はじまったのは、しょうわごじゅうろくねん夏でした。いえ、そのとしから、やっとルールを覚えられたからにほかならず、そして、その前の晩秋のある日、家に帰ったら、いつもは物静かと沈静を絵に描いたような雰囲気を纏っているはずの父が、別人のように興奮して話していたのも大きかったのかもしれません。ですから、その方が、その次の年から指揮をとる、方が朝、爪を切っていかなければ、いちばん下の札を引いていたはずで、きぼうどお~~りにそのチームに入ることもなかったはずで。そんな細かな背景をまだ知らなかったはずの父は、ただ、なんてうんのつよい選手なのだと、ただただ、張り切って話していたのがよみがえってきます。まだ2年生でした。それはいっったいどんな選手なのだろう??とおもったのがルールを覚えたきっかけだったようにも思います。

 

無論、756の外苑近くのボールパークにご両親が来られていた目の前で記念の一号を放たれたのが巻頭にカラーで載っていた、あの方の伝記はそれまでに、もうなんどもなんども読んでいたのは確かなのですけれども。ルールまでは細かく分かってはいませんでした。そんなわけで、その前の年、2年生の夏、とってもカラフルなユニフォームのチームが、12隊11という、あまりにすごすぎるゲームをしていたテレビ中継の記憶以外はほとんど残っていませんでした。そのチームがどこのチームかもわかりません。北関東のどこかだったような気もしますが、あくまで、根拠のない記憶、というより勘のようなものだけです。ともあれ。そんなこんなで。始まりました。選抜には間に合わず、真剣に見始めたのが夏からで、そして、あのだいすけさんが登場していたというわけです。たしか、今年の夏だい活躍しているのと同じ北の県に、ナンバー2といわれた右腕の投手がいたのは、その1年か2年あとのことだったのでせうか。縦縞のユニフォームでした。

 

ともあれ。その夏に勝ったのがどこのチームだったのか~。思い出せないのはどうしてでせう。大スターとなった一年生11番背番号の投手のチームは勝てなかったはずで。。。やっぱり、まだ、わかり始めたルールとオレンジのチームのかの選手に夢中で。。。昼間の熱い球場の方は。。。全部は観ていなかったことになりますね...。(いや、いま、少し遅れて思い出しました。9回裏無死無走者から4点獲って同点とし、延長で逆転、日本人にはない根性だと称えられ、そのあとも勝って優勝したのでしたね。ほかでもない従兄が通っており、しかも同じ学年でした)。ともあれ。次の春、その11番選手は堂々の準優勝だったのは後に知りましたが。なにより、どぎもを抜かれたのは、その次の年となる夏でしたね。たしか、セミファイナルだったでせうか。これまた14タイ2ですよ。この大差。ノーサイン、ノーバント。山間部の公立校が、なんじゃこれ、敬服も、感服もあっさり越えるくらいのあっぱれな打撃でしたね。そこから、そのチームの大ファンとなってしまいました。校歌も歌えるほどに。。。(母校のはまったく覚えていませんが。。。)。

 

特攻隊で出撃を待つ間に終戦がきたと、いう、お酒が大好きな監督でした。さわやかいれぶんのころはもちろんしりません。それを支えたご家族が素晴らしいと思いました。いまも覚えています。ミラクル9番の、中国地方のある県と同じ苗字のショートの選手がことごとく、奇跡を起こしたのでしたね。のちにブレーブスの投手となった大柄な中京地区のチームにも、明らかな劣勢から、ホームラン一本でひっくり返したのではなかったでしたっけ。隣県の強豪との1点差ゲームがいちばんきつかったと話されていたような...。そのセミファイナルを乗り越えて、決勝は再び、止まらない連打の山でしたね。そのY校だったと覚えています。その県の半島と同じ名前のエースがいました。再び、圧巻の打撃ショーでした。そして、夏春夏の3連覇を見事に、阻んだのが、あの、KKさんが一年生のあのチームでした。球場近くの叔母の家で観ていました。あまりに悲しくて、従兄が予備校にいってる間のベッドを借りて、ふて寝をしたのを覚えています。手に汗握って応援するというのは、ああいうのをいうのですね、そんな特別な夏が2年続けてあったのでした。選抜で応援したのももちろんですが。(1回裏2死無走者から5点とっ。てしまったのでしたね。あとは、いわずなんとかの連打の嵐でした。。。)。

 

そして、また、勝ってほしいけれど、連投や将来をおもえばおもうほど、どうか無理はしないでくださいと、願わないでは居られない、そんなセミファイナルがもうすぐ始まりますね。東北初のは、悲願、は、痛いほど想いながらも、ひとりでマウンドをまもっているその、クレバーで熱くて、完成しすぎているその子のためには、あんなに連打のチームではないのですから。。。1点を守る投手の重圧がどれほどかは、これでも、いちどだけですが、カリブの島の中高生相手ではありましたが。それでも痛いほどわかるつもりです。同じ球数でも、10点差と、1点差で投げる、神経への負担が、どれほど違うか、疲労度がどれほど違うか。何人も投手をそろえられるチームがわるいといってるわけでは決してありませんよ。ただ。それでは、対等とは言えませんよね。銀でもいいから、メダルを持ち帰って欲しい気持ちと、もう、戦いの後の選抜チームには必ず入れるでせうから。無理はどうぞしないでと、想わないではいられないような。それでも、気持ちいいほどの球筋の投球を少しでも観ていられるのは確かに、嬉しいに違いありませぬが。美しいちりざまを、絶賛するなんてとてもいえませんが。それでもそれでも。国立、公立しか学んだことのない身としては、それは、勝ってほしいのはもちろんですが。ともあれ。スポーツがひとに与える、勇気や、絶賛、ときを忘れるほどの充実感を想うと、頑張る姿がそこにあるだけでそれでいい...そんな風には、もちろん、35年前のその夏には知るよしもありませんでしたけれども....。

 

 

左手の中指(でしたっけ?)の、ちまめがつぶれ、投げるボールにその都度、ちがついて、捕手だった方が、かけよったというエピソードがいまも

よみがえってきます。いったい2何度よんだでせうというくらいよみました。冒頭に、52年のスワローズ戦との記念試合となった日のカラー写真付き、一節から始まっていました。偉人伝記シリーズの一冊でした。いまは、郵便局となったその場所に、本屋さんの入った、ちいさなスーパーがありました。車のない、わがやにとって、ほぼ唯一のふだんのお店でした。

 

戦後をまるで、余生のように生きた父にとっだて、まさか、旧姓に復して、実家のある場所に暮らし、子をもつということは、おそらく、想定外のことだったてようにおもえます。いつも、だまって、ひとりでも動けるようになったわたしのあとをついてまわり、自由に、あぶなくないようにだけ、見守ってくれていたのは、ほかでもなく父だったことを知ったのはずっとずっとあとでした。母には、そんな根気のいることできるはずのないこと、考えてみればわかりそうなものなのに。子えどもというのは、言われたこと、されたことは記憶に残っても、黙ってつたえられたやさしさを実感して、真似できるようになるのは、ずっとずっとあとになって、もし、大人になれたときになってやっといろいろな点と線がつながっていることに、気づくことが出来るようになれて、あるいは、気づけるような機会にめぐまれて初めて、そうできるのだと、歳と共に、わかることは、永遠にふえつづあらけていくのですね。

 

そのグラウンドのマウンドに立つことと、そして、あの親友の俳優さんと3人で、プロアマでもし回ることができるかもしれない!!子どものような、発想が多分にあったようにもおもいます。あんなに、恵まれたとっきゅう列車をスピードがでるまえに、自ら、駅でもないところで自ら降りてしまったのですから。あとでどれほど後悔したことでせう。我慢できないわけでもなかったのに。監督をされてたころに、そこに取材にいかれる場所にもしかしたら、行かれるかもしれない、お話しをせっかくいただけていたのに。あのとき、どうして、東ではなく、西に向かうことを選ばなかったのだろうと。そして。また、あといちねん待っていたら、とどまっていたのに。なぜなら。運動部に行く夢と動機がつながったのに。できなかったことは数えない!ともいいます。お盆だから、許して貰って、心の中を書いています。つづきは、またつぎに。書きます。どうか、間に合って、届きますように。。。

また、ことばが降ってくる状態になっているようです。以前のそれよりは、自分でも、じたばたしなくなったというか、出てくることばを、忘れないうちに、つぎからつぎからと書いておかねばという、せっぱくするのを追い出して、自分なりに、調子に乗りすぎないように、シーソーのどちらかに傾きすぎないように、そんな風に、自分に言い聞かせている節はあります。ただ。それでも。こういうときは、2,3日から4,5日しないと、平均的?な、つまり規則正しいと言われるような、睡眠時間とはいかなくて、かといって、ねむっていないことが苦痛でもなくて、ぼーと、あれこれ、頭の中を流れていく、情景や、ことばや、想い出や、考えや、そんなこんなを、まるで、空を流れていく、比較的悠然と、ゆっくりと流れる雲を、みえてくるままに、眺めているような。。。そんな状態なんです。

 

しかし、こういうのは、あのいつかの赤煉瓦の近くで遭遇した10月の満月の夜に起こった?なんともいえない、言葉の嵐が突然訪れて以来、ときどき、やってきては、いつの間にか去って行き、その間の多少のリズムの変化はありこそすれ、そのあとに、特段に、特別、不安やブルーの迂回海に沈んでびくともうごかない、眠り続けるカレイさんのように、揺り戻しのような大きな揺れはなく。。。また自然にふだんの、ちょっと時間にルーズで、早起きつまりすっきり寝起きが悪い方が、健康のあかしにょうな習慣の、いつもの自分に戻っていき、、動きが極端に低速になるブルー状態は自覚しないままに、気が向いたら、2つ3つ同時進行で、家事をやっていながら気の向くままに動くことがひとつの気晴らしのような、とはいえ、ひとつのことに夢中になって、集中しているのが落ち着くときは、ひたすら、書き物を続けていたり。。。

 

つまるところ、自分でも自然にまかせているしかない、というような、明日のようなそんな先のことなどわかりようがないと、大きな口と未来予測のあまりに愚が多すぎる、行き当たりばったりの。そんな生き物だったのです。たぶん、いまも。。。ところがです。どうやら、ほ乳類だったでしたが、それとも、もう少し大きなくくりでしたかは、忘れてしまいましたが、雌の機能を失っても雄よりも長く生きる生物は人間だけだと聞いたことが、いや、たぶんどこかで読んだことがあります。それには、孫を育てるというとても大きな仕事が残っているからだと、確か、そこには。。。ともあれ。そんなわけて、好むとその反対には関わらずやってくるのです。混んでる電車で最も空間的に安全な場所は、3人以上のおば(あ)さま連れのそば。(なのは、説明しなくてもきっと。。。)そのくらい、こわいものなしになっていくもうひとつの時間が始まるまでの、その間に訪れる、こころとからだと、そのほかいろいろなものが入り交じって、なにやら、自分ではとても制御ふのうともおもえる時期が、あるのでせうか。

 

だれにでも、なにかの形であるのでせうが、ひたすら忙しくすること予定計画を次々詰め込むのが最も、ある意味、確実な、緩和策なのかもしれません。なにしろ、いそがしいは、こころをうしなうとかいて忙しいなのですから。。。それでも、性格や音色や,体型や、性分や、癖や、それらの数だけ、表に出てくる、つまりは本人がかんじることのできるなにやらわからないけれども、自分ではどうしようもなくうけいれ、眺め、見守りまつしかない、それの状態の種類は、あるのやもしれませんね。男の人は50からという言葉をずっと前にテレビか何かで聴いたことがありますが、雌という生き物は、およそこれほど特徴のわからないものはないですよねぇ。そもそも、本人が一番わかっていないのですから。気持ちや感情の表出や、結論のないおしゃべりの嵐は、事情が許せば、それこそ山のようにしますけれども、それは、たんなる時間を忘れるひとつの方法だったり、愚痴のぶつけあいだったり、自慢の仕合だったり、要するに、いつかドーナツなんて書いてしまいましたが、核心は、解きに、本人さえもわかってない場合もある気もしますが、ともあれ。もともと、計画的に規則的に、毎日同じ事を繰り返すことで安心する部分は、間違いなく男の方より少ないはずです。もちろん、理系、鉄道、将棋、物理、空間図形などなど、男の人と同じくらいにそれらの分野を得意にする女の人もいるわけですから、ひとそれぞれは、きっとあるのだろうとはおもいますけれども。

 

家族をかんぜんになくした、どうしようもないそうしつかんは、少しずつ和らいではくれていき、これまでより、その波の高低の落差は、だいぶん、小さくなってくれてきているように思います。自分のこころが納得するもの、自然にがんばりがきくもの、そんなものは、ひとそれぞれに、なにが、それにあたるかは、みな、ちがうようにわたしはそうおもいたいからそうおもうようにしているのですけれど。なにごとも、時間というものが、自然に、流れて、その中で、少しずつの変化や安定をくれるのかもと。おもえるくらいには、やっと少しだけわかったような気ができるようになったのはなったのですれど。。。ただ。その時間のことも含めて、眼に見えないもののなかにこそ、やっぱりとても大切なことや、忘れてはいけないものやことがあるように思うのです。(これも人によって、なにをいちばんと感じるかは違うのだろうと思うのです)。はてさて。興味のあることを勉強するのは、好きなのです。と、いまごろ、さいきん、気がつきましたが。。。

 

100歳になっても、筆をもって、自分の世界を描いてみたり、70歳を越えて、地元のグランドシニア?野球チームの一員としてユニフォームの似合っていた方を、知ったときの、あの、わぁあああとこころの声が自然に出てくる感じも忘れがたくあってみたり、ちょっと無理矢理な日本語の使い方になってしまいましたが、申し訳ありません、つまり、幾つになっても好きでいるもの、わたしにはこれ、というもののあるという方々が、知らず知らずに、後の世代に下さっている勇気だったり、ずううっと先まで線路はあるのかもしれないと、思える、そんな創造的な,世界や、時間をもてることの素晴らしさ。いつか、もしかしたら。わすれかけてた、好きだったものに遭遇したり、突然、雲や雨のように降ってきたり、するときもあって、岐路は、気づかず通過していたものも含めて、もしかしたら、いつでも、そこに、あったりするのせうか。このごろ、諦念とも、夢のまた夢とも、ただ待っているだけというのとも、違う、智慧と未来を考えてみるということを、意識がふと出てきたりしていて、自分でも、大丈夫かな、わたし、という、不安と期待と、あと見えないなにかとのミックスのなかで、ひたすら、延々、だらだらのち、ときどききりり、

を、意識して実践してみようかしら、とか、もがいて、苦しかった時間の中から、ほんの少し、かわることができるかもしれないという、予感ともいえないような、かすかななにかが、自動詞ではなく、自分の意思で、何かを、と、元気な時は、やっと楽天、ごーまんすぎないで、静かだけれども、人生というものについて、考え、思案し、嘆息し、希望し、がっかりし、投げやりになりそなときを幾つも幾つも繰り返し、まだまだ、かたつむりか、昼寝する亀、キリギリスではあるのですけれども。ほんの少し、かくごというものを、身近に頭だけでなくこころも一緒に、わかりかけてきたような。。。。と、書いていたら、明け方がやってきました。。。。

 

前回書いたように…たくさんのつらい時間がありました…とりわけ定期的にやってくる極端な不眠症状と、好不調の波と…
自分の意思ではどうにもできない見えないなにかに…それらに不安が加わって…

ひとそれぞれという…更年期の…バランス不調が…大きかったみたいです…いえ、いまも完全に元に戻れたとは言えないのかもしれませんが…訳が分かって随分救われました…


勿論、これからどうなって行くのだろう…という…不安は消えそうにありませんが…
焦らないで…、今よりわずかでも何か…できるときも…きっと来ると…言い聞かせています…
気持ちって、不思議ですね…ほんとに…


つらいときほど…、やみくもに不安を募らせたり…否定的なことばかりで頭をいっぱいにしたり…
ことばでは…いくらわかっても気持ちというか、こころが納得できないときは…何も効いてくれないのですよね…
つらいときは、いつも思います…魔法のことばってないでしょうか…と…


少し前に夢の中で…ドクターが言われるのです…わたしの場合は…自分が好調だと感じているときのほうが…からだの中の何かのバランスは正常とは言えないのだ…と…
無論、夢の中ですから…何の根拠も、正確性もないのですが…


ともあれ…、なにがそのひとにとって…安心な状態かは…ひとそれぞれなのでしょうね…
なるようにしかならない…
いまは、重たいとさえ思う残り時間が…ありがたいと思える…何かにであえるかもしれない…
期待しすぎず…、落胆もしすぎず…、出来るだけ穏やかに…いられたら…と…


あるがまま、過去を悔やむのでもなく…、先を不安がるのでもなく…、いまは、ただあるだけでいい…、そうことばにすると…少し…穏やかでいられそうな…気がします…


大丈夫…いつか…いまとは少しはちがう希望のようなものがきっときますよ…たぶん…そう言われたいのです…
ひとりになると…何も頑張り甲斐がないのは…やはりまだ変わらずですが…、少しでも…焦らないで…穏やかで…いられたら…と…


なにがしあわせ、さいわいかは…、ひとそれぞれちがうのですよね…
ずっと、変化の連続の…若い頃でした…わたしの場合は…変化のおかげで…たくさんのよくないことから助かっているのだと…そういう星なのだと…、言われた時には…とても、しみこむように納得できた記憶があります…


ただ、ことあるごとに数ヶ月、元の家に戻る流れでもありました…
変化がないとかえって、よくないことになって…これでいいのですよ~と。なにしろ3年ごとの短期周期の星廻りらしいですから…


ともあれ…、自然の流れ…のようなものに、まかせるしかないときもあるのでしょうか…
わたしの場合は、とにかくあれこれ考え過ぎないことが…必要ですよね
ただ…、こればかりは…、しみこんだ習性のようなもので……、頭の中でいつも文字とことばとその意味で…何かを考えているのが…くせのようになっているようです…

ともあれ…、自然になにか、今より少しでも…、ため息や不安の少ない時間がもてますように…と…
いまあるありがたさを、ちゃんと理解と感謝しながら…、静にこころ穏やかに話ができる日がきますように…と…願っています……

の、月日が過ぎました。たいせつな家族をなくしてから。ずっと、縛られていると思っていました。それまで。自由になれないのは、いつもふりまわされ、そして、それをどこかで望んでもいる自分がいるからだと。縛られる物がなくなると、きっと自由はとてもすばらしい景色や可能性があるやもしれないとさえ、こころのどこかで思っていました。全く、反対でした。自由は、ある程度なにか、支えや励みや、ときには縛りがあって、初めて感じられ、何かに向かって頑張ることのできる力をもらえるのだと思いました。ひとは言います。いまは、だれにも邪魔されないのだから、好きなことをしたらいいのだと。それがわからなくなって、それだけの月日が流れました。あんなに、何かを書きたいと言っていたのに、書きたいものは、なにだったかさえ、わからない感じさえします。

 

あしたのふあんもさることながら、残った時間のながさが重くて仕方の無いときさえもたくさんありました。いまもときにそんな風になにももうできないと感じてしまうときさえあります。いまある環境はとても恵まれていると感謝しています。とても。とても。それでも、もうひとつ、なにか、芯になれるやりがいを、つまりは書くことを、あるいは、少しでも、一歩踏み出す勇気を、もてたらと、なんどもなんどもなんども思っては、いっこうに、なにに向かって動いていいのかさえわからなくてこころが塞ぎだしたら、とまらなくなることもあります。それでも、このまま静かにでもいいというこころもあります。なにもしないで、その日暮の清貧がいちば。んいいのだと。

 

自分でも、この、なんともいえないむなしさのような、励みのなさから、抜け出すにはどうしたらいいのだろうと、考えても考えても、一向にからだは動かず、生きていられるだけで十分だと、言い聞かせて、そして、ため息、その繰り返しをずっとずっとしているように思います。あんなに、降ってきたことばも、まったく降ってこなくなったし、なにかがたりないと感じながら、埋まらないなにかがなになのかを、ずっと考えているうちに、時間がすぎていってくれるのでしょうか。ものすごく、貴重な時間を、無為にしてしまっている気もしたり、残り時間の重さに耐えられなくなってみたりもしたり、われながら、ため息しながら、じんせいってなになのでしょうねぇと。つぶやいては、愕然とことばをなくしていることがよくあるのです。時が来て、一通でもいいから、何かを書くことができて、そうしたら、そのさきに、なにか、やってみたいこと、こころがそうしたいと願っていることが、浮かんできてくれるのでせうか。

 

せっかく健康でいられているのに、こころはときどき、うまく健康を保てなくて、もったいないことばかりを思ってしまっているようで。申し訳ない気持ちで包まれます。でも、自分でもどうにもできないなにかが、こうして、いまここにあるということなのでせうか。息苦しさの種類はいろいろで、それに耐えているのは、だれも同じということなのでせうか。ありがたい環境とわかりつつも、なにも書けず、一歩踏み出せない自分のことが、心配で、嘆息して、苦しんでいる時間の方が多かったこの数年でした。なにか、なんでもいいから、なにか、書くことで、前に進めたらと願ってしまいます。

安易に、励まそうなんて事は意図してできることではないのかもしれないですね。がんばれ、ということばは、すでにがんばっているひとには、追い込む言葉いがいのなにものでもないし、頑張る気のないひとには、余計に苦しくするだけの言葉になることだって大いにあると思うから。励みなるというのは、なにげなくつけた、テレビやラジオからなにげなく聞こえてきたひとことだったり、なにげなく、広げたページの中から目に飛び込んできたフレーズだったり。意図して意図したときに、はいどうぞいう時に、やってくるとは限らないから、むずかしいのせうね。

 

ときに、ことばほど無力な者はないと感じるときもたくさんあるし。ことばほど、余計すぎると、ただとげのようにささるだけのものであったりもするし。9歳までに、意地悪を自然と身に付けてしまったひとは、70になってもおそらくそのさきも、日頃の行いというのは永遠にかわらないのでせうね。かなしいですね。となりにあまりにひどすぎる隣人(馬から落馬と同じですね)がいるというのは、もちろんフィクションですが。早くいなくなってほしいひとは相も変わらず、情けない言動を繰り返しているみたいだし。なとかして、どうかして、神さま。そのひとの命を、元の元気に戻して下さいと、願ってやまない人には、どうしていいひとばかりが苦労しないといけないのでせうね。

 

75もしくは80越えたらそれまでにしてきたことが、本人そして、たいせつなはずの子や孫に返っていくというのに....。ひどいひとはまずじぶんではしないでだれかにさせる。だれかを巻き込む。どうしてでせうね。まっとうで正当で、正直で、芯があって、信念があって、姿勢がよくて、清濁へのつよさもあって、忠義も大切にして、そんなすばらしいひとだけが存在するなんていうのは、あり得ないことはわかってはいますけれども。それにしても。自分がしてほしくないであろうことを平気でひとにするひとというのは、やっぱり、自分がしていることを本当に同様にされたら、平気なのでせうか。きっと、これをされたらつらいだろうという想像の元があるから、プランができるのですよね。そのマイナスのエネルギーを別の方向に向けることができたら、どれほどと。おもいますけれど。誰かに言われてわかるくらいなら、言われなくてもわかるし。言われないとわからないひとはきっと言われてもわからない、というのは、やはり名言なのですかねぇ。

 

ほんとうにつらい状態の人にできることは、ひたすら、本人のことばを聞いてあげることしかないというのはわかります。いくらあれしろこれしろと言われても、できるくらいならとっくにしているわけですから。自分では自分の意思や力ではどうにもならないから苦しんでる人に、言葉を浴びせることほど酷なことはないでせうとわたしはおもいます。(ということは、こんなに長いブログも然りですね)。ごめんなさい。発想の転換、なにか、こころに沁みるキーワードの何かが、その人のこころにじわじわとしみこむことや時がきて、やっとなにかの兆しがかわるかもしれない。それでもかわらないかもしれない。それくらい、みえない気持ちをほぐしたり、和らげたりすることは、ほんとうに、時間をひたすら静かに、柔らかに、穏やかに保つことしか、周りの人にできることはなにもない。元気というのは、ほんとうに数え切れないくらいの奇跡の積み重ねがつくってくれている刹那に過ぎない、のかもしれないって、つくづく思います。小学校の時、一時限の授業の時間全部を使って「気持ち」ということのたいせつさを教えてくれた図工の先生がいました。きっと戦前生まれの方だったと思います。年賀状の版画は素晴らしいものばかりでした。

 

わずかでもいいから、気持ちの、ホッとできる時間、空間のありますように....。

確か、きのうがその方のお誕生日ではなかったかと....。子どもの頃なんどもなんども読んだ伝記の選手で、のちに監督もされた...。畳が何枚もが、ぼろぼろになるまで、毎晩毎晩、師のお宅の二階で、バットやかたなを降られて、あの打法を身に付けられたと読んだのがいまも、強く印象に残っています。あんまり振りすぎて、翌朝、顔を洗っても手でタオルをもてないほどだったという話とイラストが載っていました...。決して、体格や、身長の大きくはない方の、強さは、いったいどこからくるのでせうと、いつもおもいます。

 

10年前、ちょうどわたしが、よくない細胞の部位を摂ってもらったころに、もっともっと進んだ状態のところから、その後も、声をぎせいにしても、生還された方の....つよさになんど感心、尊敬、応援したことでせう。GWのあとのお薬での何クールかの治療の先は、ドクターともに、未知の世界だと言われていました...。ひとは、やまいやじこでなくなるのではなく、それぞれのじゅみょうでなくなるのだと、あたまではわかっても、いざ、知っている人、もっと生きていてほしい人、そんな方が、残りすくないかもしれない時間と闘っているのかもしれないとおもうと....。生きているだけで、どれほどありがたいかとこころから思うのですが、それまた、それは、わたしがそう思えて勇気をもらっているのであって、闘われているその方にとっては、そんな悠長な言葉さえも、つらく思わせてしまうかもと..。やっぱり、ことばのむずかしさ、でも同時に、かのうせいを祈ってしまいたくなります。

 

常に、いまここにいること、の、連続で、時間というものが流れていると、わかっていて、その瞬間瞬間に、喜怒哀楽や、いろいろな想いや、考えや、こうかいや、きぼうや、そんなつづき、つづきが、じんせいの流の中のそれぞれなのだと、わかってはいても。。。それは、先がとりあえず、今すぐではないだろうと、楽観的になれているときだからなので....あって...。だから、10年経って、ひとまず無事で居られることの重さと、ありがたさと、でも、そんなことどうしても考えられなかった時間も、途中には山のようにありましたし...。しあわせというのは、その最中にはなかなか気づけず、過ぎ去ってから、振り返ってみて、ああそうか、あのときはそうをだったのだと気づくものだと、何かで読んだことがあります。それでも、今のなかで、ささやかな楽しみや、しんぱいごとを忘れていられる時間のもてることを、祈ってしまいます。

 

大学に入ったら、今度こなそ勇気をだして、入りたいと言ってみようと思いついたとき、毎日くるしくてこころが閉塞する時間の多かった高校時代に、かすかにささえとなってくれたのでした。そして、果たして、そうしてはみたのですが。数ヶ月掛けて粘ってもインベインでした。でも、そのおかげといったら、いささかの語弊もありますが。それがあって、カリブの島での撮影と、9回完投の経験をさせてもらうことにつながったのでした。その前々年だったせうか。あるチームが女子の入団門戸を開けるというニュースを耳にしたとき、無知だった当時は、真剣に悩んだのでした。その想いを、恐れ多くも、冒頭で書いた方へ何枚かの便せんに想いをつづって送ったのでした。若さとは....なんとも、現実をわからない(ところがそれなのかもしれませんが...)恥ずかしいものも含むのですね。その方もこれを読んで下さっていたらなぁとおもうこともあります。やまいをすると、価値観はかわります。しかし、それは、いま、ひとまず大丈夫でいられるからこそ言えることでもあるのですよね。

 

同じ田舎でも、一度でも、故郷を離れて暮らしたことのある方とそうでないひととの、あの大きな開きは、ほんとにため息がやまないほど違う者ですね~。桃太郎が、金太郎が~鬼ヶ島や、熊さんとお相撲とったからこそ大人になれたのと同じ事なのですよね~。井の中が必ずしも悪いことばかりではないことも承知してはいるつもりですが....。それと~。いつかも書きましたが、地球の裏側でどんなにしあわせなひとがいても、そんなことに想いを馳せることもないのに、とにかく、見える範囲に、ほんの少しでも、(おそらく自身より)幸せそうにみえるひとへの、意地悪が、70越えても、増えることあれ、減ることのないのはほんにどうしてなのでせうねぇ。これはおんなのひとのことですが...。主語のないのは、いつも女の人ではない方々のことを書いているのは、前にもかいたとおりなのですが.....。小さい頃、父親や、お爺さんやあるいはそのほかの年長の男の人からのおおきな優しさをもらえたひととそうでないひとで.....そんなにもかわってしまうのでせうかねぇ。きんにくにももってうまれたたんくの大きさがあると聞きましたが、あいや思いやりにもそれがあてはまるのでせうかねぇ。ひとにやさしくできるというのは、ほんとうにほんとうに、ありがたく(=希有な)、感謝なことなのでせうね....。男の人にとっての母という存在の大きさときっと、おなじなように.....。

それにしても、ここに書いたとたんでしたねぇ。(GPSとかめらつけておいてほんとによかったですねぇ)。それにしても。なんとも。ひとのみていないところでなにするかわからないとからだじゅうから空気のでているひと....いちにいさん.....。おおもとのしじなのかそれとも...。いつものくせなのか...。

こまったものです。小学校の頃にも同じ事がありましたねぇ。ひとはいくつになってもまったく成長できないひとの割合ってどれくらいなのでしょうか??

 

ココさんが見事にあっぱれなことをおっしゃって下さっていました。ちゃんと考えることができて、賢いと言えるおんなのひとなんて、100万に5人くらいなのだと。むねのあたりが、すううっっとするもっともっと言ってほしいなぁとおもえる見事な洞察でしたねぇ。かみさまはかならずみてるし、日頃のなんとかというのは必ずめぐりめぐってかってくるから...。人の振り見てで....。自分ははずかしいいことをしない....。これがいちばんですねぇ。してみると、わがやにも、何十年か何百年かの前に、ひとに、そういうことをさせてしまうことをしたひとがいたのでしょうかねぇ。

 

それにしても、立派な子や孫のいるひとに限って...と。思えるのはただの偶然なのでせうかねぇ。それとも。下の世代が立派であればあるほどに...。自分のことが...。余計にはっきりと目立ち....余計に、改善とは逆の方に進んでしまうものなのでせうか。かぞくがいるひとの孤独の方が何倍も.....なのでせうか?それにしても、ため息のやむひまののないひとが....いまにもおばけになりそうな.....

生きてる人が、いまいるところの近くには、かなしいくらいたくさんいらっしゃいます....。どこも同じなのでせうか?立派な方の少ないこと。みんな同じように、感じていらっしゃるのでせうか?

 

歴代の、立派な方々が小説などを通して、しきりに、いろいろな注意を書いておられるのも、そういことを垣間見ての、ため息から発された後世へのめっせーじなのでせうかねぇ。ちゃんとしたひとほど、いかにめだたないでいるかについて、ふしんされているのでせうかね。とくに。へいそくしたかんのあるちほうにおいていは...。それでも。そんななかでも、ちゃんとされた方のいらしゃることが、ほんとにほんとにだからこそかもしせんが、こころの救いになることこの上ないです。

生きていられるだけで、どれほどしあわせか... ほんとにこころのそこからさけびたいほど、そんな気持ちを伝えられたら...。どうかその方もこれを読んでくださっていますように....。

遠くはなれていて...なかなかに....お目にかかることの....むずかしいかたがたに...それでも...なんとか...ひとまず無事でいきています....そう....お伝えするために....はじめた...このぺーじです。そして、ちょくせつには、てれくさかったり、直截すぎるきらいがあったり、そのたもろもろのりゆうということにして...ともあれ...なんとか、わかる方に...少しでも、お伝えしたいことがほんの少しでもつたわって、わかってもらえたらいいなぁ....そんな想いでかきはじめたぺーじです。

 

ときに、自分自身のこころを落ち着かせたり、口ではとてもうまくいえないしょうぶんをいいわけに、ここで書いて、少しでもこころが軽く出来たらと、そんなつもりで書いていたりしていました。そして、います。父の沈黙のやさしさや気遣いの大きさに気がつけたのは、あまりにも時間が流れてから..というのは、全回お話しした通りですが....同時に、ははの、ふくざつな、そしてどうせいならではのいじわるやすとれすの相手にならざるをえなかったことも...おそらく、わたしのこころには小さくない影響をあたえたのでせうね。

 

それとも。生まれながらに!?、さいしょに覚えたのが、当時流行していたスーパーカーの名前だったことに象徴されるように...親戚のおばあさまが、おもちゃ屋さんに連れて行ってくれて、(それもふたりきりで、母さんが遠慮のことばをさしはさめないようにです)、懸命にいちばん高いところにガラスのケースに入っていたドレスを着たお人形さんをどうあれ?と、しきりに薦めてくれたときも、横目で、透明シールのついた箱に入った、黄色の、カウンタックだったか、ランボルギーニだったか、ともあれ、簡易ラジコンに見えたそれがほしかった....でも、結局言い出せず。。。手近なプラスチッえク(らけっと?)の紐付きスポンジボールを買って貰い、そのボールは勢いよく打ちすぎて、その日のうちに、おばあさんちのタンスの裏にゴーンしてしまいましたっけ....。

 

知らぬ間にどこかにいなくなっていたワンちゃんのお人形さんを除けば....たしかに、お人形より、ミニカーのほうが面白かったですねぇ。なにしろ、..ひとりですから....。遊ぶと言ってもねぇ...。

大事にしていたけれど....いつか書いた例のグローブ以来、キャッチボールと昔の母屋でつかっていた蚊帳を使った、バド以外、しなくなった頃、きっと母さんが。。。父さんが昼寝の枕にしていたブルドッグくんや、赤の、外車(扉がちゃんと開くタイプ)などは、いったいどこに...?大学生になって、アルバイトで初めての、我が家でも初めての、ほんものの車を乗ることが出来たとき!おもちゃ屋さんにいったのは、これを書き始めた頃に書きました。いまなら、あんなに欲しかったラジコンが買える!そう思ったからです。でも、ふと。思いました。買ってしまったら、子どの頃からの想いが、あっという間にどこかに言ってしまう気がして。。とどまったのも書きましたね。

 

家に、車がなかったこと。中学の修学旅行の後、お土産を自転車にくくりつけて、走って帰るのが自分一人におもえて、かなしかったこと。それらをのぞけば、それほど、ふべんは感じませんでした。おかでげ、バスや列車にのったときの、想い出がかけがえのないものになっています。とくに、父さんと。駅まで、20分くらいまで歩くのも。時間は、時間が、とてもかけがえのないものだと、わかります。不便がくれる恩恵かもでせうね。おかげで、保育園も、小学校も近すぎるくらいでしたが、足腰が弱くはならずに済んだ。ブルーチップを集めて、最初にもらってもらった、チェスは、あれはいったいどこにいったのでせう。結局、わたしには覚えられず、ぽーんだけを使ったはさみ将棋だけでしたが。。。

 

こんな風に歳を重ねたいなぁと思える、女性はどうして希有なのでせうか?いるところには、必ずいるとわかってはいるのですけれど。。。40を過ぎたら、とししたを悪く言うのは、愚のなんとかだって、だれに教わらなくてもわかりそうなものなのに。。。。

そのせいでせうか、遠くに居る、かけがえのない友達達をとっても有り難く思えます。

コーヒーを淹れました。いったいいつ以来でせう。いつも、ようやっと起き出してくると、どんなに少なくても、10回は(そうわたしには聞こえていました)言っていました。「はよ、こーひーいれて-」。「はよ、はよ~」。決まり文句のように~。たぶん、目玉焼きが焼けるのを待てなくて、いつも、しろときいろがはんぶん混じった目玉焼きのつもりのものだった。。。そんな母さんが淹れるより、たぶん、きっと、おそらく、ひょっとしたら、

味がいくぶん、違ったのでせうか。。。女の子が、はっきりと記憶と怖さと、想い出と、悲しみと。。。そんなものがちょうどできてくるそんな年頃に、まさに、(たとえ、結局は)たった1学期だったとはいえ、7人いたつまりはほかの6人いた兄姉妹から離されて、海を渡った遠い都会の伯母の家の養子になるというのは。。。かあさんにとって、その後の、(おそらく気の張っていた大人の間は忘れていたかもしれまんが)こころに、大きな影響を与えたのはきっと、確かでせうね。

 

自分に置き換えても、その年頃と同じ頃、お風呂で、かあさんのおなかにしこりがあるってかあさんがいきなり言い出して、そのときの、わたしのこころは、もう、高校生になるまでにわたしはひとりぼっちになってしまうのだ!という、どうしようもないこわさとかなしみで、なみだがとまらなくなったのをはっきりすぎるくらいおぼえてるのですから。さいわい、そのしこりは、その年の夏休みに、ほんの1週間入院するというのだけで、大事のないものでしたが。。。。それでも、(少なくとも当時は)家の中にかあさんがいないというのは、もうどうにもさびしくてどうにもこうにも普段通りでいられるわけがない。。。そう信じ込んでいましたから。。。(それは、とうさんがじっと静かに見守っていてくれている、そのことこそがあったから、そうなっていたことに、気づけるわけもなく。ともあれ。とうさんは、かあさんにもだまって気を遣い、わたしが自然にわかるまでなにもいわない、そんなひとでした。)

 

そんなかあさんがいなくなって、まもなく3年が過ぎます。確かに、一年目二年目は堪えました。なにごとも、気づくのが遅すぎるわたしです。自分のことを責め、もっとほかに、もっと自然に、もっといい時間を選ぶことができたはずなのに。。。いったいなんど謝ったかしれないです。心の中で。そんなかあさんがいなくなったことを、伝えたとき、受話器の向こうで、思わず、こみ上げて、一緒に泣いてくれた方がいました。それは、わたしが存在するもっとずっと前のころ。ちちとははが、借家で、住んでいた街の、数件隣に住んでいた3姉妹の末っ子の方でした。当時、伝書鳩と併せて、文鳥を飼っていました。父の好みです。母は、小鳥のおばちゃんだったそうです。両親が共働きで、お姉さんともたしか、少し歳の離れたその方は、小学校?が済むとよく、母の所に遊びに来てくれていたそうです。

 

晩年、上の姉兄はなくなり、したふたりの妹たちとの交信はとだえていた母には、父方の親戚としかつながりがありませんでしたから。心底、一緒に泣いて下さったのがその方だったのに、わたしも、こころが、つらいこころが、ほんとうにどんなに癒やされたかとおもいます。(母が、小一の一学期を里子になったのは、その直前に父親がなくなったからに他ならず、したのふたりの妹たちは、父親の記憶がないんです。母だけは、5歳くらいの、父さんがおまえはやさしいなぁと、昼寝用の枕をもってきてくれたのを褒めてくれたのを、覚えていて、わずかでもやさしい記憶をもっているんです。だから、したふたりは、なににつけても、すぐ上の母を、素直に褒めるということのできないひとたちでした。それは、仕方の無いことかもしれないですけれど。少なくとも、母の姉や兄たちとはやっぱり違っていました。わたしには、そう映りました)。

 

そんな方から(つまり、一緒に泣いて下さった方です)、そのわたしが存在するずっと前の、白黒の、おしゃれで洋裁を仕事にしていた、母がしゃきんとしたしせいで、そのまだ6,7歳くらいのその方と写っている写真を探して、送ってくださいました。そこには、いまのわたしより、たぶん5歳は若いはずの母さんがいました。涙がこぼれそうになりました。ずっと、淹れることができなかった珈琲を、淹れることができたのも、その方の、そのやさしさと、写真を探して下さったその気持ちのあったかさのおかげだと。。。ひとは、ひとのやさしいこころに触れるたびに、そしてうれしくて、涙がこぼれるたびに、かたまってしまいそうだったこころが、少しずつ、それでも確かに、やわらかく、またわたしも、そんな風に、やわらかいこころをもっていたいなぁと、おもうことができるのでせうね。しろくろの写真の方が、はるかに、たくさんのことを伝えてくれるように感じるのは、わたしだでせうか。。。。