ことばが降ってくるとき...いつもこんな風に、いったいいつまでこのおもたいおもたい雲が心を覆っているのだろうと~しびれた胸のひだが...もういきしたくないかもなどと、わずかばかりの愚痴をはきだしてしまいだしたときにに、そして、じいいいいっとみつめていまかいまかとおもってるところではいっこうにならないこーるなのに、ふとした瞬間、真昼のまどろみみたいに、ふっとふいにきがぬけて、つかのままったくかんけいのない別のことをふと考えていたらば、あんなにまっていたコール音がいとも簡単に目の前でなっている...たとえていうなら、たとえばそんなふうに、不意に訪れるんです。
目の前にあるのは、まったく同じ時間のはずなのに、こころなのかあたまなのか、その両方なのか、ともあれ、時のながれかたが、こころの向き方が、ころっと移行して、深い深い海底から、気が付くと、のんびり揺れてる海洋の帆先だったり、小高い丘陵の穏やかに流れる川面のそばだったり、ともあれ、視界があらわれ、こころもあらわれなのか、ともあれ、つまりは、ひとことでいうと、またいきできている、というより、いきすることがつらくなくなっている...そんな時間が、ときどきやってくるんです。ねむれないというのから、ねむれないのではなく、ねないでいるのがさほどつらくない、おきてこのままうかんでくることばや、映像のなかで、時のままにただそこにいるのが...まぁいいか、そうおもえる時間がやってきます。
ラウンドしてみないことには、その日のぼーるがはてどんなきどうを描いてくれるのかがだれにもわからないみたいに、こうして書いていながら、どんな風にそれがつづいていくのかまえもってはさっぱりわからない...。だから、おもしろいのですが、それがときどき、海の底にいてしまうときには、みえないことがたまらないこわさになってしまうのですね。なんでもいいから見えるところにいきたい、そうもがくけれども、もがくほどに土の中にうまっていくみたいにまるで自分で自分をくるしめてるだけじゃんとおもえる思考回路を飽きもせず繰り返しているんですね。
いつかそのうちのそのでもうちでもいいから、あとどれらいかがわかればどれだけいいだろうとさけびたくなったりしているんですね。わからないからいきられるんです...。そう言えるのは、こうして雲が去って、視界ができた(ように感じられる)ときになってはじめて、あれ、どうしてあんなにおちこんでいたのかしらとおもうのですね。時の流れについて、おもえばおもうほど、いくつものものがたりがきっとやまのようにあるのだろうなと、ほんとにしみじみおもいます。いつかどこかで...すこしはなれたさきのほうでも、そんな風におもったり描いたりしていることが、わずかでも形となる時間をもてたらいいですね。ほんのささやかでも...。
ところで。それはそうと、なにはともあれ、お元気ですか?