歴史用語の基礎(第9回:令外官「征夷大将軍」と資格・後編) | Prof_Hiroyukiの語学・検定・歴史談義

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本日2度目の更新です。


今回は「征夷大将軍」前編http://ameblo.jp/prof-hiroyuki/entry-10607821178.html の続きです。


(4)征夷大将軍は源氏でないとなれない?

答えは「否」です。鎌倉幕府成立以降で見てみますと、

・皇族(親王将軍)・・・鎌倉後期や後醍醐天皇の諸皇子

・藤原摂関家(摂家将軍)・・・鎌倉中期

が源氏以外に任命されています。名門ならば問題は無さそうです。


但し、これらの家柄で征夷大将軍になったものは決して当主になっていません

例外は私の知る限りでは無い様です。

一方、武門である源氏(清和源氏)で征夷大将軍になる者は当主でもあります。

当主でも無いものが日本国(の武士)を束ねる訳にも行けません。やはり親王将軍や摂家将軍は「名目のみの役職」という色合いが強かったのです。


こういった事も有って、武家の「棟梁」としてはやはり清和源氏でなければならないという不文律が成り立っていたのではないかと考えています。それを最も色濃く示しているのが、足利初代将軍の尊氏が征夷大将軍に任命されたのは新田義貞が不慮の死を遂げたその年だという事実です。簡単に言えば、少なくとも尊氏にとっては義貞が唯一の対抗馬だったという考えです。


(4)武家の棟梁を意味する征夷大将軍は源義家の子孫でないといけない?

実はこちらの方が重要なのかもしれません。源氏であれば誰でも良いという訳ではなさそうです。

新田義貞・足利尊氏は、共に最初に武家の棟梁と見なされた源義家(八幡太郎)の三男である源義国の子孫。

義国の長男が新田義重、次男が足利義康です。両者の父義国は、「すぐ上の」兄で嫡子だった義親(頼朝の曽祖父)が反乱を起こした際に別の場所で私闘(常陸合戦)をしていたために当主を継承し損なった人物。常陸合戦の事は一生悔いていた様です。


即ち、新田家にも足利家にも、「我こそは源氏の嫡流」という腹が有ったという可能性が高いのです。

武家の棟梁源義家の子孫で、かつ棟梁の地位を継承できた可能性が有るという事が根拠です。

事実、新田義重は源頼朝を当主と認めず、「我こそは八幡太郎の嫡孫!」と別勢力を形成していたために鎌倉幕府体制では冷遇されてしまいます。義重は露骨なので分かりやすい。やはり拠り所は八幡太郎(源義家)なのです。


一方、義重の甥の足利義兼は上手く頼朝に味方して体制に取り入りました。さらには息子の足利義氏は北条政子にどうやら気に入られ、源氏将軍が3代で滅亡した際には源氏ゆかりの品々を政子(尼将軍)から譲り受けています


新田は裏目に出て没落し、足利は上手く振舞って地位を保っていますが、こういった行動から当人たちが源氏の嫡流(※源氏長者ではない。あくまでも武家として)を意識し、かつ周りもそれを認めている事が見て取れます。

(なお、源義家を清和源氏の嫡流と認めない家系も有りますが、実質的には影響力は余り無かった模様です。)


後に武家の棟梁として江戸幕府を開いた徳川家康は歴史を学んだ人物。なぜ彼が新田の子孫を名乗ったかはこれ以上理由を重ねるまでも無い事です。


『将軍は源氏に限る』というのは、

『「武家の棟梁としての」「征夷」大将軍は、「清和」源氏のうちで「義家流」に限る』という事なのでしょう。