初めて、野球というものを観たのは、その星というのがつく、新しく改訂されたほうの、いつも、主人公のエースが投げてるシーンと、赤いヘルメットでめがねの大柄なバッターが右のボックスに立って、消えたり現れたりするボールを打ったり、空をきったりするシーンばかりがでてくる(おそらく、覚えているのが、印象に残っているのがそのシーンばかりだったせいでせうね)、そのアニメ番組でした。だから、そのあと、しばらく、野球というのは、守備するチームと,打つチームが交代しないきょうぎだとおもっていた....と、ここで、いつか書きましたね。ほんとうにそうおもっていたようにおもいます。そして、最初ではなく、2冊目に、初めてわたしが自分からほしいと言ったのだったか、それとも、ほかのなにより、キャッチボールにばかり、興味をしめすから、(おそらく)父が買ってきてくれたのでせうとおもうのが、その方の伝記だったのでした。

 

ハードカバーの、裏表紙には、引退されたときの会見の様子を写す写真と、現役の間の記録を一覧と、そしてもちろん記事とが切り抜きされた者が、丁寧に日付をスタンプして貼られてあります。(間違いなく、父がしてくれたはずのものです)。ということは、その本は、おそらく、まだ、現役だった頃に、子ども向け伝記シリーズの中に既に加わっていたということになりますね。いつか、その本にサインしていただくというのが、いまでも夢のひとつです。いったい、何度呼んだことでせう。(ちなみに、父は、緑色の帽子の、リーグの違うチームが好きだと言っていました)。生まれつきの左利きだったことも、おそらく父が選んだ理由のひとつだったのでせうか?もし、その本は、わたしからねだった者でないとしたら、私のきおくの中で、初めて、はっきりとほしいといったのは、もちろん、グローブでした。

 

父は、それを買いに行く前、大きな街の、最寄り駅からのローカル線だと必ず終点になる、その駅から歩いても、5分ほどのところにある、染め物工房に嫁いだ次姉のところに立ち寄ってから、大きな百貨店まで行ったようです。小学校あがったかあがらないかの、しかも、左利き用のが売っていたのは、たくさん探して、その百貨店だけだったというのを、報告するのに、買い物後に立ち寄ったと言ったのだったか、いま思うと、少しあやふやになってきましたが。ともあれ。学校(か保育園)からもどると、父の机の上に、白地に、(当時は濃いのと薄いのの二食の)青でデザインされた、そのメーカーの紙袋がちょこんと置いてありました。その横で新聞かなにかを読んでいる父の背中。わたしが、ほしがったのが、お人形さんではなく、これなんだというのを、しきりに、姉の家でしてきたんだと、晩酌が入って初めて、口がなめらかになった父が話していたのを覚えているのでせうか。

 

高学年になったら、もう小さすぎるくらいの、これ以上小さいのは作ってないのでないでせうかと想えるような、そんな大きさの右手にはめる、ネット式のでした。それでも、家でするときは、かたいボールは決して使わせてもらえず、いつも、けがしない柔らかさのカラーボールだったように想います。肩があたたまって(なんて5歳や6歳の子がおもうかどうかわかりませんが)、さあ、これからというころになると、はいおしまい、もう肩が痛い、決まって父が言うのでした。そりゃ、大正生まれで、戦争にも行って、当時で、還暦をすぎていたのですから、仕方のないことというのは、いまなら分かります。子供心に、口にはだせなかったものの、やっぱりちょっぴりざんねんでした。家に居るとき、外に出られないとき、その伝記がいつもそばにありました。なんどもなんども読んだと思います。

 

ひろこさんという双子でうまれたということ、50番という中華屋さんだったということ、立派はお兄さんがいたということ、お父様は、祖国でとても苦労され、どうしても、電気技師になってほしいと願われていたということ。それでも、列から取り残されたご自分に、丁寧にサインをしてくれた選手が、とても印象に残って、とにかくとても嬉しかったということ。それで、学校をでたあとにそのチームに入れたことがとても嬉しかったあということ。2年生の時、豆がつぶれて、血の付いたボールを投げて、仲間の捕手を心配させたということ、選抜では勝てた?のに、夏には決勝でやぶれたということ?(少し、記憶があいまいで少しあやまっているかもしれません)。88年待ちました。ということは、夏には勝ってはいないということですよね。もちろん、その本はいまも、ガラスのドアがついてる方の、書棚にあります。

 

いま、あたりまえのように、女の子でも男のと同じユニフォームを着て、走ったり投げたり捕ったりする姿が、あるのがほんとうに夢のような時代でした。わずかついこの前のようにも思える小学校時代のことでさえです。やきゅうにかんする本を、自分で、レジにもっていくのさえ、叱られることをしているのような、わるくないのに、それでもとがめられることをしているとおもわれると(そうおもっている)感じてもいました。学校の、休み時間の、軟式のテニスボールと、カラーバットや、素手を丸めて打ち返すだけの、そのゲームのときだけしか、思い切りできなかった時代でした。とにかく、ボールがたくさんとんでくるところを守りたかった。学年が進むにつれて、左利きは、外野かファーストしかダメなんだと、地元の野球チームに堂々と入れる男の子たちが言いました。だから、いつも、ファーストは、同じ学年の左利きの男の子と取り合いでした。チャイムが鳴ったら、どっちがさきに、そこまでダッシュするかで決まるんです。

 

当時はやったアニメのせいで、いっとき、みんながサッカーばかりに夢中になって、野球をなかなかしてくれない時期もありました。そのときも、なぜか、キーパーの席を、やっぱりダッシュで、その左利きの子と取り合っていたのは、なぜだったのでせうね。やっぱり、ボールは手で捕りたかったのでせうか。もちろん、キーパー以外のときも、ありましたよ。野球の時でもそうでしたが、少しでもミスすると、負けた原因は、全部わたしのせいになるんです。学年があがるにつれ、ファインプレーは当たり前、どんなに乱暴に投げられたボールでも、アスファルトに手の甲をこすりつけて、すりむいても、ショートバウンドを捕って当たり前。後ろにこぼすものなら、あとで何を言われるやらです。打つ方は、たいしたことありませんでした。わざと。左や右のファールゾーンにバントのようなボールを打ってから、守備陣を動かして、その間を狙って打つのがやっとのことでした。人数が足りないときは、サード、ショート方面以外に打ったらアウト。という特別ルールのときもありました。もともと、流し打ちしかできないのでしたから、むしろ、好都合だったのは、内緒にしていましたが、勘のいい子にはばれていたかもしれません。

 

一塁線を抜いた、二塁打が一度だけあったのを覚えているのは、あれは、素手ではなく、バットを使ったときだったでせうか。7時半までに学校に着けるように行くと、まだ、あさのゲームが始まっておらず、おい、入るかと言ってもらえて、一緒にゲームに参加させてもらえるのは、5年生の時でした。一学年上の男の子たちとのゲームです。クラスに40人以上。教室は机でいっぱい、の当時には、ましてや、上の学年の中に女の子が入るなんて。考えられない頃でしたから。(中学に行ったら、ぜったい、ひとつ上の女の子たちになにか、こわいおもいをさせられるに違いないと、ずううとおもって、心臓を縮めていたのを覚えています)。それでも。レフトを守らせてもらえるのが嬉しくて。サードはもちろん、ゲームを仕切っているリーダーのひとでしたから。そのひとの頭上を越える打球が来て、振り返ったときに、私がちゃんと、捕っている。そのシーンは、そのときの、おーーーの、声と一緒にいまもずっと心に残るシーンです。

 

ただ。です。横や前への打球は打った瞬間にどの辺に落ちてくるか飛んでくるかはわかるから、自然とからだが動くんです。明らかに、頭上を越えていくだろうボールのおいかただけは、当時(おそらくいまも)どーーしてもうまくいかなかったんです。斜めに背中に目を付けて走るというのが苦手で仕方なかったんです。しかも、素手ですからなおさら。いちどだけあったんです。当てずっぽうで走って、ほんとに当てずっぽうで、右か左かは忘れましたが、てきとーに、手を広げて腕を伸ばして、ダイヤモンドに背を向けたまま、出してみたらば、その手の中に、ちょこんとボールが乗った?(つかめた?)んです。そのとき打ったひとはなぜか覚えていますが、(同級生のお兄ちゃんでした)、背中から、なんの、声も聞こえてこなかった。当時、限られた時間で、ゲームをするために、1アウト交代が当たり前だったので、しずかーに、攻守が替わったのだけ、「あれ、なんで、誰も、なにも言ってくれないの?」と、心の中で思ったのだけ覚えているんです。おそらく、みんなも、まぐれにちがいないって、ことばを失っていたのかもしれませんね。そう、まぐれでした。

 

高校に入って、中学の3年間みたいに、勉強が愉しい、というより、するのが当たり前、計画立てて、その通りにできたときの達成感というより、自己満足かもしれませんが、ともあれ。やったらやっただけ、どんどん記憶に新しい情報が入っていく。そして、テストに書いたら、いい点が。きっかけは、「とれるもんならとってみぃ」の、売り言葉に買い言葉の口けんかの相手のひとことでしたが、まさか、ほんとうに、とれるとまでは、ほんとにほんと(っていう番組昔ありましたよね。金曜日の7時半くらいから)でした。そうそう、高校に入って、まったく、そのペースでできなくなった。せっかく、中学の時の、野球の代わりに仕方なく入った(といったら失礼ですが)北部地区シングル1位だったおかげで、いくつかの誘いをことわって(しまって)、早起きしなくてもいい、(結果的に、旧制、新制、の違いこそあれど、)父と同じ学校へ行ったのでした。毎日のように小テスト。のんびり自分のペースで。できないと、どうにもうまくこなせない私には、どうにもこうにも、適応できないストレスがたまるばかりの時間にしてしまいました。(そこで、心に浮かんだのが、よし、もうひとつ、上の学校に行ったら、なにがなんでも、野球部に入る!)そのために、勉強をあきらめないぞ。それが、支えだったような気がします。

 

それでもできたのは、あきらめない、ということだけで、日々の勉強は、手を抜くのも下手で、要領よく点をとるのも下手で、友達達との、なにやら、ついていけない、論議に参加するのも下手で。。。3拍子以上そろっていたように思います。せっかくの定期を、雨(と雪)の日だけ用にして、電車の時間より遅く起きても間に合う!自転車をかっとばして!?ローカル線3駅分を、汗いっぱいかきながら、小4の剣道通い用に買って貰った、みんなより2インチも小さいタイヤの、でも、一応ギア3つ付きの愛車をこいでこいで、学校まで行っていました。風が気持ちいいのは確か。秋などは、暮れも早くて、目の前に、どんなお盆よりももっとずううとおおきな、うさぎさんのまん丸な黄色の円が、ずっと一緒についてくる。。。そんな山の端、ならぬ、やまうえの空もとても、うつくしい光景でした。数学はまだ、得意に方にできましたが、理科だけは、歳を重ねるにつれ、どんどんわからなくなっていきました。「学問の創造」、(「夢十夜」のように、まるで木の中に初めからいたかのように美しい仏さんが現れる。。。そんな美しい式に出会えたときの感動はほかではとても表せないと。。。)の、福井さん、そして、当時、夢中で観ていた、海外のドラマがありました。その化学知識を駆使して、どんなピンチも、切り抜けてしまう。。。「冒険やろうMagなんとか。。。」。いつでも、わたしのチョイスは、こころを動かすなにかがあるかないか。ただ、それだけでした。きっといまでもかわらないのやもなのです。。。

 

福井氏のおくさまの書かれた「ひたすら」には、その、机に向かわれる背中の、あまりにきれいな式にたどり解けたときの感動の様子が、書かれていたのが、とても印象に残っています。と言う風に。。。書き出したらいつまででも、書いている。(のです)。元に戻りますが、ゴルフは右だときいたことがあります。16番をつけていらしたあの方は、左打ちの方のための協会長をされていたとか。というのも聞いたきおくがのこっています。先日の懐かしの方々との一戦も、ほんのワンシーンでしたが、拝見しました。残り時間だなんて、ことばはそれでも使いたくないのですが、特にゴルフは、時間を多く重ねて来られた方々と、少しでも多く、せっかくの希有の機会がまんいちあるなら、そうしたい。。。というのが、かわらぬわたしのささやかな願いなんです。もちろん、じゅみょうというは、だれにもびょうどうにあって、長さのちがいは、ひとそれぞれ、というのはあたまではわかっているのですけれども。こころのなかでは、わかりたくない、すこしでもささやかでも、うれしいとおもえる時間のありますように。。。と、そう願わずにはいられない。。。。そんな春のやっと知恵熱の下がったわたしのひとりごとではあるのですけれど。。神さまのボートのストーリーのように、小さくてもいいから感動のある時間が訪れますように。。。と。お薬との闘いにもどうか、無理も頑張りすぎもしないでいられますようにと。。。

人生初のオペを受けたときの、主治医でした。苗字だけをなぜか覚えていました。うろ覚えのシルエットしか覚えておらず、あとは、歳のころと。そして、おもに、術後のアドバイスや、なんとかテープの患部への張り方を教えに来てくれたのは、執刀医だった主治医ではなく、その後輩にあたる方の、もうなまえも全く思い出せないドクターせんせいでした。30年経ったとしたら。。。よい歳の重ね方をしていたとしたら。。。万が一、その珍しい科のせんせいだったとしたら。。。ふだんなら、コース外の話題を自ら持ち出すことなど、ましてや、もしかしたら初対面かもしれない相手に、自分からすることなどありえないのでしたが。。。なんとかのそれ。。。というのでせうか。こころの声がして。。。ふと、タイミングをみて、訊いてみました。最初は遠回しに。そしたら、「一応、ドクターです」との。謙虚なお答え。それでますます、うううん。きっと、もしかたら、たぶん、ひょっとしたら。そんな、直感を、確かめてみる勇気をだして、訊いてみたのでした。果たして、でした。なんと、おなじところに、40年余。

 

術部、患部、方式、症状、などを簡単に説明すると、それなら、間違いなく、僕でせう。とのお答え。そのとき、担当してくれていた、当時は新人だった、看護師(当時はまだ看護婦さんと呼んでいた時代だったかと。。。)さんとは、なぜか、いまもずっと年賀状のやりとりを続けていると、お話しすると。「ああ、知ってる知ってる」とのこと。縁は異なもの、とは、河合隼雄さんと、白洲正子さんとの共著でもありましたが。。。まことに。不思議な形で、訪れること、ふとしたことに、元気をもらえること。。。そんな、軌跡のような、奇跡のような、そんなことが、あるものですね。生きていること。続けていること。重ねていること。そんないろいろの、すぐにはこたえの見つけようのないものものの、ありがたさ、ふしぎさ、いとしさ、

(そういえば、数日前の紙面に、いとしさとは、悲しさ、と、もうひとつなにかあって(せつなさだったかしら)、それと、愛しさ、が、ぜんぶ、含まれている、ひとことでは、とてもいいようのない、ことばなのだという、一節がとても心に残っています。)こうしている、いま、まさに、生きていることと闘っている方への、

ことばではとても、伝えようのない、メッセージを届けたい一心で、書いている、いきてるだけで、どれだけ、ありがたいか、時間があるということの、どれほどの貴重さかを、ことばにならない声にして、なんとか届けたい、少しでも、わずかでも、なにかを忘れられて、少しでも、夢を想える

時間のあることを、願わずにはいられない、そんな心境の中です。

 

またね、の、ひとことが、どれほど、希望に聞こえることでせう。

 

ほんとに、ちょうどいいというのが、どうしてこうもむずかしいのでせうと。少し、かなしく、せつない,気持ちが、先行してしまうことの方が

どうしたって歳と友に、おおくなってしまうのが、自然なはずなのですけれども。それでも、です。なんでもできる(気がしてるだけ)は、(結局)なんにもできない、そう、なんど自分自身を責めたことでせう。本屋の、立ち読みほど、どうして、心に残る、一節に出会えてしまうのでせう。

藤田桃江さんの、一節に、救われることばに。ともすると、おれそうになる、こころを励ましてもらったことでせう。本がたくさんあって、そこには、ものすごくたくさんの苦悩の末に生まれてきたはずの、たくさんのことばが、いっぱい隠れていて、であったひとにだけ、しかも、タイミング良く、心に響くときに、目に出来たひとにだけ、こころに深く刻まれていって。。。そんな空間にいられるだけで。ホッとしてしまうのです。

といっても、まず、ほんとうに、こころがオフになってしまうと、その癒やしの空間に足を向ける元気さえ見失ってしまいます。気持ちって、ほんとうに、自分のちからだけでは、どうにもできない、なにかがあって、流れがあって、、見えない、誰かの、支えがあって。やっと、なんとか。。。

そんな、あがったり、そうでなかったりの連続なのかもしれないとも思います。ひとによって、その波の自覚や、揺れ幅の大小が違うだけで。。。そう、言ったら、なにをえらそうに。。と、叱られてしまうでせうか。。。ゆうべは、39.2度でした。

 

中学3年生の7月に見た、39.6度以来の水銀計のメモリでした。ひと晩で、37度に戻ってはいましたが。。。熱は、からだの、自然浄化作用?、自然、異物撃退作用?とも、訊いたような気もしますが。。。高熱の前日には、前代未聞、大学以来の、完全寝坊をしてしまうし。少し、前から、疲れやすいなとはおもっていたので、ウイルスくんか、バクテリアさん、か、どちらかはまだわかりませぬが、からだのなかで、格闘が

あったのでせうね。4000年の統計学を持ち出すと、いつも、考えすぎと、叱られますが、それでも、わたしの星は、やっぱり、清明の前に、

外に飛び出すのは、無理が重なってしまったのでせうね。それでも、小さな難はおおきな光の、貯金とも歌われてもいますし。でも、そしたら、小さくない難は、どうしたらって。ちいさくてもいいから、ささやかでもいいから、光、か、幸が、見えますようにって、祈らずにはいられませず。

そして、これを、読める機会がありますようにと、ただただ、願うばかりで。。。

白髪はもちろんですが、この冬あたりから、どうやらROーGANなるものも、かなり自覚できるようになってまいりました。

なにより、物忘れのすごいこと。ことばが降っている最中でも、すぐ、固有名詞やものの名前がひきだしの奥にしまわれたみたいに、

でてくるのに、なんと時間のかかること...。ひとり連想ゲームを頭の中でやって、やっと関連つながりで、でてきたり....。忘れた頃にでてきたり。

声を出さないでいる時間と、そういう頭?神経?回路の、不接触減少をおこしてしまう頻度の可能性と....。あるのですかねぇ。

 

もともと、めがねがめんきょしょうの限定項目にあったはずが、前々回の更新時には、なぜか見えてしまった。。。多少、目は細めたりしたですが。ともあれ。まぁ、近くでものを見たり、パソコンとにらめっこする時間のほとんどない環境にいたせいもあるせうが。。。少なくとも、中学の時までみたいに、下から二番目まで見えるようなことはとてもとてもですが、基準のちょっと上ぐらいは見えているようです。そのころから、きっと、

体内のいろいろな細胞は少しずつ、落ち着いて(熟して?)いくのでせうかねぇ。

 

つまり、生まれた時点で、両親はもちろんろーがんなるものだったというわけで。まぁ。そりゃいっしょにお出かけすると。「いいねぇ、おじいちゃんと!どこいくの」。4歳になるかならないかのときのことでも、それがどこだったか、どんなにこころがかなしかったはとても覚えているんですねぇ。たったいま、そこに置いたはずのものが、いつもない!.のに...です。ともあれ。どういうわけか、6歳と3ヶ月と2日の日から、日記というものを

書き始め、人生で最も勉強に集中できた(のはなぜでせう?)中学の3年間と、もーれつに自分の時間の持てなかった夜勤もあったときとを除けば、母さんが倒れて戻ることになるまで、ほぼ毎日書くのが週間でしたねぇ。

 

家にほかにだれもいないのは、7歳になっても泣きそうなくらいだめでしたが、それぞれがそれぞれにしたいことをしていて、家の中では、食事の時間以外は、ほとんどがひとり...というのは、気付いたときからそうだったようです。秒針のような母と、きっかりルーティンを守る長針みたいな父と。そのあいだではなく、なにかに夢中になると、食事になんど呼ばれても、いつも遅れる短針、昼寝する亀みたいな....。いつも、だまって安全に、(ほとんどたいてい)静かに、少し離れて見守ってくれてたのが父だとわかったのは、ずっっとずっと後になってからでした。

父がいたからこそ、母の毒のあることばも、それほどわたしに一身に向かってくることもなく、父の目や耳があるからこそ、勉強しているときは

とりわけ、そっとしてもらえた。こころの平和が訪れていました。

 

無論、それだけが理由でもないのかもしれませんが、4年生くらいのとき、帰ってきたら、食卓の上に、算数と社会?だったか、2冊の教科書、でも、ドリルでもない、小ぶりの参考書がありました。だれが、いつどこで買ってきたのかもいまも知らないままです。おそらく、買ってきたのは、当時はまだ、車のない我が家でも、歩いて行かれる場所に本屋さんも入っている、小さなショッピング店があって、母だとおもうものの、

「なにも言わずに、黙って」と父が母に何度も念を押したのではないのかなぁ。そうすれば、自然に、自分から、少しずつノートに書いて、宿題以外の字を書く時間が増えていくと...。

 

ラジオを聴きながら新聞か、専門誌を読んでいるか....ときどき家の周りだけを、散歩というか、なんというか、一服は、歩きながらしているところは記憶にないから、部屋でだけすっていたのかなぁ。ともあれ。まるで巡回、のようだといわれても否めないそんな気晴らし運動?が日課でした。父の。テレビは、白黒のままで、余計なこまーしゃるや、らんぼうなシーンのある(それを「ぶったりけったり」という言い方でした)番組を見る必要は無いと。本人は、晩酌しながら見るのが何よりだった相撲と、CMのない旅番組や、料理番組をみられたら(もっとも本人はいっさい台所に立つひとではないのですが。きっといろんな味を作る過程を、想像味覚と重ねて観るのが好きだったのでせうか。それとも、無言で、

たまには、こんなのも作ってもらえないかなぁと。あんなに品数毎日毎日もらって言えなかったのかなぁ。

 

ともあれ。23年経ちました。そしてもうすぐ3年と。はたと、そして愕然とさえしたのは、何をするにも計画するのが当たり前のふたりでしたから、法要も、必ず重なって、しかもひとつき強違いと、一度でできるように配慮したり、ずううっと先のことを予測、心配して、お金では買えないいくつもの時間や、空間を作っておいてくれたり、そんなことは父にしかできないことだと思っていたのに。。。はて。生後1年足らずで母をなくした父と、学校にあがる直前に父をなくし、おまけに遠く離れた都会に里子に出された母と。(もっとも1学期で、夏休みに故郷に戻ってそのままもう戻らなかったらしいのですが)。そんな時期にこころに受けた、疎外感は、そしていちばん父親に甘えたい時期に家族からさえ離された、その気持ちを思うと、とても想像を超えてしまいます。互いに、ほぼ知らぬ母、父の像を理想化しているから、あんなにいつも、仲良くできないんだろうな、などど、解釈していました。

 

ただ。落ち着いて考えれば、チーターさんと、お猿さんでは、食べたいもの、進めたいこと、ペースや考えが、違うのは当たり前で。互いに、居て貰わないと困る!と、感謝しつつも、いつもはほとんど一緒にいるとこみたことない、のでした。晩酌が始まり、なんど呼ばれても、なかなか

食卓へやってこないわたしゆえで、そのときだけ、父の口はほんの少し無口ではなくなって、ふたりのありふれた、ささやかな、それでも互いに、意見が同じ事を確認しているような話し声が聞こえてくるときは、ホッとするものがあった気がします。「あんたは、いつもご飯をあとにことずける」。そう、酸っぱくなるほど右斜めの角に座る母の声でした。軽めの一膳を食べるのがやっとの胃袋、というより、おかずだけでも美味しいメニューになっているわけですから。父の晩酌のお陰で。

 

イクラやなまこ酢、ほぼ毎日、調理法をかえたお魚がならび、「猫でももう食べるところが残っていない」と。「魚がいいとい父さんのは、いっぱいまだ食べられるとこが残ってるんやから~」。おもったことをすぐ口にして、ひとのこころには、傷が付くということを知らないのかなぁと、おもうくらいな性分は、やっぱり幼少期の父との時間が足りなかったのですかねぇ。褒めることはほとんどしないで、口をついてでるのは、ほんんど愚痴と、そのとんがった矢のようなことば...が目立ち....。それでも、ほとんどは我慢していたのでせうねぇ。そして。ときどき、どうにも、ってときに、とうさんがいきなり怒り出すときがあって。子どもの目には、そんな背景に気づけるわけもなく、ただ、お酒を飲んで怒っている父さんが悪いと思っていました。なんでも、おそらくほんとうのことが見えてくるのは、ずっとずっと後になるのでせうねぇ。

 

文句ばっかり言っている、というのがわたしの感想で。どうして、それほど言えるんだろうってくらい。きっと、それで、母は母なりのストレスをなんとかしていたのでせうか。専門の縫い物、ミシン、洋裁をしているときだけ、ものすごく、その空気が別人のように穏やかにかわっていました。根っから、お洒落なものを手作りすることが、好きだったのか、自慢だったのか...。6歳下の妹(その人は父親の顔さえ知りません)には、とても叶わないと言いながら、ウエストサイズを修正するときなど、ミシンの細かな目を根気よくほどかねばいかないときだけ、またほかのことをしているときと同じように「あああめんどくさい」と、壊れたレコード針みたいになっていました。

 

何しろ、チーターさんですから、ミシンで、一気にじゃぁ~と、縫ったり、気持ち良く音を立てながら、布を裁断したり、前に向かってぐうううんと進んでいくのは、抵抗もなく、それが芯からすきだったのでせうか、と思います。「あんたは、いちど座ったら全く動かん」。動き続けることが、自身のペースだったくせに、見えるところのものはとにかく気になるのでした。冷蔵庫を必ず声がしました。「なに?(がいるの?)」。とにかく、洗濯物の干し方ひとつにしても、見えるところの景色は、自己流になっていないと落ち着かないのが特徴でした。ひとには、遠慮なさ過ぎる、いつも余計な(とわたしも、そして、きっと父もおもってたでせう)一言を、矢のように降らせてくるのがどうにもかえられない性質のようでした。

それなのに、肝心のことは直接言わず、わざと聞こえるように遠くで独り言したり、やっぱり、女の人どうしの会話はいつもドーナツ、と、いつか書いたことが、あてはまっていたようです。

 

あれだけ、言いたいこと言ってるから、まわりは、本心はもっと別の所にあるなんて、思いようがない。素直に、芯の所を相手の気持ちを考えて気持ちをもって伝えたら、どれほど、みんなが、やさしい気持ちの、時間と空間の中にいられるでせうに。たぶん、子どもの頃に、そういう言葉のいれものを作ってもらえる機会や時間が少しだけひとより少なかったせいなのかもしれないですね。どんなものでも、全部手作りする!と、自分で一度決めたことは絶対やる、というのだったのかもしれないですね。ほんとに。遠足のときのリュックまで、布でカメさんのアップリケも手作りで。高校までの制服はもちろん。既成のは着たことがなかった。つまりは、オーダーメイドなわけですよね。食事はもちろん、出来合いのものを一度も見たことがなかったです。とにかく、手を掛けてくれた。

 

父は、とにかく、静かに見守ってくれた。それらがあったからでせうね。あのときの何分の一も手を掛けることがそれでもできないかもしれないけれど。少しでも、時間を、手間を、そして見守ってと、その少し前までは、絶対にずうううとひとりでいられるくらいに元気で頭も確かにいてもらわないと困る!と、思っていたそれは、実際の流れがやってきたとき、自然に、先のように思っていました。いつも、あんなに小さいときに手を掛けてもらった。それが、いつもこころのなかで言葉になっていました。「もう、ぜったいゆるさない」という、ひどいことばの投げつけが何度あったかしらないけれど、それでも、あんなにもろくも、こころがそして脳の中のなにかが、こわれて?いくとはと。おもいました。子どもの時に甘えたくても甘えられなかった分を、いま、こうして全部、求めてきているのだ...。と。そう思いました。

 

最初の1年と少しは、それはもう、壮絶どころではまったく言いきれないくらいの、ドラマだらけ、アクシデントだらけの。闘いを、とうに越えた、文字通りの戦いだったことだって、「だれも普通をおしえてくれない」(は、いつか読みたい一冊のひとつですが、ともあれ)あったようにおもいます。傷だらけでしたからねぇ。どちらも。そのうち、わたしが愛してやまなかった、17歳の大雪の前の日に、おそらくもう、とっくにこわれはじめの兆しをいくつもみせていた(のに気付くのが遅れたと後悔するのです)、母が、その心の声を、まるですべてわかって悟ったかのように、ひとり、振り返り振り返り、いつもの農道の向こうに歩いていった(と、聞きました)。我が家のおとこたちは、どうしてみなこう辛抱強くて、相手の気持ちをおもって、何も言わずに、あとでずっとあとになってその優しさに、こちらが愕然と胸をつかまれるような潔さをもっているのせうか。

 

外地で散った友や仲間のことを考えたら、そんなもの(言葉が悪くてすみません)もらえるか、そう言って。断ったそうです。戦争に行って戻って来た人がもらえるものを。それを聞いた、わたしは、ほんとに誇らしく、かなしいくらいに、かっこいいとおもいました。清貧でいい。いや、それこそがいい。と、つい、どうしても思ってしまいます。そのくせ、定期的に、先の不安にこころがつぶれ、インフルより重たい風邪をこころにひかせてしまうのですれけれども。子は、親の背中をみて育つ、というのは、かなしいながらに、やはり、そうなのかもしれないと、申し訳ないような、でも、見えないもの、お金では買えない時間にこそ価値がある、と、やせ我慢を言ってみたくなるのです。ときどきですけれど。ひとには、それぞれ寿命があるんです。そして、格というものもあるんです。そのことばが、折に触れてこころに響いて、自問を繰り返してしまいます。「それでいいのだ」と、「ああもしああならこうならどうすべや」が、交互にやってくるという具合です。

 

いつかどこかで、なんて、あ~、どうしてそんなやせ我慢を、気取ったせりふを書いてしまったのだろうと思います。故郷で暮らした二倍以上も、こんな(また失礼表現をお許し下さい)まったく風土の異なる、しかも、どこよりも?ほしゅてきな、といいますか、やさしいのは土だけでは?(といったらしかられますね。すみません!)と、いうこともたくさんありそなそんな気もする、この村で、檀家どうしのつながり、風習、きまりごとがものすごく多岐にわたり、それ以上に、井戸より狭い?(と言ったら言い過ぎですねすみません。)障子にふすまにそこらじゅうに耳口だらけの、言い換えると、(ほかにすることがないの?)と、不思議におもう(こと、ひと、は、すべて、それぞれに違いますね。確かに)こと、そこかしこで。距離に比例して、悪いところがよく目立つ?のでせうか。どして、よりによって、ほかのではなくここで、さらには、かの(いつか再三登場しました)ひどすぎるとなりだったりもして.....。ふ~。生まれてくるのを本人が選べないのと同じ、そういうことなのでせうかねぇ。

 

いつか、黒川伊保子さんが、おんなのひとの脳は、物語を紡ぐようになっていると書かれていました。そうなんです。なんでもいいから、言葉を綴っていたいのです。なんでもいいからというのは、語弊ですね。もちろん、内輪で、なんでもいいから「音」が場を慰めるだけのときもあるやもしれませんが。どちらかというと、意味や、結論より、「話しながら、頭の中が働いて、自分の発した言葉が、次の瞬間、思いも寄らなかった、アイデアや、メッセージが自然に口をついて、あるいは、書くとそれが、スムーズにできるように思っているわたし(のような方もいるかもしれません)。

 

これは、憶測ですが、「何をごちゃごちゃ、結論は何?」「質問文?それとも、独り言?」。いつもとは限らないかもしれませんが、男の人のイライラも、正直わかると思うときもあります。ほんとうです。同時進行で、いろんなことが器用にできたり、色や芝目の僅かな違いがきれいに見えるのは、脳幹が太いおんなのひとだから。。。と言われているのを聞いたような気もします。ともあれ。手が勝手に動いて、「くちからでてくることばの全部」は、確かに、おとこのjひととおんなのひとでは、そもそも、「それぞれが、受け取っている内容」が、違うことが多いのかもしれません。でも、互いに、だから、自分にはない安心感を相手のひとことに、救われたり、はっと気付かされたり、癒やされたり、するのかもしれません。

 

沈黙がこわくて、ひたすら話し続けたい人もいれば、ひとの話しを聞く用意はなくて、自分の言いたことを言うのが本望のひともいるのかもしれません。とはいえ。ことばが通じたときや、いつかもしかしたら、が、ほんとうになったとき、の、その、しみじみにはきっと、不思議は見えないちからを思うときもあるのやもしれません。これは、あくまでわたしの感覚ですが、本当に、素直になれるのは、おんなのひとならおとこのひと、素直に意見に従えるのも、存在に支えられるのも、互いにそんなところがあるのだと思います。それぞれに。ただ。ひとには、無駄もとっても必要で(無駄の定義次第と言われてしまいそうですね)。異性より、同性と、「ほんとうのところは、はなし半分だったり、話しやすさだったり、つまり、相性がよいと、同性に応援してもらえると感じるときが、もしあったら、それは、それも同じくらい嬉しいことなのでしょう。友として。

 

ただ。やっぱり、おんなのひとの井戸端会議は、殿方紳士の、哀愁と含羞に満ちながらも、そこがどうしてもかっこいいとおもってしまう一服の煙であったり、あるいは、音楽や唄で気持ちを伝えたいと口ずさんでいるときであったり、沈黙の中で、行間のなかで必死にいろんなあったかいきもちをつたえたいとしているときが、それに替わるというより、いえ、やっぱり、尊敬の念でしょうか。井戸端は、居酒屋の酔っ払い?(呑めないので)に近いの?いつだったか、耳にしました。もっとも優秀なおとこのひとは、あっとうてきに、おんなのひとより上であるけれども、その逆もまた然りであると。つまり、機能的(フラットすぎる表現ですみません)、生物学的にも、おんなのひとほうが、その幅はせまい、ということのようです。

 

それでも。確かにほんとうに、それその通りと思います。ほんとうの男の人と、どっちでもないひと(軽々しく言ったらいけませんね。すみません)と。素晴らしいひと、かっこいいなぁとためいきたくなるひとは、たいてい、いっています、おとこは、どうしたって、おんなのほうが偉いんだって。そう言える、というところに、あらゆることを、ひっくるんで、一言ではとても言えない、かっこよさ、すばらしさ、惹かれても仕方ないところがあるのでしょうかと、ふと、思います。

 

と、いう風に、互いに思い合っていることが、沈黙していても、包まれている空気だけで伝わってくるような方々は、いいなぁ、うらやましいなぁと。なんねんもなんねんも、言うに言えないいくつもの、たくさんを重ねて始めて可能なのでしょうか。それとも、やっぱりひとには、異なものといわれる、縁というものがあって、それがひとそれぞれ、いつに訪れるかは、そのときまで分からず、時間を味方にできてはじめて、気がつくと、そうなっている、ようなものなのでしょうか。ひとの数だけ、スタイルや形があるのでしょうね。芯のあるひと、気持ちを貫けるひと、信じ続けることのできるひと、は、きっと、見えないところで、人一倍の苦労や、苦悩や、もうことばをどれだけ重ねても説明しきれないくらいの、寂しさや、かなしさをかかえて、でも噛み締めて居られるひとのことなのでしょかね。

 

こころからすき、ということ。それが一番大きな味方で、考えたり思ったりしてもできることではなjくて、ひとぞれぞれの、流れや、縁や、運や、いろいろに流されながらも、それでも、信じながら、あきらめないでいながら、それでも、ずっと想っているってことでしょうか。それぞれには、できることしかできないのに。あたりまえのことのようだけど、できないことを必死で心に蓋をして、できないこと、あるいは、したくないことを、やらなくてはと、なっているとき。きっと、ひとのこころはフリーズしてしまうのでしょうか。一度停止した機関車を動かすにはやっぱり、時間を味方にできるまで、待つちから?(あきらめながら、あきらめないでいること?)が、あるひとにだけ、もしかしたら、いつかささやかなホッとが生まれるかもしれませんね。誰かのことを想ったり、自分にできることに恵まれることの感謝できるときの充足感。

 

すべての時間を、「やさしい時間」だけにできないのでしょうけれど。無理は梨で。少しずつ。今、ひとつひとつの過程の続きが、いつか、かけがえのないひと、あるいは、こちらをかけがえがないとおもってくださる方のなくてはならない支えになれたら、いいですね。できることから少しずつなのかもです。慌てないで、焦らないで、先のことばかり考えないで。済んだことばかり悔いたりしないで。じぶんをせめないで。思いがけない展開があるかもしれないし、ないかもしれない。もっと、かわった、ありきたりではない、通り道があるかもしれないし。どこにあっても一緒。そうしみじみと、味わえる時間が、まだまだ(と敢えていいたいですね)きっと。しのぶという字は、ひとをおもうと書きます、と、教わったことがあります。でも、寿命が、早ければいいのに、いまでもいいのにとおもうときと、もっとずっとずっともっと近くで。。。100歳の目に映る世界を観ることができたなら、というときと。

 

だれもが、どんなかたちかのやまいは抱えているようにおもうようになりました。それを忌むのではなくて、いっしょにうまくやりくりできたらなぁと、こころのそこから今は、特に思います。(こんな風に、言葉が勝手に降ってくるときが、できてから、かれこれ12年近くになります。もともと、子どもの頃から、自分のこころの言葉と話している時間が多かった。正直、廻りの大人達に聞かれても、自分の将来像が全くイメージ出来なかった。(あ、本気で甲子園のマウンドに立って投げることができたらそれでもういいなんて、熱く想ってた頃は確かにありました。)(プロになれたら、試合もいいけど、ものごころついたころから尊敬してたあの方と、(伝記をいつも読んでました)、俳優であるその方とが親友だと、俳優の方がやまいに遭ったとき、いつかプロアマで3バッグで18ホールをご一緒できたら、もし、ほとんど話すことができなくても、それでも同じ空間にいられたなら、人生の目標の一番ですと、心底思って、挑戦する方を選んだんです。

 

見えない努力をたくさん積まれた方から、にじみ出る者、寡黙でも、訥々でも、そのことばを耳にできるだけでも、どんなに甲斐があるでしょうと思います。いろいろなところで、かっこよさについて、ことばよりも、ひょっとしたら、背中で、歩いてきた道のりで、いろんなことを伝えて、いえ、、自然に伝わるものが、あるのでしょうね。あえて、手が動くに任せて書いてみました。怖さよりも期待できる時間の方が、ほんの少しだけ長くいられたら....。それをこころから願っています。いまあるところでも、いつか、おもいもかけない機会があるやも、そのどちらも、まったく今は想像できないですが。ほんのひとことに、そのことばのなかにあるやさしさに、癒やされるのがこころですよねぇ。やさしさについても。これだけを深めていったら、いったい何行になるのでしょうとおもうくらい、易しくないやさしさって、ほんとうに深い、想いや、かなしみのなかに初めてほんの少し顔をだしてくれるものなのでしょうか。長さではないんです。甲斐があったと思える時間を、思い起こすことも、こころをほんの少しだけやさしくしてくれることなのかもしれないです。

 

生きるとは、つらいこと、しんどいこと、そんなことのほうが大半ですよね。生きるってなんでしょね。いつも、そんなことを、考えているときは、ほんの少し、そのことばに、慰められたり、時間を忘れることができたりしているようにもおもいます。ごめんなさい。気になったところだけを、それぞれに都合良く解釈してください。やさしいのは、おとこのひとの役目で、やさしいおんなのひとは、ひといちばい、不器用で、なにをするにも、何倍も悩んだり、出来るまでに何倍も時間がかかってしまうものなのでしょうか。ありのままの自分を受け入れる、そしたら、なにかに気付いて、わずかでも納得のできるなにかができるのかもしれませんね。流れに身を任せるには、

ほんとうのあっけらかんか、そうでなかったら、やっぱり、ひたすらに、おもい、かんがえ、つづけていく中に、きっと何か、甲斐のあることが、出来たらと、いまはまだ、絵空事のままですが。。。。ほんと、どうして、こうも不器用と言いますか、自分で自分がどうしたいのかに気付くまでにも、気の遠くなるくらいの時間がかかっています。ひとのささやかなやさしさにふれたとき、これにまさるうれしさや、よろこびはないのかもしれないですね。小説と言えるようなものを、ちゃんと書いてから、お便りしたいとおもっているうちに、どんどん日ばかりが過ぎています。

 

そんな風に決めないで、いまの苦悩や、じれんまを(ううう、やっぱり泣き言は書きたくないのですねぇ)。こんなにたくさん、とりとめもなくかいておきながらなんですけれど。おもいいつづけていると、あるとき、ほんとうに実現できてしまうこともあるとききます。かみさまのいうとおりで、自然にわいてくる、おもいに素直になれたら。まつことも、いいことって、いつか言えるようになれたら。。。やさしいひとのそばにいるとよりやさしい時間がもてるような気がします。がんばらないで、ふんばる。あきらめても、こころの片隅で想っていたば、忘れた頃にやってきてくれないかなぁ。そうおもってるうちは、忘れてないわけで、そうするとやってこれないので。。。あらあら。出会えただけでも奇跡なのに。それでも、すこしでも、長くって願ってしまいます。元気でって。この、年に数度訪れる、ことばの嵐病が、おさまって、もっとこころの真ん中の言葉だけで、素直に綴れるようになったら、お手紙書きますね。(ティショットもいいけど、キャッチボールっていいですね)。

 

短歌。俳句。詩。ことばが短いほど、おとこのひとのこころには響くのですよねm--m。

この前、大晦日に書いた自分の文章を読んでいました。

正直、そのときと、大きく変わってはいないかもしれません。

ただ、去年の今ごろの苦しさ、大変さを思うと、ずっといいはずなのです。

 

自由はちっとも自由じゃないと感じてきました。特に、この3年。

家族がいなくなったことや、自分の好きなことをすればいいと言われればいわれるほど

苦悩が深まって。心の中は後ろ向き。無い物ねだり。

 

時間があるということ、まだあるということの、ありがたさなのに、贅沢すぎるくらいに

何もしないでいます。いえ、年齢などからくる体の変調の時期とも重なってか、苦悩している

のが日課のようになっていました。いえ、いまもまだ....。それでも、かすかに一番暗いところ

ではない気がします。

 

ずっと、だれかに救ってもらいたいと願ってきました。言葉にも出さずに。ただ、こころで

思うだけで。その一方で、「まだ若いのだから」という言葉に苦しみばかりを感じることも

しばしばでした。

 

なにひとつの励ましができなくても、ひとめ時間のあるあいだに会うことができたらと

願っていながら、出て行くことができない、ちゃんとした手紙さえ書けない自分がものすごく

くるしいです。この呪縛に感じる家の外に出たら、いくらも元気を取り戻せるのが分かっているのに....です。

 

だれしも、それぞれに苦悩や、かなしみを抱えているのだと感じます。

百年の仏壇のある家にいるだけが、本当に守ることになるのかと自分でも思います。

悩みは、感じ方もひとそえぞれのはずで、完全に共感は難しくても、なにげないひとことに

救われることもたくさんあります。

 

時が解決してくれるともいいますが......。ただ、祈っているだけではいけないでしょうか

こころのどこかでは、長い目で、なんとかずっと先でも、書くことを、もっとちゃんとした形に

できたらと、いったい何年同じ事を思ってるだけなのだろうとなっています。

 

がんばってるひとに、「がんばって」と、言ってはいけないと聞いたことがあります。

 

ほんの少しでも今より、希望を持てたら、できることを増やせたらと。

どこにいても、上手に(集団に)馴染むことができないのが劣等感です。

ひとによって「いい」とおもうことが全く違うのも、その通りの気がします。

一歩でいいから、形あるものを書いてみたい。いつか。そこで止まってしまったまま

もうすぐ3年です。

 

いま、助けて貰っている環境には本当に感謝しています。それだけは。

 

ただ。それとは別の意味で、ずっともがいて何もできない自分がいます。一歩がでない。

きりぎりすはさいごまで、それを貫くしかないのでしょうか。

誰かと話したいです。生きるとか、深いところのなにかを少しでも共感できる誰かと。

 

書いて、一歩でいいから、生き生き出来る時間がもてるようになりたいが、心の中のことば

のように思います。「書くということは、自分のために(している)ことではないように思います」の

ことばがとても印象に残っています。ただ、あのひとに伝えたいという一心で書いているとき

その、ことばにはものずごく希望や気持ちがこもるのも確かですね。

 

その意味でも、無力感ばかりの時間に押しつぶされてるのがほとんどの3年間でした。

 

相手が中心のたぬきさんにとって、「自分のしたいことをしろ」は、苦しい言葉のひとつです。

相手がよろこぶことをしたいと思っているのですから。

 

できること、したいこと、まもりたいもの、しなくちゃいけないこと、が、あるのはほんとうに

ほんとうにありがたいのだと、そんな気がします。

まだ、うまく書けません。これが普通なのかもしれませんが...。

 

生きてるってことを、ほんとうに考える時間が増えました。

それでも、うまく動けない自分との苦悩の中です。

 

「食べて、働いて、寝る」でしたよね。

ひとには、それぞれ、どこかにきっと居場所とおもえる時間か場所があったなら....

漱石さんは四年後にはもういなかったのですよね 山際さんはあと一年。

あんなにたくさんをそれまでに書いてこられてるなんて

 

きょうは、ほんとうに空回りのことばばかりをしぼりだしています。

もどかしくて、どうにもできない時の中です。

 

 

ひとは、言われたいことばを望んでいます そのときそのときで…
いまは、静かに、休みの日はひたすら眠っていたいと思っていることが多いです…
先のことや、いまできないことをできない自分をセメナイ考えないのができていますが、無になれるから眠りの時間が貴重でたくさんもとめてしまうのかもしれないと思います…

もともとたくさん寝てたくさん寝言を言って、なんとか健康をもらえてきた時間が多かったように思えます…


このままいったら…いつはかは…などと考え始めた途端…こころは耐えらるなくなって、くるしいばかりの時間はたくさんありました

こころからでたことばと、とりあえずその場を無難に…と考えて配置の調整されたものは…伝わりかたがやっぱり全く違うのかもと思います…

もとより、ことばというものの捉え方、受け入れ方も環境や、人柄で全く違うし、声は聞こえてもことばはひとつも話してないと感じることも…あるやも…


ことばの通じないひと、通じるひと…


あのときしんどけば良かったというのと、生きてて良かったというのが、交互にくるね…

そのひとことはとてもしみこんできました

苦悩は永遠に続くのでしょうね…

ただ、なんでもいい、待っていられる、ただ見守るだかでもそうでなくても、なにか支えになるような…希望が…あるいは希望の一端でも、いつか持てたらもしかしたら、生きてて良かったというときもあるのかもしれないですね…


ひたすら、なにかを考え続ける性分に生まれてしまったものは…この考え続ける性分からは逃れられないし、あとは、ひたすらいまと、うまくやるしか…ないのでしょうね…


残り時間の少ないひとがうらやましいと言ったら、とても叱られそうですが…百年くらい前、相当ちからをもった先祖がいたということは…きっとひとに喜ばれることばかりをしてきたというのでもないでしょう…ね


生きてる意味など考えても仕方ありませんが、そんなことをひたすら考えてしまうひともいるということです…

がんばりたくないときは、がんばらなくていい…というのは…とてもこころを救うことばですね


冬になるたびおなじことを繰返していますが…こころのなかでは、ひょっとしたらそれを望んでそうしているようにも思えます…


苦悩をたくさん経てきたひと、それでも楽しく繕ったのではない、つらい話でも聴くゆとりのある方はどこかにいるのでしょうかね…

どこにいても居場所はないと、感じてしまい…、ひとと同じようにはどうしてもできないことを、自分で責めてはいけない…と少しわかってから…少し楽になれたようには思います


なにをしたいのか~わからない…自由というのは全く自由ではない…というのは、なかなか堪えるものですねぇ…いまは無理して元気になどなりたくないよ~というのが正直な気持ちに思えます…


でもこころのどこかでは~なにかを望んでもいるのでしょうか…
それもやっぱり…苦悩をいっぱいしてきたひとのおもうなにか…


目に見えるものではないなにか…ただのことばあそびだとまた叱られてしまいそうですが…


書いてるときだけ…苦悩から少しだけ逃れられている気がします…
富士額は家を興す、再興するという言い伝えがあるようですが…とうやら皆には当てはまらないみたいです…

もう少し眠ります…おやすみなさい

こうして書いていると、とてもこころが落ち着くのを感じます。この前書いたのがもう半年以上も前だとしって驚きました。そのあともまだ2ヶ月と少しつらい日々が続いていました。いろいろなところに快方のきっかけを求めていってもどれも....なこたえしかもらえず、眠れず、もう普通に眠れるのには戻れないかもとまであきらめかけていました。ひとそれぞれと聞きましたが、ほんとに、きっと症状もひとそれぞれなのでしょうね。7月に入って、ふとしたことがきっかけで救われました。あの日の曜日がもし違っていたら。。。救われるのももっともっと後だったかもしれません。普通に眠れるということのありがたさをほんとに心底改めて感謝しました。

 

同時に、元気と落ち込みの繰り返しからも快方されているようです。ただ、いつかのような、ことばが降ってくる状態というのがやってくる気配もいまのところありません。健康のありがたさ、そしてその意味を改めてしみじみおもっています。ずっと書きたい書きたいといいながら、作品というものに近づくことができないまま、時間が流れています。いずれ時期がきてくれるのか、それとも。このままひとりのほうがいいのか、それとも。こうして、8代前の方が築いたこの森と場所をずっと守っていかないといけないのか、それとも。ひとには格というものがあります。そのことばをうかがってから、ときどきその言葉を思い出します。

 

それなのに。ときどき、人生の残り時間の長さにこころがめいりそうになることもありました。

いえ、いまでもときどきあるようにおもいます。つらいおもいを抱えている人に、あなたよりつらいひとがいるのだから、がんばれ、ということばはいつ耳にしても、なにかが違うように感じます。励ますというのは、ほんとに難しいことですね。希望は、もちたいとおもってもそのときすぐに具体的な形でやってくるとは限らないわけですし。生きることの難しさをほんとうにしみじみおもいます。(いきるのがいやといっているのはありません。ねんのため)。ただ。これからさき、どうやって...というのはつねにあります。だからといって、生きるというのは、やっぱり形や理論(つまり、気持ちを切り離して)簡単に割り切れるものでもなく。自分のちからではどうすることもできないこともたくさんあって。

 

たいてい、ひとからうらやましいとおもわれがちなひとほど、ひとにはいえないくらいのつらい経験をしていたりします。生き甲斐について、なんとか時間を味方にできないかについて、なんとか役に立てる、甲斐をもてる場所を見つけることができるかについて、少しだけ、ほんの少しだけ考えらているのかもしれません。でも、いますぐ何かを、できそうにはやっぱりないですね。頼まれるとがんばれるのに、ひとりですきなことをしなさいと言われた途端、なにをがんばっていいのかわからなくなってしまうのも。持って生まれた性分なのでしょうか。ささやかでいいから、どこかでちいさく、書いて行けたら。。。どんなにいいでしょう。でも、まだ、やっぱりまだ、早すぎるのでしょうか?なんとか、この冬の間に短くてもいいから書いてみたいとおもっているのですが...。

とてもくるしくふさぎこんだような状態でした。去年の夏に4ヶ月間苦しんだ不眠の症状が再び、今月に入ったとたんに現れて、こころがたえられなくなってしまいました。思えば、この数年、いささか浪費気味になってしまう元気な期間と、こころが沈みがちな期間が交互にやってきていたのは確かです。ふだんの暮らしが変わるようなことはなかったのですが、それでも、振り返ってみると、そのやまいなのかもと自分でも思います。

 

不眠に効くという、3年前に発売されたそのお薬がからだから抜けるという、飲んでから20時間がすぎたとたん、けろりと氣分が軽くなりました。深く眠らせないというそのお薬は、きっかり2時間おきにストーリー豊かな夢をみて起きてしまいます。そしてまた眠ってはいるのですが、また夢、そして起きるの繰り返しで。5時になると、何時に寝たとしてももう寝られなくなります。まったく寝られなかったという苦しみはないものの、眠ったという充足もなく、いちにちの大半がおもく、前よりむしろふさいでいるような感じになりました。

 

いろいろな説明を読むと、このやまいは治ったとおもってもお薬はのむべしとありますね。でも。いくらかの作家の方にも同じようなことがともありました。規則正しい生活というものが、とっても苦手なわたしです。どんなお薬をのんで、どんな暮らしをしたらいいものかと、思案します。自分らしさを否定することがやまいをなおすことだとしたら、それはとても続かないですし。うまくつきあって、わたしの得意なことがなくなってしまわないような、そんなかたちをなんとか見つけられないかともおもうのですが...。

 

血圧がもともと低めで、日中にお薬のせいで血圧が通常よりも下がってしまうと、動けなくなるうえに、くよくよと否定的思考の中に入ってしまいます。日中の血圧を下げないで、眠りたいときだけ、飲んだらいいそんな都合のいいお薬はありますか?血圧がさがっていないとき、それほどひどいこころの状態になってはいないような気もしたり...。

多くの文豪の方も同じやまいでしたといわれても…ひとりでいると…きもちがくるしくなることばや想いが次々とやってきて…つらいです

わたしは病気なのだということを受け入れることが…つらくて…でもなんとか良くなりたいと思えています…

環境をかえたら、よくなるともおもえるのですが…いまは自分のちからでは、環境をかえることもかなわず…

おくすりのたすけをもらう以外に…たすけをもとめてしまいますが…ひとりの時間に考えが落ち着かなくて…どうしたらいいのかつらいばかりです


きもちを落ち着けて…穏やかに時のなかにいられたら…環境をかえられたら治るのに…との想いが…交互にわたしを苦しくしています…

こんなくるしいつれづれをどこかで書かせてもらえませんか?ささやかでも~書かせてもらえたら~なんとかいきていけそうな気がします…


いまは、きもちを落ち着かせられたら…いいのですが…おくすりだけでなく~もっとたくさんお話をしてもらえたら…と願ってしまいます…

なんとかたすかりたいよ~と思っています…たすけをもとめてしまいます…

ことばが降ってくるとき...いつもこんな風に、いったいいつまでこのおもたいおもたい雲が心を覆っているのだろうと~しびれた胸のひだが...もういきしたくないかもなどと、わずかばかりの愚痴をはきだしてしまいだしたときにに、そして、じいいいいっとみつめていまかいまかとおもってるところではいっこうにならないこーるなのに、ふとした瞬間、真昼のまどろみみたいに、ふっとふいにきがぬけて、つかのままったくかんけいのない別のことをふと考えていたらば、あんなにまっていたコール音がいとも簡単に目の前でなっている...たとえていうなら、たとえばそんなふうに、不意に訪れるんです。

 

目の前にあるのは、まったく同じ時間のはずなのに、こころなのかあたまなのか、その両方なのか、ともあれ、時のながれかたが、こころの向き方が、ころっと移行して、深い深い海底から、気が付くと、のんびり揺れてる海洋の帆先だったり、小高い丘陵の穏やかに流れる川面のそばだったり、ともあれ、視界があらわれ、こころもあらわれなのか、ともあれ、つまりは、ひとことでいうと、またいきできている、というより、いきすることがつらくなくなっている...そんな時間が、ときどきやってくるんです。ねむれないというのから、ねむれないのではなく、ねないでいるのがさほどつらくない、おきてこのままうかんでくることばや、映像のなかで、時のままにただそこにいるのが...まぁいいか、そうおもえる時間がやってきます。

 

ラウンドしてみないことには、その日のぼーるがはてどんなきどうを描いてくれるのかがだれにもわからないみたいに、こうして書いていながら、どんな風にそれがつづいていくのかまえもってはさっぱりわからない...。だから、おもしろいのですが、それがときどき、海の底にいてしまうときには、みえないことがたまらないこわさになってしまうのですね。なんでもいいから見えるところにいきたい、そうもがくけれども、もがくほどに土の中にうまっていくみたいにまるで自分で自分をくるしめてるだけじゃんとおもえる思考回路を飽きもせず繰り返しているんですね。

 

いつかそのうちのそのでもうちでもいいから、あとどれらいかがわかればどれだけいいだろうとさけびたくなったりしているんですね。わからないからいきられるんです...。そう言えるのは、こうして雲が去って、視界ができた(ように感じられる)ときになってはじめて、あれ、どうしてあんなにおちこんでいたのかしらとおもうのですね。時の流れについて、おもえばおもうほど、いくつものものがたりがきっとやまのようにあるのだろうなと、ほんとにしみじみおもいます。いつかどこかで...すこしはなれたさきのほうでも、そんな風におもったり描いたりしていることが、わずかでも形となる時間をもてたらいいですね。ほんのささやかでも...。

ところで。それはそうと、なにはともあれ、お元気ですか?