また、ことばが降ってくる状態になっているようです。以前のそれよりは、自分でも、じたばたしなくなったというか、出てくることばを、忘れないうちに、つぎからつぎからと書いておかねばという、せっぱくするのを追い出して、自分なりに、調子に乗りすぎないように、シーソーのどちらかに傾きすぎないように、そんな風に、自分に言い聞かせている節はあります。ただ。それでも。こういうときは、2,3日から4,5日しないと、平均的?な、つまり規則正しいと言われるような、睡眠時間とはいかなくて、かといって、ねむっていないことが苦痛でもなくて、ぼーと、あれこれ、頭の中を流れていく、情景や、ことばや、想い出や、考えや、そんなこんなを、まるで、空を流れていく、比較的悠然と、ゆっくりと流れる雲を、みえてくるままに、眺めているような。。。そんな状態なんです。
しかし、こういうのは、あのいつかの赤煉瓦の近くで遭遇した10月の満月の夜に起こった?なんともいえない、言葉の嵐が突然訪れて以来、ときどき、やってきては、いつの間にか去って行き、その間の多少のリズムの変化はありこそすれ、そのあとに、特段に、特別、不安やブルーの迂回海に沈んでびくともうごかない、眠り続けるカレイさんのように、揺り戻しのような大きな揺れはなく。。。また自然にふだんの、ちょっと時間にルーズで、早起きつまりすっきり寝起きが悪い方が、健康のあかしにょうな習慣の、いつもの自分に戻っていき、、動きが極端に低速になるブルー状態は自覚しないままに、気が向いたら、2つ3つ同時進行で、家事をやっていながら気の向くままに動くことがひとつの気晴らしのような、とはいえ、ひとつのことに夢中になって、集中しているのが落ち着くときは、ひたすら、書き物を続けていたり。。。
つまるところ、自分でも自然にまかせているしかない、というような、明日のようなそんな先のことなどわかりようがないと、大きな口と未来予測のあまりに愚が多すぎる、行き当たりばったりの。そんな生き物だったのです。たぶん、いまも。。。ところがです。どうやら、ほ乳類だったでしたが、それとも、もう少し大きなくくりでしたかは、忘れてしまいましたが、雌の機能を失っても雄よりも長く生きる生物は人間だけだと聞いたことが、いや、たぶんどこかで読んだことがあります。それには、孫を育てるというとても大きな仕事が残っているからだと、確か、そこには。。。ともあれ。そんなわけて、好むとその反対には関わらずやってくるのです。混んでる電車で最も空間的に安全な場所は、3人以上のおば(あ)さま連れのそば。(なのは、説明しなくてもきっと。。。)そのくらい、こわいものなしになっていくもうひとつの時間が始まるまでの、その間に訪れる、こころとからだと、そのほかいろいろなものが入り交じって、なにやら、自分ではとても制御ふのうともおもえる時期が、あるのでせうか。
だれにでも、なにかの形であるのでせうが、ひたすら忙しくすること予定計画を次々詰め込むのが最も、ある意味、確実な、緩和策なのかもしれません。なにしろ、いそがしいは、こころをうしなうとかいて忙しいなのですから。。。それでも、性格や音色や,体型や、性分や、癖や、それらの数だけ、表に出てくる、つまりは本人がかんじることのできるなにやらわからないけれども、自分ではどうしようもなくうけいれ、眺め、見守りまつしかない、それの状態の種類は、あるのやもしれませんね。男の人は50からという言葉をずっと前にテレビか何かで聴いたことがありますが、雌という生き物は、およそこれほど特徴のわからないものはないですよねぇ。そもそも、本人が一番わかっていないのですから。気持ちや感情の表出や、結論のないおしゃべりの嵐は、事情が許せば、それこそ山のようにしますけれども、それは、たんなる時間を忘れるひとつの方法だったり、愚痴のぶつけあいだったり、自慢の仕合だったり、要するに、いつかドーナツなんて書いてしまいましたが、核心は、解きに、本人さえもわかってない場合もある気もしますが、ともあれ。もともと、計画的に規則的に、毎日同じ事を繰り返すことで安心する部分は、間違いなく男の方より少ないはずです。もちろん、理系、鉄道、将棋、物理、空間図形などなど、男の人と同じくらいにそれらの分野を得意にする女の人もいるわけですから、ひとそれぞれは、きっとあるのだろうとはおもいますけれども。
家族をかんぜんになくした、どうしようもないそうしつかんは、少しずつ和らいではくれていき、これまでより、その波の高低の落差は、だいぶん、小さくなってくれてきているように思います。自分のこころが納得するもの、自然にがんばりがきくもの、そんなものは、ひとそれぞれに、なにが、それにあたるかは、みな、ちがうようにわたしはそうおもいたいからそうおもうようにしているのですけれど。なにごとも、時間というものが、自然に、流れて、その中で、少しずつの変化や安定をくれるのかもと。おもえるくらいには、やっと少しだけわかったような気ができるようになったのはなったのですれど。。。ただ。その時間のことも含めて、眼に見えないもののなかにこそ、やっぱりとても大切なことや、忘れてはいけないものやことがあるように思うのです。(これも人によって、なにをいちばんと感じるかは違うのだろうと思うのです)。はてさて。興味のあることを勉強するのは、好きなのです。と、いまごろ、さいきん、気がつきましたが。。。
100歳になっても、筆をもって、自分の世界を描いてみたり、70歳を越えて、地元のグランドシニア?野球チームの一員としてユニフォームの似合っていた方を、知ったときの、あの、わぁあああとこころの声が自然に出てくる感じも忘れがたくあってみたり、ちょっと無理矢理な日本語の使い方になってしまいましたが、申し訳ありません、つまり、幾つになっても好きでいるもの、わたしにはこれ、というもののあるという方々が、知らず知らずに、後の世代に下さっている勇気だったり、ずううっと先まで線路はあるのかもしれないと、思える、そんな創造的な,世界や、時間をもてることの素晴らしさ。いつか、もしかしたら。わすれかけてた、好きだったものに遭遇したり、突然、雲や雨のように降ってきたり、するときもあって、岐路は、気づかず通過していたものも含めて、もしかしたら、いつでも、そこに、あったりするのせうか。このごろ、諦念とも、夢のまた夢とも、ただ待っているだけというのとも、違う、智慧と未来を考えてみるということを、意識がふと出てきたりしていて、自分でも、大丈夫かな、わたし、という、不安と期待と、あと見えないなにかとのミックスのなかで、ひたすら、延々、だらだらのち、ときどききりり、
を、意識して実践してみようかしら、とか、もがいて、苦しかった時間の中から、ほんの少し、かわることができるかもしれないという、予感ともいえないような、かすかななにかが、自動詞ではなく、自分の意思で、何かを、と、元気な時は、やっと楽天、ごーまんすぎないで、静かだけれども、人生というものについて、考え、思案し、嘆息し、希望し、がっかりし、投げやりになりそなときを幾つも幾つも繰り返し、まだまだ、かたつむりか、昼寝する亀、キリギリスではあるのですけれども。ほんの少し、かくごというものを、身近に頭だけでなくこころも一緒に、わかりかけてきたような。。。。と、書いていたら、明け方がやってきました。。。。