歴史用語の基礎(第7回:「皇太子制」と「大兄制」,後編) | Prof_Hiroyukiの語学・検定・歴史談義

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本日2度目の更新です!


それでは、前編http://ameblo.jp/prof-hiroyuki/entry-10602846525.html の続きを。


(4)「大兄制」・「太政大臣」と「皇太子制」との時期的関係

大兄で即位した最後の皇子は記紀38代天智天皇(中大兄皇子、御存じの通り40代天武天皇の兄です。

そして、それ以降に「大兄」を付けた皇子は居なくなります。

「明らかに皇太子制が有った『天武の皇子』以降」と「大兄制の有った『天智即位』以前」に期間の重なりは見出せません。すなわち、大兄制が廃れて皇太子制に遷った事が「否定できない」のです。


さらに、「中間期」である天智期には「太政大臣」として初めて大友皇子が任命され、それが次期天皇の機能を有していたらしいのです。もしも皇太子制が確立していたのでしたら、この様な職制も必要無かったはずです(※皇太弟・大海人皇子への牽制説は有りますが、相当回りくどいですね)。


こういった事から、聖徳や中大兄の時代も含む「天武期以前」には皇太子制が「実質的にも」無かったと考えるのが自然でしょう。


(5)そもそも大兄制とは

「大兄皇子」の初出は記紀第26代継体天皇の皇子「勾大兄(まがりのおおえ)皇子(27代安閑天皇」です。

この勾大兄、実は特殊な皇子です。父の継体天皇は、①大兄を名乗らせた、という事の他に

②勾大兄に春日山田皇女(仁賢天皇皇女)を娶らせている。

③勾大兄に生前譲位している。
という事をしています。生前譲位も勾大兄が初例です!もし史実ならですが。

御存じの方は多いと思いますが、継体天皇は皇族出身だとしても傍系であり、即位の正当性を保持するために前王朝(あるいは本家筋)・仁賢天皇の皇女である手白香皇女を娶りました。そして、その間に生まれた皇子(後の欽明天皇)の皇位継承で万人が納得・・・の筈だった訳です。

しかし、納得しなかったのが当の継体天皇。「もしも勾大兄が即位し、春日山田皇女との間に男子が儲かればそれも皇位継承候補」という訳です。


継体はどうしても苦楽を共にした長男の”勾皇子”に即位させたかった。ですから仁賢天皇の皇女を娶らせて皇位継承の資格が有ると喧伝し、前例の無かった筈の生前譲位によって誰にも勾大兄即位の邪魔をさせなかったのです

名に大兄を付け(させ)たのその策の一環と考えるのが自然であり、そこまでしないといけなかったというのが当時の朝廷には皇太子制が名実ともに存在しなかった事の証左となっています。


それにしてもこの大兄制、歴史用語として色々と調べてみましても明快と言える解説はどこにも見られません。

それもそのはず、いつからか「父母が同じグループ内での長男」という解釈になり乱立。これによって山背大兄王(皇子)、古人大兄皇子などの犠牲者が出る有り様であり、とても継体が思い描いた様な目的(皇位継承の確実化)は果たせなかった訳ですから。

何が何だか分からなくなった制度に対して、後世の者が明快な解釈を加えられる筈も無いでしょう。