---(第1回http://ameblo.jp/prof-hiroyuki/entry-10569023272.html から続く)
歴史旅行記第2回「信玄公の国」http://ameblo.jp/prof-hiroyuki/entry-10505093906.html で『偏諱(へんき)』という言葉が出てきました。
その回でも具体例を挙げてはいますが、談義形式のために幾分不明瞭な説明になってしまっています。
やはり人物の置かれた立場を考える上で非常に大切なポイントですので、今回はこの項目をピックアップして解説したいと考えています。
(1)まずは諱(いみな)について
諱とは「忌み名」の意であり、簡単に言えば本名の事です。古代では本名で呼ばれる事が「忌み嫌われていた」地域も多かったそうで、中国や日本では主君や親以外の者が本名でその人を呼ぶ事が「極めて無礼」な事とされていました。特に貴人の場合は厳密にその考え方が適用されました。
それならどう呼べばよいのでしょうか。通常は諱の代わりに「字(あざな)」で呼んだのであり、例えば三国志で著名な劉備玄徳(昭烈帝)ならば「備」が「諱」、「玄徳」が「字」となります。昭烈帝は死者に贈る諡号(しごう)であり、これも諱に代わるものでありますがここではこれ以上触れません。
時代が下れば、字の代わりに官職名で呼ばれる様にもなりました。TV放送で著名な水戸黄門(徳川光圀)や大岡越前(大岡忠相)の「黄門」や「越前(守)」は官職名ですよね。このあたりのところ「まで」は日中で共通です。
いずれにしましても、明治以降の戸籍制度によって「名前は一つ」と言う考えが浸透しましたためにこの様な考え方は薄まりました。現在は皇族の方々が「宮号」で呼ばれる程度でしょうか。
(2)通字の考え方は日本と中国で異なる
日本、特に中世の武家社会においては、一族が同一の文字を共通に「諱(いみな)」に用いている場合が多く見られます。伊勢平氏の「盛」、前北条氏の「時」、清和源氏(足利氏を含む)の「義」「頼」、武田氏や織田氏の「信」など、「枚挙に暇が無い」とはまさしくこの事でしょう。これを「通字」と呼んでおり、一族結束の証と見る向きも有ります。
一方で、中国では同じ一族では同一世代のみで共通の文字が使われます。これを中国では「通字(列系字)」といい、始祖から見て「この代目」は「この字」という様に一族内で協議して定める訳です。
(3)「偏諱」贈与は日本独自の「主従関係固め」
先の説明からも分かると思いますが、中国では予め一族の間で「ルール」が定められているために主家筋と雖も命名に口出しをする事が難しいのです。
一方、日本では「元服の儀」の際に諱が決まるので、それを取り仕切る立場でしたら命名に口を挟む・・・いえ、決めてしまう事が可能です。
この立場の人物を烏帽子親(えぼしおや)と言い、このいわば「仮の親」から一字を頂戴する慣習が鎌倉時代に根付きました。特に「通字では無い方の字」を「偏諱」と呼び、こちらの方を贈与するケースの方が圧倒的に多かったのです。
では、初期の例を挙げましょう:
<例1>鎌倉時代 将軍-執権北条氏
将軍家(烏帽子親) 北条執権家
藤原頼経(第4代) 北条経時(第4代)
藤原頼嗣(第5代) 北条時頼(第5代)
宗尊親王(第6代) 北条時宗(第8代)
第6代・7代執権は非嫡流、時宗の嫡子北条貞時(第9代執権)以降は偏諱の贈与は行われませんでしたので、この程度の対応関係になります。
では、もっと端的なものをお見せしましょう:
<例2>鎌倉時代 執権北条氏(烏帽子親)-足利氏
北条家得宗 足利氏嫡流 (○内は執権の代数)
義兼
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②(義時) 義氏
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③泰時 泰氏
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⑤時頼 (頼氏)
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⑧時宗 家時
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⑨貞時 貞氏
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⑭高時 高氏(尊氏)
確かに見事な対応ですが、4つ注意点が有ります:
一つ目は、足利氏の本来の通字は「義」であるため、北条義時-足利義氏の対応関係は偶然である事。
二つ目は、足利家時の偏諱が奇異に見えるのは、足利氏に宗家継承候補として宗氏という別人が居たためである事。
三つ目は、藤原頼嗣-北条時頼-足利頼氏の様な「下げ渡し」は諱の贈与が「直接」の主従関係の固めである故に考えられない事。頼氏は最初は「利氏」と名乗っており、「頼氏」は北条時頼が烏帽子親として足利頼氏に偏諱を贈与したものではなく、兄との争いに勝って宗家継承が決まった時点以降の名乗りである。
四つ目は、足利尊氏の「尊」は後醍醐天皇の諱「尊治」の偏諱による事。
天皇からの偏諱贈与はこれ以外には聞いた事が無い。むしろ平安時代に大伴親王(淳和天皇)が即位した事による大伴氏の「伴氏への改姓」に見られる様に家臣の方から憚って改姓・改名するため、その天皇と同時代に同じ諱の字を持つ人物は存在しない方が普通である。
新政開始時における足利尊氏に対する期待は尋常ではなかったのです。
いえ、後醍醐天皇の方が尋常では無かったというべきでしょうか。
(つづく)