初めて、野球というものを観たのは、その星というのがつく、新しく改訂されたほうの、いつも、主人公のエースが投げてるシーンと、赤いヘルメットでめがねの大柄なバッターが右のボックスに立って、消えたり現れたりするボールを打ったり、空をきったりするシーンばかりがでてくる(おそらく、覚えているのが、印象に残っているのがそのシーンばかりだったせいでせうね)、そのアニメ番組でした。だから、そのあと、しばらく、野球というのは、守備するチームと,打つチームが交代しないきょうぎだとおもっていた....と、ここで、いつか書きましたね。ほんとうにそうおもっていたようにおもいます。そして、最初ではなく、2冊目に、初めてわたしが自分からほしいと言ったのだったか、それとも、ほかのなにより、キャッチボールにばかり、興味をしめすから、(おそらく)父が買ってきてくれたのでせうとおもうのが、その方の伝記だったのでした。
ハードカバーの、裏表紙には、引退されたときの会見の様子を写す写真と、現役の間の記録を一覧と、そしてもちろん記事とが切り抜きされた者が、丁寧に日付をスタンプして貼られてあります。(間違いなく、父がしてくれたはずのものです)。ということは、その本は、おそらく、まだ、現役だった頃に、子ども向け伝記シリーズの中に既に加わっていたということになりますね。いつか、その本にサインしていただくというのが、いまでも夢のひとつです。いったい、何度呼んだことでせう。(ちなみに、父は、緑色の帽子の、リーグの違うチームが好きだと言っていました)。生まれつきの左利きだったことも、おそらく父が選んだ理由のひとつだったのでせうか?もし、その本は、わたしからねだった者でないとしたら、私のきおくの中で、初めて、はっきりとほしいといったのは、もちろん、グローブでした。
父は、それを買いに行く前、大きな街の、最寄り駅からのローカル線だと必ず終点になる、その駅から歩いても、5分ほどのところにある、染め物工房に嫁いだ次姉のところに立ち寄ってから、大きな百貨店まで行ったようです。小学校あがったかあがらないかの、しかも、左利き用のが売っていたのは、たくさん探して、その百貨店だけだったというのを、報告するのに、買い物後に立ち寄ったと言ったのだったか、いま思うと、少しあやふやになってきましたが。ともあれ。学校(か保育園)からもどると、父の机の上に、白地に、(当時は濃いのと薄いのの二食の)青でデザインされた、そのメーカーの紙袋がちょこんと置いてありました。その横で新聞かなにかを読んでいる父の背中。わたしが、ほしがったのが、お人形さんではなく、これなんだというのを、しきりに、姉の家でしてきたんだと、晩酌が入って初めて、口がなめらかになった父が話していたのを覚えているのでせうか。
高学年になったら、もう小さすぎるくらいの、これ以上小さいのは作ってないのでないでせうかと想えるような、そんな大きさの右手にはめる、ネット式のでした。それでも、家でするときは、かたいボールは決して使わせてもらえず、いつも、けがしない柔らかさのカラーボールだったように想います。肩があたたまって(なんて5歳や6歳の子がおもうかどうかわかりませんが)、さあ、これからというころになると、はいおしまい、もう肩が痛い、決まって父が言うのでした。そりゃ、大正生まれで、戦争にも行って、当時で、還暦をすぎていたのですから、仕方のないことというのは、いまなら分かります。子供心に、口にはだせなかったものの、やっぱりちょっぴりざんねんでした。家に居るとき、外に出られないとき、その伝記がいつもそばにありました。なんどもなんども読んだと思います。
ひろこさんという双子でうまれたということ、50番という中華屋さんだったということ、立派はお兄さんがいたということ、お父様は、祖国でとても苦労され、どうしても、電気技師になってほしいと願われていたということ。それでも、列から取り残されたご自分に、丁寧にサインをしてくれた選手が、とても印象に残って、とにかくとても嬉しかったということ。それで、学校をでたあとにそのチームに入れたことがとても嬉しかったあということ。2年生の時、豆がつぶれて、血の付いたボールを投げて、仲間の捕手を心配させたということ、選抜では勝てた?のに、夏には決勝でやぶれたということ?(少し、記憶があいまいで少しあやまっているかもしれません)。88年待ちました。ということは、夏には勝ってはいないということですよね。もちろん、その本はいまも、ガラスのドアがついてる方の、書棚にあります。
いま、あたりまえのように、女の子でも男のと同じユニフォームを着て、走ったり投げたり捕ったりする姿が、あるのがほんとうに夢のような時代でした。わずかついこの前のようにも思える小学校時代のことでさえです。やきゅうにかんする本を、自分で、レジにもっていくのさえ、叱られることをしているのような、わるくないのに、それでもとがめられることをしているとおもわれると(そうおもっている)感じてもいました。学校の、休み時間の、軟式のテニスボールと、カラーバットや、素手を丸めて打ち返すだけの、そのゲームのときだけしか、思い切りできなかった時代でした。とにかく、ボールがたくさんとんでくるところを守りたかった。学年が進むにつれて、左利きは、外野かファーストしかダメなんだと、地元の野球チームに堂々と入れる男の子たちが言いました。だから、いつも、ファーストは、同じ学年の左利きの男の子と取り合いでした。チャイムが鳴ったら、どっちがさきに、そこまでダッシュするかで決まるんです。
当時はやったアニメのせいで、いっとき、みんながサッカーばかりに夢中になって、野球をなかなかしてくれない時期もありました。そのときも、なぜか、キーパーの席を、やっぱりダッシュで、その左利きの子と取り合っていたのは、なぜだったのでせうね。やっぱり、ボールは手で捕りたかったのでせうか。もちろん、キーパー以外のときも、ありましたよ。野球の時でもそうでしたが、少しでもミスすると、負けた原因は、全部わたしのせいになるんです。学年があがるにつれ、ファインプレーは当たり前、どんなに乱暴に投げられたボールでも、アスファルトに手の甲をこすりつけて、すりむいても、ショートバウンドを捕って当たり前。後ろにこぼすものなら、あとで何を言われるやらです。打つ方は、たいしたことありませんでした。わざと。左や右のファールゾーンにバントのようなボールを打ってから、守備陣を動かして、その間を狙って打つのがやっとのことでした。人数が足りないときは、サード、ショート方面以外に打ったらアウト。という特別ルールのときもありました。もともと、流し打ちしかできないのでしたから、むしろ、好都合だったのは、内緒にしていましたが、勘のいい子にはばれていたかもしれません。
一塁線を抜いた、二塁打が一度だけあったのを覚えているのは、あれは、素手ではなく、バットを使ったときだったでせうか。7時半までに学校に着けるように行くと、まだ、あさのゲームが始まっておらず、おい、入るかと言ってもらえて、一緒にゲームに参加させてもらえるのは、5年生の時でした。一学年上の男の子たちとのゲームです。クラスに40人以上。教室は机でいっぱい、の当時には、ましてや、上の学年の中に女の子が入るなんて。考えられない頃でしたから。(中学に行ったら、ぜったい、ひとつ上の女の子たちになにか、こわいおもいをさせられるに違いないと、ずううとおもって、心臓を縮めていたのを覚えています)。それでも。レフトを守らせてもらえるのが嬉しくて。サードはもちろん、ゲームを仕切っているリーダーのひとでしたから。そのひとの頭上を越える打球が来て、振り返ったときに、私がちゃんと、捕っている。そのシーンは、そのときの、おーーーの、声と一緒にいまもずっと心に残るシーンです。
ただ。です。横や前への打球は打った瞬間にどの辺に落ちてくるか飛んでくるかはわかるから、自然とからだが動くんです。明らかに、頭上を越えていくだろうボールのおいかただけは、当時(おそらくいまも)どーーしてもうまくいかなかったんです。斜めに背中に目を付けて走るというのが苦手で仕方なかったんです。しかも、素手ですからなおさら。いちどだけあったんです。当てずっぽうで走って、ほんとに当てずっぽうで、右か左かは忘れましたが、てきとーに、手を広げて腕を伸ばして、ダイヤモンドに背を向けたまま、出してみたらば、その手の中に、ちょこんとボールが乗った?(つかめた?)んです。そのとき打ったひとはなぜか覚えていますが、(同級生のお兄ちゃんでした)、背中から、なんの、声も聞こえてこなかった。当時、限られた時間で、ゲームをするために、1アウト交代が当たり前だったので、しずかーに、攻守が替わったのだけ、「あれ、なんで、誰も、なにも言ってくれないの?」と、心の中で思ったのだけ覚えているんです。おそらく、みんなも、まぐれにちがいないって、ことばを失っていたのかもしれませんね。そう、まぐれでした。
高校に入って、中学の3年間みたいに、勉強が愉しい、というより、するのが当たり前、計画立てて、その通りにできたときの達成感というより、自己満足かもしれませんが、ともあれ。やったらやっただけ、どんどん記憶に新しい情報が入っていく。そして、テストに書いたら、いい点が。きっかけは、「とれるもんならとってみぃ」の、売り言葉に買い言葉の口けんかの相手のひとことでしたが、まさか、ほんとうに、とれるとまでは、ほんとにほんと(っていう番組昔ありましたよね。金曜日の7時半くらいから)でした。そうそう、高校に入って、まったく、そのペースでできなくなった。せっかく、中学の時の、野球の代わりに仕方なく入った(といったら失礼ですが)北部地区シングル1位だったおかげで、いくつかの誘いをことわって(しまって)、早起きしなくてもいい、(結果的に、旧制、新制、の違いこそあれど、)父と同じ学校へ行ったのでした。毎日のように小テスト。のんびり自分のペースで。できないと、どうにもうまくこなせない私には、どうにもこうにも、適応できないストレスがたまるばかりの時間にしてしまいました。(そこで、心に浮かんだのが、よし、もうひとつ、上の学校に行ったら、なにがなんでも、野球部に入る!)そのために、勉強をあきらめないぞ。それが、支えだったような気がします。
それでもできたのは、あきらめない、ということだけで、日々の勉強は、手を抜くのも下手で、要領よく点をとるのも下手で、友達達との、なにやら、ついていけない、論議に参加するのも下手で。。。3拍子以上そろっていたように思います。せっかくの定期を、雨(と雪)の日だけ用にして、電車の時間より遅く起きても間に合う!自転車をかっとばして!?ローカル線3駅分を、汗いっぱいかきながら、小4の剣道通い用に買って貰った、みんなより2インチも小さいタイヤの、でも、一応ギア3つ付きの愛車をこいでこいで、学校まで行っていました。風が気持ちいいのは確か。秋などは、暮れも早くて、目の前に、どんなお盆よりももっとずううとおおきな、うさぎさんのまん丸な黄色の円が、ずっと一緒についてくる。。。そんな山の端、ならぬ、やまうえの空もとても、うつくしい光景でした。数学はまだ、得意に方にできましたが、理科だけは、歳を重ねるにつれ、どんどんわからなくなっていきました。「学問の創造」、(「夢十夜」のように、まるで木の中に初めからいたかのように美しい仏さんが現れる。。。そんな美しい式に出会えたときの感動はほかではとても表せないと。。。)の、福井さん、そして、当時、夢中で観ていた、海外のドラマがありました。その化学知識を駆使して、どんなピンチも、切り抜けてしまう。。。「冒険やろうMagなんとか。。。」。いつでも、わたしのチョイスは、こころを動かすなにかがあるかないか。ただ、それだけでした。きっといまでもかわらないのやもなのです。。。
福井氏のおくさまの書かれた「ひたすら」には、その、机に向かわれる背中の、あまりにきれいな式にたどり解けたときの感動の様子が、書かれていたのが、とても印象に残っています。と言う風に。。。書き出したらいつまででも、書いている。(のです)。元に戻りますが、ゴルフは右だときいたことがあります。16番をつけていらしたあの方は、左打ちの方のための協会長をされていたとか。というのも聞いたきおくがのこっています。先日の懐かしの方々との一戦も、ほんのワンシーンでしたが、拝見しました。残り時間だなんて、ことばはそれでも使いたくないのですが、特にゴルフは、時間を多く重ねて来られた方々と、少しでも多く、せっかくの希有の機会がまんいちあるなら、そうしたい。。。というのが、かわらぬわたしのささやかな願いなんです。もちろん、じゅみょうというは、だれにもびょうどうにあって、長さのちがいは、ひとそれぞれ、というのはあたまではわかっているのですけれども。こころのなかでは、わかりたくない、すこしでもささやかでも、うれしいとおもえる時間のありますように。。。と、そう願わずにはいられない。。。。そんな春のやっと知恵熱の下がったわたしのひとりごとではあるのですけれど。。神さまのボートのストーリーのように、小さくてもいいから感動のある時間が訪れますように。。。と。お薬との闘いにもどうか、無理も頑張りすぎもしないでいられますようにと。。。