歴史用語の基礎(第8回:令外官「征夷大将軍」と資格・前編) | Prof_Hiroyukiの語学・検定・歴史談義

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<本記事を引用された場合、その旨を御連絡頂けると有り難いです。>

今回は皆様も御存じの「征夷大将軍」。

はしだて談義「徳川家康はなぜ・・・」http://ameblo.jp/prof-hiroyuki/entry-10603802770.html にも大いに関係します。


(1)令外官(りょうげのかん)とは?

征夷大将軍は令外官。律令制度の「令」の範囲外の官職です。令外官は日本では桓武期に多く新設されたと言われますが、これは大宝律令制定(701年)からほぼ1世紀が経った頃。奈良時代を経て、そろそろ現実的な対応が迫られる時期だったのではないのでしょうか。

有名な令外官には摂政関白中納言(規定では納言は大・少納言のみ)、京の治安維持のための検非違使(けびいし)などの武官も有りました。


(2)征夷大将軍とは?

その名の通り、「夷」征討に際し任命された将軍の事です。初見は720(養老4)年に任命された多治比縣守との事(縣守は大将軍でないとして、初代を大伴弟麻呂とする説有り)。多治比氏は28代宣化天皇の子孫なのですが、この天皇はこのシリーズ前回「大兄制」で登場した安閑天皇勾「大兄皇子http://ameblo.jp/prof-hiroyuki/entry-10602952008.html のすぐ下の弟君です。やはり欽明天皇派に完全に敗北して皇位継承から外れてから1世紀以上も経っており、この家柄も既に武官になり下がっていた(※当時の感覚です)のですね。

初期の著名な人物としては、まさしく「征夷」で名をあげた坂上田村麻呂がいます。


(3)何故源頼朝は征夷大将軍を欲したのか?

しかし、これらの大将軍はあくまでも朝廷からの役目を実行するために任命された方々。今の多くの人が考える「幕府の主」とはかなりイメージに隔たりが有ります。


朝廷から独立して幕府を運営する様になったのは御存じの通り「源頼朝」からです。


頼朝、というよりもブレインの大江広「元」(毛利氏の先祖でしたね。諱を御覧下さい。)らがこの官職に目を付けたのは、これが朝廷から「地理的に」切り離された戦場のための官職だからです。

戦闘中にいちいち中央政府(朝廷)にお伺いを立てていては勝てる戦も勝てませんので、大将軍には臨時造営の幕府において、臨時的に戦闘員を処罰する権限が与えられていたのです。


永久に戦闘状態であれば、永久に征夷大将軍の権限は有効・・・即ち、「戦闘の常時化」による「朝廷からの独立」というのが幕府支配の大義名分なのです。

強引なものの考え方とも取れますが、それだけ当時の朝廷の威光は凄まじかったのでしょう。(後編に続く)