いつか、黒川伊保子さんが、おんなのひとの脳は、物語を紡ぐようになっていると書かれていました。そうなんです。なんでもいいから、言葉を綴っていたいのです。なんでもいいからというのは、語弊ですね。もちろん、内輪で、なんでもいいから「音」が場を慰めるだけのときもあるやもしれませんが。どちらかというと、意味や、結論より、「話しながら、頭の中が働いて、自分の発した言葉が、次の瞬間、思いも寄らなかった、アイデアや、メッセージが自然に口をついて、あるいは、書くとそれが、スムーズにできるように思っているわたし(のような方もいるかもしれません)。

 

これは、憶測ですが、「何をごちゃごちゃ、結論は何?」「質問文?それとも、独り言?」。いつもとは限らないかもしれませんが、男の人のイライラも、正直わかると思うときもあります。ほんとうです。同時進行で、いろんなことが器用にできたり、色や芝目の僅かな違いがきれいに見えるのは、脳幹が太いおんなのひとだから。。。と言われているのを聞いたような気もします。ともあれ。手が勝手に動いて、「くちからでてくることばの全部」は、確かに、おとこのjひととおんなのひとでは、そもそも、「それぞれが、受け取っている内容」が、違うことが多いのかもしれません。でも、互いに、だから、自分にはない安心感を相手のひとことに、救われたり、はっと気付かされたり、癒やされたり、するのかもしれません。

 

沈黙がこわくて、ひたすら話し続けたい人もいれば、ひとの話しを聞く用意はなくて、自分の言いたことを言うのが本望のひともいるのかもしれません。とはいえ。ことばが通じたときや、いつかもしかしたら、が、ほんとうになったとき、の、その、しみじみにはきっと、不思議は見えないちからを思うときもあるのやもしれません。これは、あくまでわたしの感覚ですが、本当に、素直になれるのは、おんなのひとならおとこのひと、素直に意見に従えるのも、存在に支えられるのも、互いにそんなところがあるのだと思います。それぞれに。ただ。ひとには、無駄もとっても必要で(無駄の定義次第と言われてしまいそうですね)。異性より、同性と、「ほんとうのところは、はなし半分だったり、話しやすさだったり、つまり、相性がよいと、同性に応援してもらえると感じるときが、もしあったら、それは、それも同じくらい嬉しいことなのでしょう。友として。

 

ただ。やっぱり、おんなのひとの井戸端会議は、殿方紳士の、哀愁と含羞に満ちながらも、そこがどうしてもかっこいいとおもってしまう一服の煙であったり、あるいは、音楽や唄で気持ちを伝えたいと口ずさんでいるときであったり、沈黙の中で、行間のなかで必死にいろんなあったかいきもちをつたえたいとしているときが、それに替わるというより、いえ、やっぱり、尊敬の念でしょうか。井戸端は、居酒屋の酔っ払い?(呑めないので)に近いの?いつだったか、耳にしました。もっとも優秀なおとこのひとは、あっとうてきに、おんなのひとより上であるけれども、その逆もまた然りであると。つまり、機能的(フラットすぎる表現ですみません)、生物学的にも、おんなのひとほうが、その幅はせまい、ということのようです。

 

それでも。確かにほんとうに、それその通りと思います。ほんとうの男の人と、どっちでもないひと(軽々しく言ったらいけませんね。すみません)と。素晴らしいひと、かっこいいなぁとためいきたくなるひとは、たいてい、いっています、おとこは、どうしたって、おんなのほうが偉いんだって。そう言える、というところに、あらゆることを、ひっくるんで、一言ではとても言えない、かっこよさ、すばらしさ、惹かれても仕方ないところがあるのでしょうかと、ふと、思います。

 

と、いう風に、互いに思い合っていることが、沈黙していても、包まれている空気だけで伝わってくるような方々は、いいなぁ、うらやましいなぁと。なんねんもなんねんも、言うに言えないいくつもの、たくさんを重ねて始めて可能なのでしょうか。それとも、やっぱりひとには、異なものといわれる、縁というものがあって、それがひとそれぞれ、いつに訪れるかは、そのときまで分からず、時間を味方にできてはじめて、気がつくと、そうなっている、ようなものなのでしょうか。ひとの数だけ、スタイルや形があるのでしょうね。芯のあるひと、気持ちを貫けるひと、信じ続けることのできるひと、は、きっと、見えないところで、人一倍の苦労や、苦悩や、もうことばをどれだけ重ねても説明しきれないくらいの、寂しさや、かなしさをかかえて、でも噛み締めて居られるひとのことなのでしょかね。

 

こころからすき、ということ。それが一番大きな味方で、考えたり思ったりしてもできることではなjくて、ひとぞれぞれの、流れや、縁や、運や、いろいろに流されながらも、それでも、信じながら、あきらめないでいながら、それでも、ずっと想っているってことでしょうか。それぞれには、できることしかできないのに。あたりまえのことのようだけど、できないことを必死で心に蓋をして、できないこと、あるいは、したくないことを、やらなくてはと、なっているとき。きっと、ひとのこころはフリーズしてしまうのでしょうか。一度停止した機関車を動かすにはやっぱり、時間を味方にできるまで、待つちから?(あきらめながら、あきらめないでいること?)が、あるひとにだけ、もしかしたら、いつかささやかなホッとが生まれるかもしれませんね。誰かのことを想ったり、自分にできることに恵まれることの感謝できるときの充足感。

 

すべての時間を、「やさしい時間」だけにできないのでしょうけれど。無理は梨で。少しずつ。今、ひとつひとつの過程の続きが、いつか、かけがえのないひと、あるいは、こちらをかけがえがないとおもってくださる方のなくてはならない支えになれたら、いいですね。できることから少しずつなのかもです。慌てないで、焦らないで、先のことばかり考えないで。済んだことばかり悔いたりしないで。じぶんをせめないで。思いがけない展開があるかもしれないし、ないかもしれない。もっと、かわった、ありきたりではない、通り道があるかもしれないし。どこにあっても一緒。そうしみじみと、味わえる時間が、まだまだ(と敢えていいたいですね)きっと。しのぶという字は、ひとをおもうと書きます、と、教わったことがあります。でも、寿命が、早ければいいのに、いまでもいいのにとおもうときと、もっとずっとずっともっと近くで。。。100歳の目に映る世界を観ることができたなら、というときと。

 

だれもが、どんなかたちかのやまいは抱えているようにおもうようになりました。それを忌むのではなくて、いっしょにうまくやりくりできたらなぁと、こころのそこから今は、特に思います。(こんな風に、言葉が勝手に降ってくるときが、できてから、かれこれ12年近くになります。もともと、子どもの頃から、自分のこころの言葉と話している時間が多かった。正直、廻りの大人達に聞かれても、自分の将来像が全くイメージ出来なかった。(あ、本気で甲子園のマウンドに立って投げることができたらそれでもういいなんて、熱く想ってた頃は確かにありました。)(プロになれたら、試合もいいけど、ものごころついたころから尊敬してたあの方と、(伝記をいつも読んでました)、俳優であるその方とが親友だと、俳優の方がやまいに遭ったとき、いつかプロアマで3バッグで18ホールをご一緒できたら、もし、ほとんど話すことができなくても、それでも同じ空間にいられたなら、人生の目標の一番ですと、心底思って、挑戦する方を選んだんです。

 

見えない努力をたくさん積まれた方から、にじみ出る者、寡黙でも、訥々でも、そのことばを耳にできるだけでも、どんなに甲斐があるでしょうと思います。いろいろなところで、かっこよさについて、ことばよりも、ひょっとしたら、背中で、歩いてきた道のりで、いろんなことを伝えて、いえ、、自然に伝わるものが、あるのでしょうね。あえて、手が動くに任せて書いてみました。怖さよりも期待できる時間の方が、ほんの少しだけ長くいられたら....。それをこころから願っています。いまあるところでも、いつか、おもいもかけない機会があるやも、そのどちらも、まったく今は想像できないですが。ほんのひとことに、そのことばのなかにあるやさしさに、癒やされるのがこころですよねぇ。やさしさについても。これだけを深めていったら、いったい何行になるのでしょうとおもうくらい、易しくないやさしさって、ほんとうに深い、想いや、かなしみのなかに初めてほんの少し顔をだしてくれるものなのでしょうか。長さではないんです。甲斐があったと思える時間を、思い起こすことも、こころをほんの少しだけやさしくしてくれることなのかもしれないです。

 

生きるとは、つらいこと、しんどいこと、そんなことのほうが大半ですよね。生きるってなんでしょね。いつも、そんなことを、考えているときは、ほんの少し、そのことばに、慰められたり、時間を忘れることができたりしているようにもおもいます。ごめんなさい。気になったところだけを、それぞれに都合良く解釈してください。やさしいのは、おとこのひとの役目で、やさしいおんなのひとは、ひといちばい、不器用で、なにをするにも、何倍も悩んだり、出来るまでに何倍も時間がかかってしまうものなのでしょうか。ありのままの自分を受け入れる、そしたら、なにかに気付いて、わずかでも納得のできるなにかができるのかもしれませんね。流れに身を任せるには、

ほんとうのあっけらかんか、そうでなかったら、やっぱり、ひたすらに、おもい、かんがえ、つづけていく中に、きっと何か、甲斐のあることが、出来たらと、いまはまだ、絵空事のままですが。。。。ほんと、どうして、こうも不器用と言いますか、自分で自分がどうしたいのかに気付くまでにも、気の遠くなるくらいの時間がかかっています。ひとのささやかなやさしさにふれたとき、これにまさるうれしさや、よろこびはないのかもしれないですね。小説と言えるようなものを、ちゃんと書いてから、お便りしたいとおもっているうちに、どんどん日ばかりが過ぎています。

 

そんな風に決めないで、いまの苦悩や、じれんまを(ううう、やっぱり泣き言は書きたくないのですねぇ)。こんなにたくさん、とりとめもなくかいておきながらなんですけれど。おもいいつづけていると、あるとき、ほんとうに実現できてしまうこともあるとききます。かみさまのいうとおりで、自然にわいてくる、おもいに素直になれたら。まつことも、いいことって、いつか言えるようになれたら。。。やさしいひとのそばにいるとよりやさしい時間がもてるような気がします。がんばらないで、ふんばる。あきらめても、こころの片隅で想っていたば、忘れた頃にやってきてくれないかなぁ。そうおもってるうちは、忘れてないわけで、そうするとやってこれないので。。。あらあら。出会えただけでも奇跡なのに。それでも、すこしでも、長くって願ってしまいます。元気でって。この、年に数度訪れる、ことばの嵐病が、おさまって、もっとこころの真ん中の言葉だけで、素直に綴れるようになったら、お手紙書きますね。(ティショットもいいけど、キャッチボールっていいですね)。

 

短歌。俳句。詩。ことばが短いほど、おとこのひとのこころには響くのですよねm--m。