朝倉 勇の独りごと―25(その1) 2008年6月1日   山下勇三さんのこと | 朝倉 勇の独りごと

朝倉 勇の独りごと―25(その1) 2008年6月1日   山下勇三さんのこと

朝倉 勇の独りごと―25(その1)  2008年6月1日


山下勇三さんのこと 


親友を失ったとき、人はどう変化するのでしょう。

ぼくは、山下勇三という、イラストレーターで

広告デザイナーとしても独特のよい仕事をした

暖かい心根の友だちを今年1月末に失いました。

彼を思うと、ぽかんと穴があいていて、その穴が

いつまでも埋まらないのです。

悼む言葉を書けないまま6月が来てしまいました。

これまでに戦友ともいえる2人の友を失っています。

そういう年齢なのだからとも言えるのですが。


真に才能というものをもつ2人




ぼくと山下勇三君は「ライトパブリシティ」という

広告制作会社に1960年1月に入社しました。

1年先輩に和田誠さんがいました。というより

和田さんが後輩の山下君を招いたのでしょう。

2人は多摩美術大学時代にすでに抜群の存在でした。

広告もグラフィックデザインも知らないぼくが

この会社に入ってコピーライターというものになりました。

そして、ほんとうの「才能」を持つ人物を知りました。

和田誠と山下勇三という2人です。2人はまず頭脳明晰。

広告デザイナーであり卓抜のイラストレーターだったのです。

驚きであり、まぶしく、羨望を禁じ得ませんでした。

(ぼくのブログの似顔絵は和田誠さんが描いてくれたものです)


1960年、日本は大きなカーブを切った



ぼくたちが入社した1960年は、「日米安全保障条約」が

国会で審議され6月に衆議院を通過しようとしていました。

連日、学生や労働組合の組合員が全国から上京し、

国会議事堂を囲み、あるいは日比谷公園等で「安保反対」の

気勢をあげています。政府は機動隊を動員しました。

当時の学生や労働者は「日米安保条約」が、

どれほど危険な日米軍事同盟になるかを肌で感じていたのです。

平和憲法さえ危うくなるという純粋な危機感の緊張でした。

そんなある日のこと、和田誠さんが

「僕たち何もしなくていいのかな」といいました。

なんと勇気ある発言だろう。ぼくは驚きました。

デザイナーとして、コピーライターとしてできることを

しようではないか、という発案です。数人が賛同。

社内で募金を呼びかけ。カンパしてくれる役員もいました。

安保条約反対のポスターとチラシをつくりました。

それを知り合いの書店やバーへ。さらに日比谷公園での

大集会に持ち込み、上京してくるバスの車体にも張りました。

出版労働組合にも持ち込み活用してもらうなどなど。

中心的に動いたのが和田誠さん、山下勇三君、朝倉です。

しかし、死者まで出して安保条約は成立。

(その2に続きます)