歴史用語の基礎(第3回:「偏諱」と「通字」・中編) | Prof_Hiroyukiの語学・検定・歴史談義

Prof_Hiroyukiの語学・検定・歴史談義

・歴史旅行記や言葉(日本語・フランス語・ドイツ語など)へのこだわりや検定・歴史散策などの実践録を書き綴ろうと考えています!    
                      
<本記事を引用された場合、その旨を御連絡頂けると有り難いです。>

---(第2回http://ameblo.jp/prof-hiroyuki/entry-10584394617.html から続く)


歴史旅行記第2回「信玄公の国」http://ameblo.jp/prof-hiroyuki/entry-10505093906.html で『偏諱(へんき)』という言葉が出てきました。

前回はそれを受け、「偏諱」と「通字」の成り立ちについて解説を加えました。



(4)「偏諱」贈与の変化1:主君の下の字を貰うのが普通に。そして、擬似的親子契約から栄誉の授与へ~室町時代

次は室町時代です。足利将軍家の歴代当主を挙げると次の様になります:

①尊氏②義詮③義満④義持⑤義量⑥義教⑦義勝⑧義政⑨義尚⑩義稙⑪義澄⑫義晴⑬義輝⑭義栄⑮義昭


初代尊氏以外は全て最初に「義」が付く事は結構知られている様です。


もちろん前回に示した「通字」という考えに基づいている事は間違いは無いのですが、それならば何故鎌倉期(足利義氏~尊氏)の様に「氏」を通字としないのでしょうか。

※鎌倉時代の足利氏につきましては、http://ameblo.jp/prof-hiroyuki/entry-10584394617.html も御参照下さい。


これは要するに、足利氏が政権を取ったために「偏諱」を

北条氏から「貰う立場」から

直臣(御家人)に「贈る立場」に

なった事を意味するのです。

さらには、「主君の下の字を貰う」というスタイルが当然になりつつある事も示されているのですが、具体例を挙げますと、


6代将軍義教を殺害した赤松祐は3代将軍義から

応仁の乱の主将・山名宗全の諱「豊」は4代将軍義から
もう一方の主将・細川元は7代将軍義から

武田信玄の諱「信」は12代将軍義から

上杉謙信の諱「虎」は13代将軍義から・・・


これこそ枚挙に暇がありません。歴史的に著名な当時の有力大名ばかりです。武田家などは、本来は上に「信」を付けていたにも関わらず、通字を下の方にしてまで将軍からの偏諱を上に受けていて、上述の傾向に沿った形になっています。

但し、一門のうちでも幕府役職者の細川管領家が偏諱を貰っている一方で、一門「別格」の吉良・今川は貰った形跡は無い(庶流の小鹿範満の例は有りますが)という事には御注意下さい。

※吉良・今川の室町幕府下での位置づけにつきましては、2010-03-16 のはしだて談義6http://ameblo.jp/prof-hiroyuki/entry-10482531889.html を御覧下さい。


話を戻します。もしも主君の「上の字」を贈与するのでも構わないのならば、足利氏は別に「『氏』の通字のまま」でも良かった筈なのです。


なお、13代将軍義輝(義藤)は下の「輝」や「藤」よりも上の「義」の字を勧める傾向が確かに有りました。但しこれは偏諱贈与の際のいわゆる礼金が「輝」よりも「義」の方が高く設定出来た(「特別に『義』の字をやろう。礼ははずめよ」という)ためで幕府財政救済のための苦肉の策。幕府は衰退しても、将軍から偏諱を貰う事は諸大名でも「大いなる栄誉」で有ったからこそ成し得た事です。

という事で、こちらも『主君の「下の字」を貰う方が「通常」になっていた』という考えを補強出来るものとなります。


最後になりましたが、あともう一つ。「礼金」の話が出ている段階で、前回にお話しした「烏帽子親」の考えが既に形骸化している事もお分かり頂けると思います。


それでは、戦国・安土時代は後編に回します。この混乱の時期には何が起こったのでしょうか。(つづく)