毎度。



春ですね・・・


年度末や花粉症の為ですかね・・・少しお疲れモードですが、

「桜」で和んじゃいました。




今年は、ウッソ~っていう感じで


アッという間に見頃ですね。



サッカー代表戦のヘタレ具合や、


浦和レッズの混乱も、


事業計画も花粉症も、



暫し忘れて・・・「春」を感じましょ!








多くの企業、学校では、

あと一ヶ月ほどで新年度を迎えます。

(プラウドも3月決算です。)


毎年のことではありますが、

この季節は、

寂しさと期待が入り混じった複雑な気持ちになります。





慣れ親しんだ環境との別れというよりも、

親しき人や、愛着ある建物との別れ、

そして、

共に共有してきた時間に区切りをつけること、などなど・・・

慣れるのは難しいものですね。


保守的になっているわけでも、
新たな環境に怯えているわけでもないのですが、

どうしても感傷的になっている自分に気づきます。






「過去を遠くまで振り返ることができれば、

 未来もそれだけ遠くまで見渡せるだろう」


~ウィンストン・チャーチル氏






上記のウィンストン・チャーチル氏の語録を知ってからは、

毎年訪れる、この気持ちの節目が

今の自分を形成してきた気がします。




お世話になった人、仲間への気持ちが、

後に人脈となり、

過ごした時間を懐かしむ心が、

これまでの歩みの軌跡を描いていると感じるからです。






過去に拘らず、

新たな気持ちで一歩を踏み出すことも大事ですが・・・


その前に、

自分の素直な感情に向き合い、

目一杯感傷に浸る事。


過去の歩んだベクトルから、

未来への歩むべきベクトルをイメージする事は、

同じく意義のあることだと思えます。






私は、

2007年度の残りの一ヶ月をふりかえる事と

新年度に向けての準備に充てていきたいと考えています。






私は中小企業という呼び名が嫌いだ。


特に“中”という言葉が気に入らない。


中途半端なうえに、

中と小を一緒くたにしているところも気に入らない。


別に、ボヤキ漫才ではないが、
プラウドも社員数や売上げなどで分類されると

中小企業ということになるが、私は認めない。


政府の中小企業向け“支援”や“対策”などという言葉を聞くと

無性に腹が立つ。


人を馬鹿にするなと言いたい。


小さくても強く、たくましく、存在価値のある企業はたくさんあるし、
反対に大企業でも、生き残る強さも、存在価値もないような企業はいくらでもある。


いい加減、規模の大小で、

強さや価値やブランドを判断するのはやめてもらいたい。


ダイエー、JAL、ソニー、そして不二家と
誰もが知る大企業の存在価値とブランドは、いつまで続くのだろうか。


これからは、

間違いなく小さな会社(中小企業ではなく)が

日本をリードしていく時代。


何の疑いもなく私はそう信じている。

規模の拡大が利益の拡大につながる。


それはある意味事実だろう。


仕入れや流通のコストを削減することにより

価格競争力が生まれる。


資金調達力も強まる。


小さな会社では、

この競争に打ち勝つことはできない。


ジャック・ウェルチがはじめた

“事業の選択と資源の集中”は
今や世界のグローバルスタンダードだ。


国内においても、金融や流通など、

あらゆる分野で統合や合併による

規模の拡大が進んでいる。

大企業だけではない。


新興市場に上場するベンチャー企業が目指しているのも

同じように規模の拡大だ。


買収と統合を繰り返し、

規模の拡大により増収増益を続け、
時価総額の最大化を目標としている。


では、

このような合併競争の中、

規模の小さな会社はどのような戦略をとるべきなのか?

答えは簡単だ。


選択と集中である。


規模の拡大は、

選択と集中という戦略の真逆に位置している。


規模を拡大すればするほど商品と顧客を絞り込みにくくなるからだ。
つまり、

この戦略は、小さな会社ほど向いているということだ。

ただし、

選択と集中の方法を間違ってはならない。


選択するべきは、

より高付加価値の高額商品。


そして、

付加価値に迷わずお金を払う消費者だ。


間違っても商品の価格を下げて、

規模の競争に巻き込まれてはならない。

そしてもうひとつ。


集中するべき資源は、量ではなく質である。


つまり、

人材の数ではなく質で勝負するのだ。


大企業には確かに優秀な人材がいる。


だが全員ではない。


大企業は

その規模を維持するために、

ある程度の人数を確保せざるを得ないからだ。


この少子化の時代に

何百人もの人間を無理やり採用すれば、
そのレベルに大きな開きかがでることは

目に見えている。


優秀なのは、

せいぜい上から1~2割程度である。


そして、その優秀な人材を、

細分化された小さなマーケットに投入することはできない。


そこが

大企業の最大の弱点であり、

規模の拡大を追及せざるを得ない理由でもある。

これからは

大企業の経営は見習うべきではない。


下請けに甘んじていてもいけない。


私たちには、私たちのやるべきことがあり、
その追求こそが、

この国の未来を支えていくのだ。




私は、仕事柄多くの物流会社のトップと会う機会が多い。


様々なトップと会うと、
そのトップが、

何に注力しているか?

また、どのような業務が
そのトップの中心になっているかが、

その会話ややり取りから解ってくる。


当然のことながら、

トップしかできない仕事に

注力してもらうべきなのであろうが、
人材がいない、人手がないということで、

トップ自らが他業務を兼務していることが多い。


E社の社長は、

年商100億クラスにまで登りつめたが、
「現場主義」に徹して現場知識、

ノウハウ面で管理職をリードしたいという理由から
大半の時間を庫内のフォークリフト作業に費やしている。


またF社の社長は

父親である会長としばしば意見が衝突してしまい、
周囲が戸惑うのを危惧して

営業に専念し、できるだけ外出するようにしているという。


一方、

G社の専務は実質トップでありながら、
後継者として、

どのように社長のスタイルを構築すれば良いかを勉強するために、
日々、社長の秘書のように行動を共にしている。


ここで重要なのは、

トップの仕事とは肉体労働ではなく、
精神労働であるということである。


したがって、

E社、F社の社長、G社の専務の肉体業務は

それぞれの背景、事情があってのことであるが

彼らが、

どのような精神的業務を行っているかがポイントである。


私は、トップしかできない業務、

トップ自らが行うべき業務は5つあると思う。


1つ目はカネ。資金繰り、銀行・株主との関係づくり。
2つ目はヒト。ヒトの採用と教育。
3つ目は、将来のビジョン、方向性を考えること。
4つ目は社内のモラールを構築すること。
5つ目は情報の共有化、価値観の共有化に注力することである。


5項目、いずれも真剣に取り組めば取り組むほど、

神経戦となる。


一度、現場を離れて頭が割れそうになるまで

考えてみようと思う。





『経営理念』

「株式会社プラウドは
 総ての人々の働く喜びと、感動と、感謝、
 そして、物心ともに豊かな生活を追及します。」





創業以来、
拠所にしてきた『経営理念』に迷いはありません。






暑い中、寒い中、
一生懸命働くスタッフさん達の力になりたい!

コスト削減命令と人手不足の中、
現場の改善に日々邁進している御客様方の力になりたい!

派遣業も、運送業も、請負業も・・・
総てが「サービス業」です。




私達は、
「物」を作っている「メーカー」ではありません。

私達は、
「特別なスキル」を提供する「プロフェッショナル」ではありません。

私達は、
「ごく普通の人」を「特別な想い」でフォローし、
「悪戦苦闘する現場」を「特別な熱意」で改善する、
【サービス業】のプロフェッショナルを目指しています。





私達、プラウドは、

「日本一誇れるサービス企業」になりたい!

「日本中から求められる企業」になりたい!





プラウドは「想い」+「熱意」=【誇り】を行動基準として、
「なりたい自分達」=「日本一、誇れるサービス企業」を目指します。









あけましておめでとうございます!


年始のバタバタが、ボチボチと片付きだして

2008年が始まったなあ・・・という感じです。


ついつい更新がおろそかになってしまいますが、

今年も御付き合い頂ければ幸いです。


プラウドも、

そろそろ踊り場を超えて

第2の成長期・・・ホップ・ステップ!へと行けそうです。


チーム全員のパワーの総和を超えるパフォーマンスはありえません。


新しい仲間も増え、

Newプラウドは、

「チーム全員の成長」を

「会社の成長」に繋げて


皆が物心ともに豊かな人生をおくれるように

日々ファイトしていきます。


本年も宜しくお願い致します。





自慢とは、

自分がいかに価値が高いかを

認めさせようと

他にひけらかすこと。

誇りとは、

他に影響されることなく、

他を影響することなく、

自らだけが、

自らに置く価値。






人間は「誇り」なくして生きる事はできない。


誇れるものが心の中にあるからこそ、

人は力強く生きていけるのである。


自分の父親が、

こんな生き方をしたのだ、

自分の母親は、

こんな母親であったのだ、

自分の会社には、

こんなに素晴らしい先輩がいたのだ、

という事を知ったとき、

人は、

「誇り」を持つ事ができるのだ。



今、日本人に足りないものは、

この「誇り」だと私は思う。


自分の中に「誇り」をつくる為には、

努力が要る。


ボーッと生きていても、

何も見る事はできない。


自分自身を大切にできない人間は

他人を大切になどできない。


今、現在の中に

喜びと感謝を見出す事ができない人間は、

いつまでたっても幸せにめぐり合う事などできない。


幸せというものは、

人に与えてもらうものではないからである。


写真は、

太平洋戦争直後に米軍の従軍カメラマンが

長崎の原爆投下後の死体処理場で撮影したものだそうです。


背中の弟は、前夜に死んでいます。


少年の目の前には、たくさんの死体が焼かれています。


父母は死に、最後まで守った弟が死んで、

少年はこの後、弟を火に降ろし、

写真の姿勢のまま、見送ったそうです。


精一杯の努力で弟を守ってきたのでしょう。


結果として、想いは適わなかったとしても、

少年の心には、

生き抜いていく「使命」が刻まれたのではないでしょうか。

それこそが、

「誇り」というものではないかと思います。






 

広辞苑で、ブランドという言葉を調べると


“商標。銘柄。特に、名の通った銘柄。”


と書かれている。


確かにその通りではあるが、

これでは何も言っていないのと同じである。


ブランドとは何か?


誰が生み出しているのか?


どこに存在しているのか?


などなど、

ブランドに関する疑問や質問に答えたものとは言えない。

近頃、JALや不二家・・・白い恋人、赤福の問題で、
ブランド失墜という言葉は

毎日のようにささやかれてはいるが、
そもそも「ブランドの定義」とは何なのか?


それが明確でない以上、

失墜の原因も、本当のところは解らないはずである。



たとえば、

ブランド力は認知度に比例するのか。

何となくそのような気はする。


その証拠に、

ブランド戦略には莫大な広告予算が使われている。


テレビCMや新聞広告、

ゴルフや野球のスポンサーなど、
その目的は、間違いなくブランド構築にある。


だが本当に、

その戦略は正しいのだろうか?

 

確かに

誰も認知してくれなければ、

ブランドなど築きようがない。


だが、

その一方で、認知度は高いが

ブランド力があるとは言いがたい例も
たくさん目にする。

たとえば

ダイエーというスーパーは、

日本人なら誰でも知ってはいるが、
ブランド力があるとは思えない。


なぜならば、

ダイエーというブランドには、
人々の心をひきつける求心力が感じられないからである。


ダイエーに行きたい。


ダイエーで買い物をしたい。


ダイエーだから買いたい。


そのような求心力こそが

ブランドを持つ目的なのではないか。


いくら知名度が高くても

求心力を伴っていなければ、

それはブランドとは呼べない。

では、

その求心力はどこから生まれてくるのだろうか。


求心力の源を探るためには、
まず、

ブランドを誰が?生み出しているのかを

知らなくてはならない。

 

ブランドとは

企業が顧客に対して、

持ってもらいたいイメージである。


だが、

そのイメージを作り上げているのは企業ではない。


顧客でもない。


その中間である。


企業が顧客に約束するもの。


そして、

顧客が企業に期待するもの。


その接点から

ブランドは生まれてくるのだ。



かつて、

ダイエーには顧客が殺到した。


それは、

“少しでも安く買いたい”という顧客の期待と、
“どこよりも安く提供する”という企業の約束が

見事に接合していたからである。


ダイエーは安い。


ダイエーは主婦の味方だ。


そういう

ブランドが確かに存在していた。


そして、

その役目を終えたのである。


もちろん、

主婦は今でも安い商品を求めている。


だが、

その期待に応えることでは

もはやブランドは創れない。


日本人の欲求のレベルが

上がったからだ。


いま、

消費者が企業に求めているのは

商品の質や安さではない。


そんなものは

備わっていて当たり前なのである。


顧客が企業に求めるもの。


それは

もっと崇高な社会的存在意義である。

なぜ、

その会社が存在しているのか。


その存在によって

社会はどう良くなっていくのか。


この問いに

「答えられる意義」と

「哲学をもった企業」だけが
「ブランドという求心力」を

手に入れるのである。


トヨタが

なぜecoにこだわるのか・・・


その答えは明確だ。





オシム日本代表監督が脳梗塞で倒れられてから、

10日が経ちました。


日本サッカーがどう、ということよりも、

ただただ一人の人間として、

一刻も早いご回復を祈っています。


この報を聞いて以来、

私は日本サッカーの未来だけでなく

私自身のみならず人間の晩年に対して

漠然とした不安を感じた状態でした。


ただ、

JEF時代のオシムさんのサッカースタイルに魅了され、

日本代表監督としてのオシムさんを応援していたにすぎない私ですら、

そうなのですから、ご家族の心労は想像すらできません。


また、

直接指導を受けていた日本代表選手やJEFの選手たちは

さぞや心を痛めているだろうし、

また、

特に五輪代表の水野、水本たちはよく戦い、

よく五輪出場権を勝ち取った、と思います。


さて、

日本代表の南アフリカワールドカップへ向けた

3次予選の対戦相手国が決まりました。


世界のサッカースケジュールは待ってくれないのですね・・・


日本は第2組、バーレーン、オマーン、タイと対戦することになりました。

バーレーン、オマーンといえば、

ドイツW杯予選でも苦戦した相手です。


日本の実力が上回っているのは確かですが、

監督選びを間違えれば、再び苦しめられる、

場合によっては、

足元をすくわれる可能性もあるでしょう。


初戦は2月6日、ホームにタイを迎えます。


そのための合宿は、1月中旬には始まるでしょうし、

予選のための準備試合が、1月26、30に予定されています。

そう考えると、

オシム監督が回復したとしても

(もちろん絶対に回復すると信じていますが)、

ストレスの大きい代表監督として

そのまま始動できるとは考えにくい現状、

考えるのもつらいことですが、

その後任選びは、

ある程度急がなくてはならない、

ということになります。



しかし、

後任人事を急ぐあまり

「予選も迫っているので手近な監督で」

というのは間違いだと思います。


現在、

岡田武史氏に打診をしていることが報道されていますが、

その報道の中に

「オシム路線継承」という文字が躍っているのが、

私は気になります。


岡田氏とオシム監督は、サッカー観も違うでしょうし、

Jリーグで実現してきたサッカー像も違います。

いや、

サッカー観が近いと考えられる、

オシム監督の弟子たちが実現しているサッカーを見ても、

(息子のアマル氏や広島のペトロヴィッチ氏など)

あるいは

オシム監督がアドバイザーとして参加していた

反町U-22を見ても、

「オシムサッカーはオシム監督にしか指導できない」

と考えるべきだと思います。


そしてなにより、

岡田氏に就任を要請するならば、

「岡田氏のやり方に日本を託すのだ」

と考えなくてはなりません。


「岡田氏のサッカーの方向性が、

 これからの日本サッカーの方向性として正しいのだ」

というPLANを持って頼むのでなければ、おかしい。


その場合は

「オシム路線継承」ということではなく、

「岡田サッカーを日本は目指す」

という明確な目的意識を持たないと、

再び日本は迷走していくと思います。




日本はこれまで、

「ボールも人も動くサッカー」を目指してきました。


これはオシム監督だから、ということではなく、

それ以前から日本が、

日本の選手の特性を生かすために目指していたものです

(ジーコジャパンは違いましたが)。


そしてそのPLANにオシム監督が最適であるために、

彼が選ばれ、

日本代表監督に就いたのであるはずです。


その

「目指すサッカー像」はいま、変更されるべきなのでしょうか?


いま監督を再び選ぶならば、

「ボールも人も動くサッカー」を目指している監督であるのか、

実現したことがあるのか、

実現できるのか、

という基準で選ぶべきです。


そうでなければ、

「目指すサッカーを変更する」という意思決定が先にあるべきです。


「就任した監督によって日本の目指すサッカーがころころ変わる」

ということであってはなりません。


私は、オシム監督就任以来の2年間の各年代日本代表

(いずれも「ボールも人も動くサッカー」を目指してきました)

の戦いぶりを見ても、

その「目指すサッカー像」を変更する必要を感じません。


今でも変わらずそれは、

日本が世界と戦っていく上で、

最適なヴィジョンだと思っています。


もし協会が

「目指すべきサッカー像を変える必要がある」と考えるのでは

「ない」ならば、

次に必要になるのは

「岡田武史氏は、

 『ボールも人も動くサッカー』の実現のために、

 最適な監督であるのか否か?」

という判断です。


岡田氏は実績のある監督であり、

これまで指導してきたチームという、

その判断のためのサンプルがしっかりとあります。


日本協会は、

それを参照して、目指すサッカー像との一致、

実現の度合いはどうなのかを

判断するべきです。


それがなければ、

「予選も迫っているので手近な監督で」という、

再びの

「PLANなき代表監督選び」

になってしまいます。


そのようなことは、

もう二度とあってはなりません。



とはいっても、

先に書いたように3次予選初戦が迫っていることは事実です。


しかし、私は

「まず暫定的に、現状のコーチ陣で始動しつつ、時間をかけて代表監督を選定する」

という案を提唱したいと思います。


幸いにして、初戦はホーム、

3チームの中では最も実力的には劣ると考えられるタイが相手です。


ここはぎりぎり、暫定指導体制でも、

オシム日本の核を継承したチームで戦っていけるのではないかと思います。


そうなると次は3月26日のアウェーバーレーン戦ですが、

その前に

2月17日~2月23日の東アジア選手権があります。

このあたりまでに監督が決まっていれば、

東アジア選手権で新監督の下で強化をしてもよし、

あるいは新監督が東アジア選手権を見て選手の見極めに使ってもよし、

暫定体制からうまくバトンタッチしていくことができるでしょう。


いずれにしても、

いま話題になっているような12月3日や、

7日までに決めなくてはならない、

という拙速は避けることができます。


もう一度書きますが、

「予選も迫っているので手近な監督で」というのは、

おかしな考えかただと思います。


「日本のことをよく知っているから、今のチームの継承ができる」というのも、

間違っているでしょう。


その監督が、

これまでのオシム日本と同じようなサッカーを志向していたことがあったのか、

実現していたことがあったのか、

ということのほうがずっと重要です。


あくまでも、

日本が目指すサッカーに最適な新監督が、

自らのヴィジョンに基づいて強化し、

その上で3次予選を勝ち抜いていく。


新監督には、そういう能力を求めるべきだと思いますし、

それが確認できる実績が必要だと思います。




日本代表監督のために望ましいだろうと思う条件を書いておきます。


1:経験と実績のあるプロの代表監督であること

(日本人にはいないと思うので、必然的に外国人となりますね)


2:ボールも人も動く、コレクティブなムービング・フットボールを志向していること

(ジーコ以外は歴代および各年代とも指向性は統一されていると思う)


3:できれば、日本や日本サッカーについて知識を持っている人であること


4:できれば、協会やマスコミなど、

  日本サッカー全体を改革する意思を持っている人であること


3、4は「できれば」ですが、1、2は「絶対に必要な条件」です。


岡田氏は、日本人では唯一といっていい、1の適格者ですが、

2に関してはどうなのか、ということが問題になると思います。



最後になりますが、

私は岡田武史個人のことは、好きです。


監督としても、人物としても、好感を持っています。


しかし、この問題は

それとは分けて、

しっかりと日本サッカーの将来のことを考えて決めるべきだと思うものです。



オシム監督の一刻も早い回復を祈って。