慮した創作力に感じ入るのです。
いまでいう「コミュニケーション」を考えた創作と言えるでしょう。
別の言葉で言えば、発信源であり、機能する造形や絵画なのです。
そしてやがて、それは時間の経過を生き抜いて「芸術」に昇華します。
その技と知恵が後世に継承されていく。それが「文化」というものでしょう。
「もの」をつくるには、そういう心構えと謙虚さがほしいと思います。
信頼感がつなぐもの
人の心を満たし、使う人が幸せになる製品。車ならば、なによりもまず安心感でしょう。
親しい友人は、「この車、信頼できる」とドイツ車に長く乗り続けています。
このたったひと言が、本物のブランドの力なのだと思います。
それはものづくりの哲学と技術の総合が生み出す成果ではないでしょうか。
それは、やがて、時代のなかで企業文化となり伝統となって
ますます強い力、信頼感のある、魅力ある企業になっていくでしょう。
そういう企業がたくさん育ち、日本そのものへの信頼と憧れを勝ち得ていただきたい。
ぼくはトヨタに人間の考察、文化への志向を真剣に考えてほしいと思います。
「販売のトヨタ」から「文化を創るトヨタ」に生まれ変わってほしいと願っています。
人と人、人と自然のコミュニケーション
ぼくが参加しているNPOの基本コンセプトは
『人と人、人と自然のコミュニケーション』です。
そして、その目指すところは心豊かな「ともいき」の社会です。
それだけに、コミュニケーションの大切さを、そして
「ともいき」という価値観を身につけることを、
日本だけでなく世界の企業につよく求めたいと思います。
朝倉 勇の独りごと—27 2008年10月5日(日)
アメリカの金融破綻、
本質は何だとお思いですか?
金融業の破産に、国民の税金を使う
「サブプライムローン」の破局に端を発した
米国の金融破綻。米国政府は最大75兆円という
巨額の公的資金(国民の税金)を拠出する法律を
成立させ、対応しようとしています。
破綻した証券会社リーマンブラザーズには
公的資金を拠出せず、保険会社AIGには国民の税金を
注入。その他、市民には不可解なさまざまな手法。
経営不始末で破綻した金融業をなぜ国民の税金で救うのか。
多くの市民はプラカードを掲げて抗議のデモ行進。
市民、生活者の正直な気持だと思います。
金融企業に倫理観はあるのか?
日本でバブルがはじけ金融業が危機に陥ったとき
「税金を金融企業救済に使うな」という抗議デモは
起きませんでした。市民意識の違いでしょうか。
そして、巨額の公的資金(国民の税金)で立ち直った
日本の金融業は、いま好調の様子です。でもそれが
国民の税金のおかげだったとの認識は
どのくらいあったでしょうか。あるでしょうか。
国民に感謝した銀行はあったか?
業績を回復したどの銀行が、あのとき
国民に対して感謝を公に表明したでしょうか?
心ある経営者ならば、倫理感のある企業ならば
「国民の皆様、皆様の税金を使わせていただいた結果、
借金を返済でき、立ち直ることができました。
まことにまことにありがとうございます。」
というお礼の挨拶を、新聞広告などを用いて
公表するのが礼節というものではないでしょうか。
お礼は政府と役所にだけして、国民には
礼儀を尽くさない。倫理観が欠如している。
というのが、ぼくの率直な思いです。
市場原理主義の破綻ではないのか?
さて、米国の今回の金融業破綻とは
「市場原理主義」というシステム自体の欠陥であり
不全を起こした病気なのではないのでしょうか。
金さえ儲かればどんな金融商品を売りさばいてもよい。
という金融資本主義が自らのシステムで穴に落ちた。
そうはいえないでしょうか。であるなら
失敗した企業がすべての責任を負うべきでしょう。
国が(国民が)救済する必要はないはずです。
米国は、世界各国に巨大な損失を与えています。
ほとんど犯罪に近い、ともいえそうです。
国際的な犯罪行為。まるでテロ攻撃のようです。
それに対して「抗議」の声が聞こえません。
世界の良識も死にかけているのでしょうか。
金融資本主義が人間を壊している
一方、このパニックは買い物のチャンスとばかり
破綻した獲物(企業)を買取ったり、出資を狙う
世界の金融資本が目を輝かせています。
安くてお得な買い物だというわけです。
どこまでも「金儲け」の動きです。
こうして、金融資本は人びとの心を乱し
思いやりのある健全な社会づくりを妨げます。
人間の幸せを考える新しい経済学や金融システムは
開発できないのでしょうか。
このままでは、人間の破壊はますます進むでしょう。
人間社会の秩序を回復するには
安心、喜び、希望のある人間社会は
どうすれば創り出せるのでしょうか。それは、
きっと、人の考え方の根本を考え直すことしか
ないのではないでしょうか。
ぼくが参加しているNPO では、その基本を
考え、呼びかけることから活動を続けています。
ホームページをご覧いただきたく思います。
NPO PLANT A TREE PLANT LOVE
朝倉 勇の独りごと―26 あのパンダのこと 2008年6月22日(日)
もうひとつの懸念、あのパンダたちと四川大地震
その日ぼくは、パンダと並ぶ写真を撮ってもらっていました。
飼育係に連れられてきたそのパンダは慣れた様子で、
どうやらお気に入りの場所に着くとどっしりと腰を下ろしました。
招かれた日本動物園水族館協会の園長さんたちとぼくは
指示に従って一人ずつ静かにパンダくんに近づき横に並びます。
中国カメラマンがパチりと撮影。特別なサービスのようでした。
恐る恐る近づいたぼくをパンダくんが見上げたときは、
思わず足がすくみました。
しかし、なにごともなく全員の記念撮影は終了。
そして、いま2008年、大地震に襲われた四川省とパンダ保護区。
10万余の死者をはじめ、被災した市民の皆さんのことと共に
母子パンダや、硬い毛の雄のパンダ、若ものパンダたち。
みんな、どうしているのでしょうか。安否が気がかりです。
10余年前のこと。場所は中国四川省の山の中。
いま打撃を受け、世界の注目を集めている中国四川省成都市。
その成都から古いバスでに3時間ほどのところにある
パンダ自然保護育成センターを訪れたときのことです。
産ませ、育て、自然界に返そうという方針で、山の小部落に
自然保護育成の拠点がつくられていたのです。
前日は市内の動物園でパンダ飼育の模様を見学していました。
生後間もない赤ちゃんがお母さんの胸に抱かれている。
なにか崇高な姿に感じられ、胸がつまったのを思い出します。
動物園という自然観察施設の今後をどうするか。
それは世界中の動物園が考えている大きな課題です。
檻の中に閉じ込めて、見せ物を眺めるという人間本意の
傲慢な運営方法は、動物園の多くがとらなくなっています。
遅まきながら、動物たちと人間は同じ生き物であり、
共に生きていく仲間だという考えが普及しつつあます。
ぼくは30年まえから、日本動物園水族館協会が主催する
動物愛護週間の標語審査をお手伝いしてきた関係で、
この稀な中国動物園訪問に随行できたのでした。
北京、西安、成都、上海と4つの動物園を訪問し、
中国では動物たちがどのように扱われているか、市民たちは
動物園とどのように関わりっているかを視察できました。
成都市での、心のこもったさよなら晩餐会
成都を発つ前夜、盛大な夕食会が開かれました。
「黄鶴楼」というどうやら高級店。宴たけなわとなり、
日中関係者のスピーチが始まりました。
関係者でないぼくは安心していると、とつぜんお鉢が。
とっさに頭に浮かんだのは、その店の名「黄鶴楼」です。
詩人李白が「黄鶴楼」を歌った詩を思い出したのです。
それは転勤する友と別れを惜しむ、こんな内容の詩です。
友、君は花咲く三月この黄鶴楼を去って
遥か西の任地、楊洲に舟で下って赴く
君の乗った舟は、小さくなりついにその帆は消えた
あとはただ、長江が天の際にまで流れるのが見えるのみ
という、惜別の歌です。中国側はこの故事にちなんで
「黄鶴楼」で一席設けてくださったのに違いないと思い
その詩を朗読して(中学三年で習ったのを運良く覚えていたのです!)
中国側の文化的教養と配慮に感謝したのでした。
幸い、拍手をいただきましたが、あの動物園関係者たちは
無事だったでしょうか。ひたすらご無事を祈っています。
朝倉 勇の独りごと―25(その1) 2008年6月1日 山下勇三さんのこと
朝倉 勇の独りごと―25(その1) 2008年6月1日
山下勇三さんのこと
親友を失ったとき、人はどう変化するのでしょう。
ぼくは、山下勇三という、イラストレーターで
広告デザイナーとしても独特のよい仕事をした
暖かい心根の友だちを今年1月末に失いました。
彼を思うと、ぽかんと穴があいていて、その穴が
いつまでも埋まらないのです。
悼む言葉を書けないまま6月が来てしまいました。
これまでに戦友ともいえる2人の友を失っています。
そういう年齢なのだからとも言えるのですが。
真に才能というものをもつ2人
ぼくと山下勇三君は「ライトパブリシティ」という
広告制作会社に1960年1月に入社しました。
1年先輩に和田誠さんがいました。というより
和田さんが後輩の山下君を招いたのでしょう。
2人は多摩美術大学時代にすでに抜群の存在でした。
広告もグラフィックデザインも知らないぼくが
この会社に入ってコピーライターというものになりました。
そして、ほんとうの「才能」を持つ人物を知りました。
和田誠と山下勇三という2人です。2人はまず頭脳明晰。
広告デザイナーであり卓抜のイラストレーターだったのです。
驚きであり、まぶしく、羨望を禁じ得ませんでした。
(ぼくのブログの似顔絵は和田誠さんが描いてくれたものです)
1960年、日本は大きなカーブを切った
ぼくたちが入社した1960年は、「日米安全保障条約」が
国会で審議され6月に衆議院を通過しようとしていました。
連日、学生や労働組合の組合員が全国から上京し、
国会議事堂を囲み、あるいは日比谷公園等で「安保反対」の
気勢をあげています。政府は機動隊を動員しました。
当時の学生や労働者は「日米安保条約」が、
どれほど危険な日米軍事同盟になるかを肌で感じていたのです。
平和憲法さえ危うくなるという純粋な危機感の緊張でした。
そんなある日のこと、和田誠さんが
「僕たち何もしなくていいのかな」といいました。
なんと勇気ある発言だろう。ぼくは驚きました。
デザイナーとして、コピーライターとしてできることを
しようではないか、という発案です。数人が賛同。
社内で募金を呼びかけ。カンパしてくれる役員もいました。
安保条約反対のポスターとチラシをつくりました。
それを知り合いの書店やバーへ。さらに日比谷公園での
大集会に持ち込み、上京してくるバスの車体にも張りました。
出版労働組合にも持ち込み活用してもらうなどなど。
中心的に動いたのが和田誠さん、山下勇三君、朝倉です。
しかし、死者まで出して安保条約は成立。
(その2に続きます)
朝倉 勇の独りごと―25(その2) 2008年6月1日 山下勇三さんのこと
高純度・高品質の100円化粧品をつくる
この運動で江田三郎さんという社会党書記長に出会い
市民感覚の提案を求められました。
A化粧品会社の M社長が、化粧品は100円で、
十分に品質のよい高純度のものができますと提案。
ぼくは「ハイム」と命名(heim、家、家庭、故郷などのドイツ語)。
山下君は容器デザインに取組み、案内チラシも2人で制作。
シンプルでとても感じのよい100円化粧品が誕生しました。
化粧水、クレンジングクリーム、ナイトクリームなど、
女性用、男性用、数種類の基礎化粧品です。
販路は労働組合売店、安い良品を求める意識の人など。
100円口紅を例にとれば、原価は5円~10円ですよ、
という M社長の言葉がいまも忘れられません。
まったく無償の青春時代の仕事でした。
数年後、日本橋の三越本店でハイム100円化粧品は
売られるようになりました。さらに時がたち、
「無印良品」の時代が。良質ならば安い方がよい。
この思想はいま、各方面にも浸透しつつあると思います。
「無印良品」の新聞広告で赤ちゃんのイラストを
山下勇三君が描き評判になりました。ハイム化粧品が
タネとなり新しい時代に芽を吹いたと思ったものです。
子どもたちに自然をとり戻そうHAND IN HAND
山下勇三君は正義感の強い人でした。
お兄さんが原爆に被災したこともあり平和への意思は
強固なものがあったのだと思います。
ぼくたちのNPO PLANT A TREE PLANT LOVEでは、
「子どもたちに自然をとり戻そう」という活動をしています。
山下君にこの話をしたところ全面的に賛同してくれ
シンボルのイラストをはじめ、毎回、植物や昆虫など
すばらしいイラストを描いてくれていました。
手に手をとって身近なところに木を植えよう
それを育てて五感をとり戻そうという呼びかけなのです。
いま第4回目のポスターが事務局に張ってあります。
これが、彼の遺作となってしまったのでした。
(handinhand/index.htmlをご覧ください)
せめて山下勇三君の一端をご披露したく、今回は
こんなブログになりました。
山下勇三君を悼んで。朝倉 勇
自衛隊の半分が、「救急災害援助隊」だとしたら、日本は、どういう国になれるだろう。
ミャンマーを襲った大サイクロン。
続いて起こった四川省の巨大地震。
地球が狂ってしまったのではないかと思えるほどの
相次ぐ巨大な災害です。
こんなとき、同じアジアの国・日本はなにができるのか。
多くのひとが考えていることだと思います。
卓越した提案に出会う
サイクロンの直後に、ぼくは卓越した提案に出会いました。
勝田祥三さんの次のような提案です。そして、その直後に
大地震が四川省を襲ったのでした。
勝田さんは「勝田祥三のメールマガジン 」で
次のように書いています。
“憲法記念日に寄せて。” 勝田祥三
昭和21年(1946年)の11月3日に公布され、翌年5月3日から
施行された日本国憲法の前文と第二章 戦争の放棄、第9条をゆっくり
と何度も読みかえしました。
戦力としての軍隊を持たず、世界のいかなる地域における紛争にも、
武力を用いて介入せず、従って、世界のいかなる勢力からの軍事的干渉
をも拒否する、絶対平和の崇高な決意を日本国が世界に、表明したのが
日本国憲法です。
現在、世界中のあちこちで紛争の絶え間がありません。不幸な被災者
を救助するために、日本も、実力相当の援助の手を差し伸べることは国連
加盟国として必要です。しかも海外派兵を禁じた憲法との矛盾を解決する
には問題が山積みしています。
そこでいろいろと考えてみました。憲法の絶対平和の精神を歪めるので
はなく、自衛隊を国防のみのために1/2、残りの1/2は新たな災害救助隊、
つまり地球の平和維持に貢献する部隊として改組したらどうでしょうか。
人間殺傷のための兵器ではなく,災害救助のための強力な機器を充実して,
天災・人災を問わず、人命救助・災害復旧のために活動を、国連とも各国とも
連携を取りながら直ちに開始するという、より積極的な平和憲法を考えてみ
てはどうでしょうか。
現在ミャンマーでは強力なサイクロンが襲い、多数の死傷者が出ていると
いうこと。こういう時に日本の地球平和貢献部隊が直ちに活動を開始するの
です。あなたはどう考えますか。
(このメルマガは、四川省大地震の起こる直前に書かれていました。
まるで、地震を予知していたかのようです。:朝倉註)
初めて出会った具体的な憲法提案
勝田さんの主旨は、「憲法の絶対平和の精神を歪めることなく、
より積極的な平和憲法を考えてみよう」という呼びかけです。
「自衛隊の半分を新たな災害救助隊、つまり地球の平和維持に
貢献する部隊として改組したら」と。
ぼくは、これまでにない具体的な、現実的な提案と共感しました。
その部隊は、「人間殺傷のための兵器ではなく、災害救助のための
強力な機器を充実し」ており、「天災・人災を問わず、
人命救助・災害復旧のための活動」に専念する。もちろん
「国連とも各国とも連携を取りながら直ちに開始」というのです。
ぼくは唸りました。
「環境立国」より前に、「人道支援立国」になれる
これまでも大きな災害のとき、すぐにでも緊急救援隊が
駆けつけたらいいのに、と思っていました。
が、自衛隊を二分し、一方は救急支援専用部隊に、
とまでは気づきませんでした。
もし、この案のような自衛隊に進化できたら、
中国四川省の巨大地震にも、1000人規模の
人命救援隊が活躍することができます。
どれほどの生命を救うことができたでしょう。
サイクロンに対しても、相手政府が受け入れを認めれば
すぐにでも飛び立つことができます。
民間機などを使わず、専用機で世界のどこにでも
人道支援に出動できるのです。
日本は、このような「志」をもつことによって、やがて
「平和人道支援立国」となり、世界の信頼と尊敬を
受けることができる国になれるでしょう。それに加えて
自然環境との共生(ともいき)に徹し「環境立国」にも
なれれば、「観光立国」への道も自ずと開けてくるでしょう。
そうすることによって、経済活動も好転するでしょう。
(個人的には、自衛隊は100%「平和人道支援隊」に
なればよいとも思っていますが。)
毎月2回新鮮になれ、よい国づくりに参加できる
あなたも、月に2回の「勝田祥三のメールマガジン」を
ぜひお読みください。毎月2回、あなたも生まれ変わるような
体験ができると思います。元気がでますよ。
ちなみに彼は、ぼくも参加している
NPO PLANT A TREE PLANT LOVE の理事長です。
(勝田祥三メールマガジン配信ご希望の方はこちら
へ)
朝倉 勇の独りごと--23 2008年3月31日
本田美奈子さん と
「ごらん、あの緑を」
少し前に、こんな詩を書きました。「あの緑を」という題です。
あの緑を
六月の夜 風が吹いている
木々は逆らわない
風に身をゆだね じぶんの若い緑を揺らしている
すると
ごらん、あの緑を
という声が聞こえたような気がした
「ごらん、あの緑を」と、ヴェルレーヌは言った。「人間の
世界というやつは、この灰色の雨と風みたいなものさ。
何とか努力して、あのちっぽけな緑にならなくちゃね」*
ヴェルレーヌは若いジャック・ティボーにそう言って
雨と風の十月の寒い夜
擦り切れた短い外套姿でリュクサンブール公園の近くを立ち去った
そして三カ月後 一八九六年一月七日から八日にかけての夜
死んだ という
ごらん、あの緑を
と 僕は胸のなかで言ってみる
あのちっぽけな緑にならなくちゃね
とも 言ってみる
詩人の心にあったもの それが ちっぽけな緑になろうとする
純なおもいであったことは
意外でもあり
いや 詩人だからこそ
と
風に揺れる木を眺めながら 僕は
なんとなく納得のいくような気がした
*ジャック・ティボー『ヴァイオリンは語る』粟津則雄訳
ジャック・ティボーは、20世紀最大といえるヴァイオリニスト。
若いティボーが、ヴェルレーヌ(19世紀末フランスの詩人)に
こんな状況で出会っていたのでした。
ヴェルレーヌの最晩年を知り、ぼくはこの詩を書いたのです。
本田美奈子さんの♪「エデンの東」
去る3月24日のNHKテレビ番組に釘付けになりました。
それは、急逝骨髄性白血病という造血器官のガンに倒れた
歌手・本田美奈子さんが、89歳の作詞家・岩谷時子さんと交わした
「ボイスレター」というドキュメンタリー番組でした。
二人は同じ病院の異なる階に入院。会えぬまま声の手紙を交わします。
その中で彼女は歌います。「エデンの東」の歌詞の一節。
“ さあ 二人で歩いていこう
生まれ変わる あかつきの空
あがきを忘れ 今日からは
いつもそばで あなたのために
捧げましょう 私のうたを“
血を吐き、毛髪は抜け、スカーフで頭を覆っている本田美奈子
原爆症と同じ症状になり細っていくミュージシャン
確実に死が迫っている、極めて重い病の中で
岩谷さんを「お母さん」と呼びかけながら
彼女の、透明な声が、か細く流れていきます。
エデン(楽園)の東のイメージは、彼女の歌の中で
優しい、愛と思いやりに満ちたものになっています。
「もう、あがくことは止めて、いつもそばで、あなたのために
私のうたを、捧げましょう」と献身を歌うのでした。
「みんな手をつないで生きて行こう」
と 書くのは、岩谷時子さん
骨折で動けない岩谷さんは作詞した「ジュピター」の中で
“ 悲しみ知らない人はいない
嘆きを乗りこえて行く平和が
世界を・・・
みんな手をつないで生きて行こう“ と言う。
ジュピターはローマ神話で神々の王。天の支配者であり
人間の明朗で幸運な面を表す惑星ともいわれます。
本田美奈子さんは死期を感じていたのに違いなく
この曲もボイスレターで歌うのでした。
その歌声にヴェルレーヌの最晩年のイメージが重なりました。
大きな欅の木が私に力をくれます、と言って
いったん自宅に戻ったものの、病状は悪化していきます。
本田美奈子さんは、まいにち窓から欅の木々を眺め
「お母さん、欅の木が私をはげましてくれています」と。
岩谷さんへの声の手紙で語り、歌いかけてもいたのですが・・・
再入院し再び帰らぬ人になった、と番組は伝えて終わりました。
人が、最後に思いを交わすのは、ほんとうに親しい人と
木々たちなのでしょうか。 そうです、きっと。
「大自然」の命と、感受性で語りあいたくなるのですね。
朝倉 勇の独りごと--22 2008年2月4日
世界を、一匹の怪獣が暴れまわっている
「サププライム・ローン」という怪物です。アメリカがこしらえて
世界中の金融企業を食い荒らしています。そして各国政府も経済界も
打つ手がなく、その怪獣に振り回されているのです。
こしらえた本家のアメリカではその被害はもっとも大きく、
巨大銀行シティグループの損失は3兆円、メリルリンチは2兆4000億円だと、
明治大学の高木勝教授は今朝NHKラジオで語っていました。
日本でも損害が出はじめ、大銀行では300億円前後の赤字を計上して
いるようです。市民からほとんどゼロ利子に近い超低金利で金を集め、
こういうインチキ商品に「投機」していたのです。
頭のバブル構造は、20年前のバブル時代と全く変わっていませんね。
悪影響は、私たち一般市民の日常生活にも出はじめました。
石油の高騰から始まり、食料品を始めあらゆる料金の値上げです。
なんというタチの悪い、アメリカ産の怪物でしょう。
「サププライム・ローン」とはどんな怪物か
それは、低所得者層を対象に考えた住宅ローンだという。
ということは、初めから危険を孕んだ商品だったのではないか。
住宅不動産の価格は上昇するから、ローン金利は高くても資産は増えると
宣伝して多数の市民にローンを組ませました。低所得者は騙されたのです。
もともとリスクいっぱいの危険な商品。粗悪なローンなので焦げ付きが多発。
それが引き金になって、世界の金融市場を混乱に陥れているというのです。
欧州諸国でも被害は超多額に上っているらしく、あれやこれやで
世界経済に、そして暮らしに悪い影響を与え始めています。
このローン、欠陥商品だったのではなかったか
という疑問が湧きます。ローンを組まされた低所得の米国市民は
深刻な打撃を受け、住むところを失う人も多いといいます。
マイホームの夢を見て住宅を購入した市民たちは、金貸し業者に
騙されたのです。被害はそれだけではありません。
世界中の金融会社、銀行や証券会社、保険会社などが引っかかりました。
「サププライム・ローン」をさらに加工した「金融派生商品」とやらに
手を出したからだという。これら金融派生商品は金利が高い。
そこに目を付けて利益をとろうとしたわけです。マネーの世界は
利益だけが優先されます。高い金利のあるところにマネーは殺到します。
そこには道徳観も倫理性もありません。こうしてマネーの市場主義経済は
世界秩序を乱し市民社会を不幸に陥れます。マネー資本主義の欠陥でしょうか。
考えてみましょう。この金融商品、ほとんど「テロ」ではないでしょうか。
しかし、識者もメディアも不況を恐れる発言はしても、市場と社会を乱し
不幸を生み出す商品の反社会性、反道徳性についてはなにもいいません。
政府、経済界、マスコミ界も道徳性が失われ、識者の多くも
不感症になっているようです。
武器弾薬で襲うものだけが「テロ」なのではない
という感想を、ぼくは持ちました。
市民が幸せに暮らせる安心な社会を望むとき、心の目を大きく開いて
ものごとの本質を考えなければいけないと思います。
朝倉 勇の独りごと-21 2008年1月21日その1
「ウソつきは、ドロボーのはじまり」。
子どものころ、「うそつきは、ドロボーのはじまり」と
しつけられた人は多いでしょう。
常識のひとつ、社会道徳の基本だったと思います。
ところが、現状はどうでしょう。
この日本に、新手の「ウソつきドロボー」が現れました。
嘘、それも極めて悪質な嘘を長年ついて騙していたのです。
だれを? 彼らは
大胆不敵に政府を騙し、
官僚たちを騙し、
取引先のお客さま企業をも騙し、
流通機構を騙し、
マスコミ・大手新聞社などを騙し、
社会全体を騙し、
そして最終顧客である市民を騙して、
利益をあげていたのです。嘘と騙しの経営です。
いずれも名前の通った一部上場企業。
その実体は嘘と騙しで稼いでいた、企業たちでした。
先週、長年の嘘が発覚(おそらく内部告発で)して
マスコミに書きたてられた大手製紙メーカー5社。
その社名と社長をここで確認しておきましょう。
(今回のブログ、少し長くなりますがガマンしてお読み下さい。
日本という国、社会の実体が見えてきます)
古紙率の偽造を長年行ってきた5大製紙メーカー
・ 王子製紙(篠田和久社長)
・ 日本製紙本社(中村雅明社長)(辞意表明)
・ 大王製紙(井川意高社長)
・ 三菱製紙(佐藤健社長)
・ 北越製紙(三輪正明社長)
王子製紙は1994年から古紙の配合率を偽装しはじめたと
新聞は報じました。現在まで、実に14年間ものあいだ
市民を、社会を、国家を、新聞社をも騙し続けていたのです。
王子製紙の場合、「中には、再生紙をうたいながら
古紙を全く配合しないはがきやコピー用紙もあった」
(朝日新聞1月19日)といいます。
なんという恥知らず。悪い実体の企業でしょう。
企業モラルはどこにあるのか。企業理念にうたっている
「社会への貢献」を、どう考えていたのか。
会社案内にもウソを書き社会を騙し、学生を騙し
人材を採用していたのでしょうか。
記述は表向きの「広告的な表現」に過ぎなかったのか。
しかし、これらの偽装、底辺には関係組織いろいろの間で
なにか暗黙の了解があったのではないかと疑いたくなります。
果たして監督官庁は知らなかったのか、政治家に献金は
届いていなかったのか。なぜ、新聞社まで偽装に気づかずに、
王子製紙などの広告を掲載を歓迎していたのか。
(その2に続きます)