はじまったのは、しょうわごじゅうろくねん夏でした。いえ、そのとしから、やっとルールを覚えられたからにほかならず、そして、その前の晩秋のある日、家に帰ったら、いつもは物静かと沈静を絵に描いたような雰囲気を纏っているはずの父が、別人のように興奮して話していたのも大きかったのかもしれません。ですから、その方が、その次の年から指揮をとる、方が朝、爪を切っていかなければ、いちばん下の札を引いていたはずで、きぼうどお~~りにそのチームに入ることもなかったはずで。そんな細かな背景をまだ知らなかったはずの父は、ただ、なんてうんのつよい選手なのだと、ただただ、張り切って話していたのがよみがえってきます。まだ2年生でした。それはいっったいどんな選手なのだろう??とおもったのがルールを覚えたきっかけだったようにも思います。
無論、756の外苑近くのボールパークにご両親が来られていた目の前で記念の一号を放たれたのが巻頭にカラーで載っていた、あの方の伝記はそれまでに、もうなんどもなんども読んでいたのは確かなのですけれども。ルールまでは細かく分かってはいませんでした。そんなわけで、その前の年、2年生の夏、とってもカラフルなユニフォームのチームが、12隊11という、あまりにすごすぎるゲームをしていたテレビ中継の記憶以外はほとんど残っていませんでした。そのチームがどこのチームかもわかりません。北関東のどこかだったような気もしますが、あくまで、根拠のない記憶、というより勘のようなものだけです。ともあれ。そんなこんなで。始まりました。選抜には間に合わず、真剣に見始めたのが夏からで、そして、あのだいすけさんが登場していたというわけです。たしか、今年の夏だい活躍しているのと同じ北の県に、ナンバー2といわれた右腕の投手がいたのは、その1年か2年あとのことだったのでせうか。縦縞のユニフォームでした。
ともあれ。その夏に勝ったのがどこのチームだったのか~。思い出せないのはどうしてでせう。大スターとなった一年生11番背番号の投手のチームは勝てなかったはずで。。。やっぱり、まだ、わかり始めたルールとオレンジのチームのかの選手に夢中で。。。昼間の熱い球場の方は。。。全部は観ていなかったことになりますね...。(いや、いま、少し遅れて思い出しました。9回裏無死無走者から4点獲って同点とし、延長で逆転、日本人にはない根性だと称えられ、そのあとも勝って優勝したのでしたね。ほかでもない従兄が通っており、しかも同じ学年でした)。ともあれ。次の春、その11番選手は堂々の準優勝だったのは後に知りましたが。なにより、どぎもを抜かれたのは、その次の年となる夏でしたね。たしか、セミファイナルだったでせうか。これまた14タイ2ですよ。この大差。ノーサイン、ノーバント。山間部の公立校が、なんじゃこれ、敬服も、感服もあっさり越えるくらいのあっぱれな打撃でしたね。そこから、そのチームの大ファンとなってしまいました。校歌も歌えるほどに。。。(母校のはまったく覚えていませんが。。。)。
特攻隊で出撃を待つ間に終戦がきたと、いう、お酒が大好きな監督でした。さわやかいれぶんのころはもちろんしりません。それを支えたご家族が素晴らしいと思いました。いまも覚えています。ミラクル9番の、中国地方のある県と同じ苗字のショートの選手がことごとく、奇跡を起こしたのでしたね。のちにブレーブスの投手となった大柄な中京地区のチームにも、明らかな劣勢から、ホームラン一本でひっくり返したのではなかったでしたっけ。隣県の強豪との1点差ゲームがいちばんきつかったと話されていたような...。そのセミファイナルを乗り越えて、決勝は再び、止まらない連打の山でしたね。そのY校だったと覚えています。その県の半島と同じ名前のエースがいました。再び、圧巻の打撃ショーでした。そして、夏春夏の3連覇を見事に、阻んだのが、あの、KKさんが一年生のあのチームでした。球場近くの叔母の家で観ていました。あまりに悲しくて、従兄が予備校にいってる間のベッドを借りて、ふて寝をしたのを覚えています。手に汗握って応援するというのは、ああいうのをいうのですね、そんな特別な夏が2年続けてあったのでした。選抜で応援したのももちろんですが。(1回裏2死無走者から5点とっ。てしまったのでしたね。あとは、いわずなんとかの連打の嵐でした。。。)。
そして、また、勝ってほしいけれど、連投や将来をおもえばおもうほど、どうか無理はしないでくださいと、願わないでは居られない、そんなセミファイナルがもうすぐ始まりますね。東北初のは、悲願、は、痛いほど想いながらも、ひとりでマウンドをまもっているその、クレバーで熱くて、完成しすぎているその子のためには、あんなに連打のチームではないのですから。。。1点を守る投手の重圧がどれほどかは、これでも、いちどだけですが、カリブの島の中高生相手ではありましたが。それでも痛いほどわかるつもりです。同じ球数でも、10点差と、1点差で投げる、神経への負担が、どれほど違うか、疲労度がどれほど違うか。何人も投手をそろえられるチームがわるいといってるわけでは決してありませんよ。ただ。それでは、対等とは言えませんよね。銀でもいいから、メダルを持ち帰って欲しい気持ちと、もう、戦いの後の選抜チームには必ず入れるでせうから。無理はどうぞしないでと、想わないではいられないような。それでも、気持ちいいほどの球筋の投球を少しでも観ていられるのは確かに、嬉しいに違いありませぬが。美しいちりざまを、絶賛するなんてとてもいえませんが。それでもそれでも。国立、公立しか学んだことのない身としては、それは、勝ってほしいのはもちろんですが。ともあれ。スポーツがひとに与える、勇気や、絶賛、ときを忘れるほどの充実感を想うと、頑張る姿がそこにあるだけでそれでいい...そんな風には、もちろん、35年前のその夏には知るよしもありませんでしたけれども....。