東日本大震災遺児作文 | ロンドンつれづれ

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気が向いた時に、面白いことがあったらつづっていく、なまけものブログです。
イギリス、スケートに興味のある方、お立ち寄りください。(記事中の写真の無断転載はご遠慮ください)

私のブログでたびたび東日本震災遺児、孤児のための「あしなが育英会」寄付をお願いしてきたところ、ブログのお友達の方からご連絡をいただき、あしなが育英会でつくった子どもたちの作文集を送っていただいた。彼女は、あしながさんから支援をもらって高校へ通ったお嬢さんと直接あってお話を聞き、またあしながの事務局の方ともお話をしたという。


あしなが育英会への寄付をお願いする、私たちのようなブログの存在も認めてくださり、ご丁寧にお礼もいっていただいたという。ここで、あらためて皆さんにもお礼をもうしあげたい。このブログに来てくださり、ここであしなが育英会のことを知って「あしながさん」になっていただいた方は、ご連絡をいただいた方だけでも大勢いらっしゃる。また私にお知らせくださらなくとも羽生選手のファンで寄付をしてくださった方が多くいらっしゃることと思っている。


あしなが育英会さんから許可をいただいたので、今回子どもたちの作文のいくつかをご紹介したい。



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すべて、元に戻ればいいのに (大学生、女子)


震災の前は、家族のありがたみと当たり前がどんなに幸せかを分かっていなかったと思う。家があって、両親がいて、おじいちゃん、おばあちゃんがいて。そんな全てのことがあって、当たり前だと思っていた。


又、震災の前は、普通の女の子と同じようなことで悩んだりして。家族旅行、お母さんが料理を作ってくれて、お父さんが車の運転を教えてくれて。当たり前が、どんなに幸せなことかまったく理解していなかった。


震災の当日は、アメリカのカリフォルニアにいて、友達からの電話で知らされた。いつもの地震程度にしか、考えていなかった。


TVを見て、やっと事の大きさに気がついた。


妹にさえ、一週間連絡が取れず、不安な一週間を過ごした。妹に、やっと連絡がついた頃には、親せきから、「えっちゃんの両親は、まだ不明」と聞かされた。


まさか、自分の親が、自分が生きているうちに、震災の被害者になるとは想像もしていなかった。


震災の後は、毎日(いまでも)泣く日々、悩む日々が続いている。


すべて、元に戻ればいいのに。


まだ、両親の死を受け入れることはできないけど、一歩一歩進んでいかなきゃいけないプレッシャーもある。


自分が心の整理と現実についていけないと実感する。


けど、私が(妹も)生きていることは、奇せきに近いことだし、両親が妹を生んでくれて、本当に感謝している。一人っ子だったら、やっていけなかったと思う。


又、周りの人たちにも感謝している。とにかく、人生は人と人とのつながりで成り立つということを震災という形ですごく理解できた。


僕は話せない (小6、男子)


僕は、3.11の東日本大震災で

大切なお父さんを亡くしました。


今回のつどいで僕は、

ほとんどのことをみんなの前で話せませんでした。


僕は話せなくてただ話を聞いていました。


話せなかったのには理由が2つあります。


1つは、


自分にとってすごく悲しいことだったからです。


もう1つは、


なぜかその時だけ涙が出てきたからです。


心のケアプログラムの時にずっと涙が出ていました。




本当に亡くなったんだね (小6、男子)


今年の3月11日に大震災でお父さんが亡くなりました。 お父さんはとても優しくて、正義感の強い人でした。 それで、お父さんの働いているところがひなん所になっていて、お父さんは逃げずにひなんしてきた人のお世話をしていたらしく、働いていたところの近くで見つかりました。


最初は絶対どこかにひなんしていると信じていましたが、ある日の夜中、お母さんの電話にお父さんが見つかったと電話がかかってきて、次の日にお母さんからぼくに亡くなったといわれました。信じていただけに余計に悲しくなってしまいました。


でもまだ信じられなくて、火そうの時にお父さんのなくなった姿を見て、本当に亡くなったんだねと思いました。火そうが終わった今でも、お父さんがなくなったことが信じられません。


地震があった時は、いつでも何も起こらなかったので、今回もなにもおこらないと思っていたのに、こんなことになってしまって、これからどうすればいいのか分かりません。



淋しいから帰ってきて (中2、女子)


大震災からもう一年がたった。そして母はなくなって一年がたった。早いんだか遅いんだかよくわからないけど、一年がたってしまった。


この一年は初めての経験をした。


母がいない生活。こんなにも淋しいなんて・・・・・。


何でも相談したりしていたのに、沢山おしゃべりもしていたのにもうできない・・・・。


急に居なくなった母。3月11日に戻って欲しいと何度も思った。戻ったら、学校を出て家に行って助けたいとか、自分も一緒にいたいとか、無理な願望があった。


淋しい時、何度も母のことを思い出してしまう。母だったらどうするのだろう。


会いたい。会って話しがしたい。一年たった今でもそう感じる。


お母さんはどこで何してるの?今も気仙沼にいるの?


淋しいから、だからお願い帰ってきて。



涙が出なかった (中2、 男子)


僕は東日本大震災で家族4名をなくしました。でも僕はその時、学校にいたので僕たちはたすかりました。 でも、震災で4名をなくなっていたことは、まったく分かりませんでした。


友達のお母にきいたら僕達の家族4人は、いったん避難したといっていました。でも家族2名は、家の中でがれきの下で2人いっしょに人をかかえる感じでなくなってしまいました。


その他の2名は、僕の友達の家の近くで亡くなっていました。その時は、家に大事なものがあったので、家で整理をしていたようです。そしたら、瓦礫の撤去をしていた人たちが言いに来て、家族2名を家の中で見つけてもらいました。


ほかの人達は、家族がまだ見つかっていない人もいたので、それよりは早く見つかってくれたので、おそくみつかるよりはよかったです。


そのあと遺体安置所にいってお母の顔をみたら顔がいたんでいました。


僕と兄とお父さんで、お母さんとひいばあの火葬に行きました。


火葬して、最初にお母の骨とりをしていたらお父が涙をだしていました。


僕はその気持ちがまったくわからなかったです。


僕たちは学校だったので、じいちゃんとおばあちゃんの火葬は行けませんでした。そのときはいけなかったけど、家族4名の火葬がおわってよかったと思います。


それが終わったら東京のおばさんの家で1年生活していました。


僕のお母さんはやさしくて、僕達を大切にしてくれました。


僕の一番の思いでは家族みんなで、ディズニーランドやディズニーシーに行ったことです。


2番目の思いでは、お母さんといっしょに、サッカーの試合を見に行きました。 サッカーの試合を見て、お母さんと約束をしました。


その約束は、サッカー選手になるということです。 僕は、川島選手みたいな人になりたいと思います。



ママがいてほしいとき (小4、女子)


ママは、優しくて、おもしろくて、いつもにこにこしていました。


私とママの顔がにていると友達に言われていました。


ママがいなくなってから、パパが料理をつくっています。


「手伝って」といわれたりしてたいへんです。

ママがいてほしいときは、運動会のときとおふろに入るときと、おかしを買いに行くときです。


ママはチョコレートが好きだったので、いつもママとスーパーにお菓子を買いに行ってました。


ママは3月11日の東日本大震災のつなみでなくなってしまいました。




悲しい感じの空気  (中1、男子)


ぼくは昨年、津波で父を亡くしました。


父は大工をしていて、たまたまその日だけ、宮城の沿岸で仕事でした。


地震がおこり、津波の注意報がでても、父は、真面目だったので、道具をかたづけに行き、津波にあい亡くなりました。


お父さんは、仕事中に震災、津波にあい亡くなりました。


お父さんの遺体を見ることは出来ず、それに、かそう場も見れずに、お墓に行ってしまいました。


ぼくは、お父さんの遺体を見てなくても、悲しい感じの空気がお母さんやおばあちゃんから伝わってきて、涙が出たり、お父さんの思い出などがうかんできました。


つい二ヶ月前までは、なくなったことを受け入れられなかったです。最近になって、うけ入れられるようになってから、苦手な社会の教科を教えてもらえたらな・・・・や、また出かけたり遊んだりしたかったです。


今は、中学校で、新しい友達ができて、休みの日や部活の日に遊んだりして楽しいです。


勉強は、ほぼ毎日しています。部活はバレー部で、ほかの部よりも先輩はやさしく、部内が仲が良いといわれます。


部活は、もうベンチ入りして、最初の時よりも、練習にほとんど参加できて、日々どんどんうまくなっていると先生から言われます。


それで今回、心のケアプログラムに参加して悲しんでいるのは、ぼくたちだけじゃなく、いろんな人たちも悲しみながら住んでいることが分かったし、ファシリテーターの人たちも、だれかをなくしていてでも、ここに来て、みんなと遊んだりしていることが、すごくいい人たちだなあと思いました。


ぼくも、こういう人たちになりたいなと思いました。


またこの心のケアプログラムに参加したいです。



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以下は、育英会に支援されている保護者の方たちの言葉です。



悲しいのは、自分たちだけじゃない (岩手県)


この集いに参加させていただいて、沢山の悲しみを乗り越えて生きている方々のお話を聞くことが出来て良かった。


東日本大震災後にも、悲しいのは、自分たちだけじゃない、うちはまだいい方、もっと悲惨な家族もいると思って生きてきた。


色々な話をきかさせていただいて、共感するところもあり、励まされることもあり、色々な人生があるんだと思った。


娘三人を育てていかなければならないけれど、あしながさんや、同じ思いの方が沢山いてくれてると思えば、とても、心強いです。


末永く、宜しくお願いします。




レインボーハウスだけが話せる場所 (宮城県)


震災から1年と2ヶ月、やっと気持ちも少しずつ前を向けるようになってきた矢先に父の死で、避難中なのもあり友達もバラバラで仙台でほとんど今の状況を話せる人もなく、唯一あしながレインボーハウスだけが話せる場所です。


子どもたちへの不安、これからの仕事への不安、住む場所への不安、あせり、そういう気持ちを話せてよかったです。これから帰って、仕事の面接、頑張ります。


子どもたちについては、うえのふたりが、がんばりすぎてるように思いました。もっともっと甘えさせてやろうと思います。




心が楽になった (宮城県)


震災後、一番つらかったのは、自分の気持ちを出せる場所がなく、息がつまりそうになりながら働き、その中で生活していかなければならないことでした。


レインボーハウスでは、すべてではありませんが、少しでも自分の気持ちを出せ、また、同じような方々の話を聴けて共感でき、心が楽になりました。


自分は一人ぼっちになってしまったと先のことがみえず、立ち止まりそうになっていましたが、こどもがいる幸せや、これからのことを少しでも考えようという気持ちになれたことが、良かったと思います。



負の悪循環を断ち切りたい (福島県)


自分の話すこと、書くことがどう思われているのか、心配で不安で、たまらなくなる時があります。仮面を付け、よろいを着て生活しているのに疲れてしまうこともあります。


常に自信がなく、不安と共にネガティブ思考で、自分の意見より周囲にあわせる・・・。これが自分の本当の姿と思うと更に落ち込んでしまう。負の悪循環を断ち切りたいと思い、日々をすごしています。


まだまだ普通に戻れないで居ます。


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子どもたちの声とともに、とりのこされた保護者の方たちの不安、混乱、葛藤が見えます。


震災から2年過ぎ、現地での生活や就労状況は不安定なまま、風化させないためにも、直接の被害を受けなかった私たちが、「忘れない」ことがとても重要だと思います。


あしなが育英会の支援はすばやく、東日本大震災の直後、被災した子どもの居る家庭を職員が足で歩いて探し、一時金を配布したそうです。


イギリスでも、震災直後から行われた数々のチャリティイベントの寄付金を「あしなが育英会」に送った団体が多くあります。また「あしながさん」に支援されて高校や大学に通っている学生さんボランティアが、阪神や東日本の震災でもボランティアとして活躍しています。


上記の作文でも分かるように、経済的な支援だけでなく、精神面での支援も非常に大切です。あしなが育英会では、東京にあるレインボーハウスでの遺児たちのメンタルケアを、東北地方でも行えるよう、仙台、陸前高田、石巻および福島県にもサテライトを作る計画です。


あしなが育英会の支援は、震災の遺児、孤児だけでなく、病死,自死、事故死などの遺児、孤児なども支援しています。


皆様の暖かいご支援で、この素晴らしい事業が成立しています。


学費をサポートする「あしなが育英会」への寄付は、クレジットカードでも、郵便為替でも簡単にできます。自分たちの苦境を語る声をもたない子供たちの少しでも幸福な明日のために、お志のある方の寄付をどうぞ宜しくお願いいたします。


募金の方法など
http://www.ashinaga.org/support/entry-374.html


私も贅沢をなるべく控えて貯金をし、少しずつですが寄付をしています。社会の中で一番の弱者であり、支援無しには将来にわたって弱者でありつづけてしまう、親を失った子供たちの10年後、20年後が皆様の支援で、少しでも良いものになりますように。


(資料)

東日本震災により親を亡くした児童については、震災孤児数241人(岩手県94名、宮城県126名、福島県21名)、震災遺児1,372人(岩手県481名、宮城県749名、福島県142名)の確認が行われている(平成24年3月28日現在)。


また、今回「あしなが育英会」からの資料を送ってくださった、rinotti さんのブログの関連記事はこちらです。あしなが育英会の支援を受けた方の直接の貴重なお話が載っています。ぜひご覧下さい。


http://ameblo.jp/rino-pis2/entry-11525840552.html



そして、当ブログの関連記事はこちら。

「羽生選手-責任を引き受ける人」

http://ameblo.jp/popular2/entry-11492043465.html