徳川家康はなぜ「家康」なのか?後編(はしだて談義16) | Prof_Hiroyukiの語学・検定・歴史談義

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<本記事を引用された場合、その旨を御連絡頂けると有り難いです。>

※事実に基づくフィクションです。


はしだて談義『徳川家康はなぜ「家康」なのか?中編』http://ameblo.jp/prof-hiroyuki/entry-10609809635.html の続きです。

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H「それから松平元信は元康に改名しました。この時点で、Eさんの言われた様に康を通字とする積もりが有ったのかもしれません。少なくとも元康(家康)は祖父の松平清康を手本としていた訳ですから。」

※「通字」につきましては、歴史用語の基礎第2回:「偏諱」と「通字」・前編http://ameblo.jp/prof-hiroyuki/entry-10584394617.html  中編http://ameblo.jp/prof-hiroyuki/entry-10589281809.html  後編http://ameblo.jp/prof-hiroyuki/entry-10589663747.html などを御覧下さい。


E「そして、信長との清州同盟の後に義元から貰った元を返上し、名実ともに今川とは縁を切ったんですね。」


H「その通りだと思います。では、なぜ家康は『家』の字を自分の名前に使用したのでしょうか。」


E「それは私の知る範囲で答えられる事なんですか?」


H「はい。家康は歴史を学んで来た人です。そういった事も有って、実はこの件で家康の狙いが分かる様な気がするのです。

ところで前の将軍家は足利氏ですが、足利氏としての初代は誰でしたか?」


E「足利尊氏でしょ?」


H「いえいえ、それは足利将軍家の初代です。足利家の初代は足利義康。平安期に武家の棟梁と目された源義家の孫です。」

※源義家と新田・足利の関係につきましては、歴史用語の基礎第9回令外官「征夷大将軍」と資格・後編http://ameblo.jp/prof-hiroyuki/entry-10608956612.html などを御覧下さい。義康の父義国も晩年に足利を名乗ったため、これを初代とカウントする人も居ます。


E「知らない名前ですが、足利家は平安時代の終わりからは有ったという事なんですね。」


H「そうです。なぜか余り有名では無いのですが、保元の乱の功で平清盛源義朝と同時に昇殿(殿上人への昇進)を遂げた人物です。」


E「足利は分家ですよね。それで本流の人物と同時昇進なんですか?」


H「確かに官位は義朝よりも低いのですが、母同士が姉妹ですから母方の従弟。おそらく同年代か若年という事を考えると(※生年に諸説あり)かなりの抜擢です。」


E「当時は大変な栄誉だったんでしょうね!」


H「足利という家は初代から栄達運が有ったのかもしれませんね。

まあそれはひとまず置いておきまして、源義家と足利義康、そして松平家康の諱を比べてみて下さい。

足利義康は義家の上の字『義』を取り

松平家康は義家の下の字『家』を取っている

という構図になっています。さらには諱の下の字は共に『康』です。」


E「『家』というのはそれほど特殊な字ではありませんし、偶然という事は?」


H「それは考えにくいでしょう。それでは、家康の下の3人の息子、すなわち『尾張』『紀伊』『水戸』の初代藩主の諱は何でしたか?」


E「(尾張)義直、(紀伊)頼宣、(水戸)頼房・・・ああ、なるほど!」


H「清和源氏の通字は『頼』か『義』でしたね。これって、『我が一族は間違いなく清和源氏である』という主張なのですよ。歴史的な諱による主張・・・といえば言い過ぎかもしれませんが、これが家康の『やり方』なんです。」


E「という事は、三河統一前の『家康を名乗った時点』で征夷大将軍として足利政権の次を取るという意思表示をしたという事ですか?」


H「まあ威勢だけかもしれません。しかし、家康の『康』は新田流徳川(本当の字は『得川』)家を復興しようとした祖父松平清の『康』に由来する事は間違いありませんし、今の話から源義から『家』の字を取ったのだろうと推察出来ます。

そして、新田家は征夷大将軍になれる家柄と考えられていましたし、現に家康は新田家庶流として征夷大将軍になっている様ですからね。」

※詳しくは、歴史用語の基礎第9回令外官「征夷大将軍」と資格・後編http://ameblo.jp/prof-hiroyuki/entry-10608956612.html などを御覧下さい。


E「将軍就任前の家康は、宮中でも『新田殿』と言われる様に情報操作していたそうですしね。

そうですか!三河を統一して『徳川』を朝廷から認められる以前から将軍構想は有ったのだろうという事なんですね!いや、そもそもそういった構想が有ったから新田一門の徳川(得川)を望んだ訳か・・・。

うーん、大志は早くから持っておくべきものなのでしょうね!」