歴史用語の基礎(第4回:「偏諱」と「通字」・後編) | Prof_Hiroyukiの語学・検定・歴史談義

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<本記事を引用された場合、その旨を御連絡頂けると有り難いです。>


前々回から「偏諱」と「通字」の話題を続けているのですが、「基礎」という割には長話となっております。

今回までですので、宜しければお付き合いください。

---(歴史用語の基礎第3回http://ameblo.jp/prof-hiroyuki/entry-10589281809.html から続く)


(5)「偏諱」贈与の変化2:主君からの偏諱は自らの上の字に~戦国時代

前回では、武田家が本来は上に「信」を付けていたにも関わらず、通字を下の方にしてまで将軍からの偏諱を上に受けているという事を指摘しました。具体的にはこういった事です:


<例>室町・戦国時代 足利将軍家-武田甲斐守護家 ○内は将軍代数

足利将軍  甲斐武田当主

③義   信

        信重

        信守

        信昌

        信縄

        信虎

⑫義   信(信玄)

輝   (信)※廃嫡

まず、武田家は暫くの間足利将軍家からは偏諱を貰っていません。

これは信満の死後、武田家が混乱に陥ったためです。(詳しくは歴史旅行記2http://ameblo.jp/prof-hiroyuki/entry-10505093906.html を御覧下さい。)


次に、信満は将軍義満の「満」の字を下にしている事です。

晴信(信玄)が頂戴した諱を上にもって来ているのとは対照的なのですが、鎌倉公方・足利氏なども偏諱を下に持ってきており、当時はそれほど奇異な事でも有りませんでした。

※なお、鎌倉公方家に関しては、将軍位継承権を持つ「吉良」「今川」と違って将軍の偏諱を貰っている事から将軍位継承権がなかったのではないかという考えも可能です。

それでも大抵は頂いた字は上に持ってくるでしょう。例えば、細川管領家(京兆家)ですとこうなります:


<例>室町・戦国時代 足利将軍家-細川管領家 ○内は将軍代数

足利将軍  細川家当主

③義  

④義  元,之兄弟

⑦義  

⑧義  

⑪義  元(分家からの養子)

⑫義  

確かに「主君の下の字」が「家臣の上の字」になっていますね。

余談ながら、足利一門の鎌倉公方家も細川京兆家も「3代将軍義満からの偏諱贈与」が初例となります。義満によって将軍の権限が強化されていく様子はこういった面でも垣間見られるのです。


・・・話を戻します。武田信満の場合は、過去の歴代の名前から見ても「武田家では通字『信』を頭にもってくる」という習わしの方がより一層強固だったのだ考えられます。言いたいのは、その武田家でさえも晴信の際には『信』の上に頂戴したという事なのです。


(6)将軍義輝の「偏諱廉売」は何をもたらしたか。

13代将軍足利義輝が財政立て直しの一環として偏諱の贈与を「多発」した事は前回に述べた通りです。これはもちろん「将軍家」と「守護(大名)家」との主従関係の強化を目論んだ事でもあるのですが、ここで一旦「(守護・戦国)大名家」と「家臣」との関係に目を向ける事としましょう:


前項(5)の例で、武田家が「将軍家から名前を頂戴していない」期間には自分の「通字ではない方の諱」を家臣に贈与していた訳です。例示するとこの様になります:


<例>甲斐武田家 家臣(武田二十四将)

武田信(信玄の曾祖父)-小幡盛,屋次 ,内藤豊,原胤,山県景など

武田信(信玄の父)-甘利泰,小幡盛 ,飯富昌,原胤など


なお、両者の間に当主になった信縄の偏諱贈与例の少ない理由は、歴史旅行記2http://ameblo.jp/prof-hiroyuki/entry-10505093906.html で大まかには述べてあります。

先程の足利将軍家-守護(大名)細川家の偏諱贈与パターンと同じ事からも容易に想像出来る通り、守護家においても偏諱贈与によって主従の固めとしていたという事は明白です。


そうすると、困った事が起こります。家臣団を調べれば分かる事なのですが、武田晴信(信玄)は「晴」の字を家臣に与える事は出来ていません。足利義晴に対する不敬になるからです。(主たる家臣の中で、山本勘助(幸)だけは晴の字を有していますが、これは以前から持っていたと考えられます。それとも、信玄が不敬な人物だったという

ことなのでしょうか。)信玄は与えられても一門を示す「信」の字の方という事で、偏諱を与えにくい状況でした。これでは父や曾祖父と同じ様な「主従固め」は出来なかった訳です。極端を憚らずに申せば、当代は何とかなったのかもしれもせんが「しわ寄せ」が次代に被さったという事なのかもしれません。


一方で、革命的な織田信長は将軍家からは偏諱を貰わず、偏諱「長」の家臣に対する積極的な贈与もしませんでした。(注:浅井「長」政は偶然。織田長益[有楽斎]ら弟たちには「長」の字を与えている。

信長も偏諱贈与の効果は認めており、それゆえに足利義昭が武田勝頼に一文字を与える事に猛反対しました。そして、新勢力を自負する信長も、足利将軍より偏諱を与えられた上杉謙信(「輝」虎)、毛利「輝」元らを叩く直前に自滅した訳です。


次の秀吉は偏諱贈与が効果的と見たのか「秀」の字を多発。そして、徳川家康は「家」を通字とする予定でした(またこれは次の機会に!)ので、「康」の字を家臣や公家に贈与しています。


結局は一番保守的な家康が最後に政権を取ったため、家臣への偏諱贈与のパターンも引き継がれる事になりました。

(一旦終わります。)