――明治以来つづく文明的危機と、機能体組織による日本再興の可能性

 

はじめに

「知に働けば角が立つ、情に棹させば流される」


この言葉は、夏目漱石『草枕』の冒頭に置かれた一節である。漱石はこの短い一句で、近代の日本人が置かれた精神的緊張と行き場のなさを、すでに言い尽くしていた。

 

この言葉が単なる愚痴ではなく、昔からの日本における個人の社会生活における教訓である。それが個人の暮らし憎さとして強く感じられるようになったのは、恐らく、明治の近代化以降に導入された「個人の自立しと尊厳」という概念に目覚めた結果だろう。

 

つまり、「知を用いれば周辺に摩擦が生じ、情を優先すれば自分の主体性を失う」という個人の情況は、西欧化・近代化によって発生した日本社会の構造的・文明的危機を表現しているのである。

 

明治の近代化の出発点から令和の現在まで、人々は一貫してこの緊張関係の中に置かれてきた。そして個人主義は導入したものの、日本社会を構成するのは依然考えない個人なのである。それがグローバル化された経済と政治の危機の原因となっているのである。

 

本稿で扱う危機とは、単に景気後退や国際関係の不安定化だけではない。その根底に存在する「知が公共の力にならず、議論が社会の秩序形成に寄与しない」という、長期にわたる文明的危機である。それは明治・戦前・戦後・高度成長・デフレ期を通じて、形を変えながら連続してきたのだ。

 

1.知が公共財にならなかった社会

知、すなわち知識と知恵は、本来、二つの意味で重要である。


第一に、社会にとっての公共財であること。議論を通じて知が共有され、誤りが訂正されることで、社会全体の判断の質が引き上げられる。


第二に、個人にとっての生活基盤であること。人は知を通じて世界を理解し、自らの判断に責任を持つ主体となる。

 

しかし日本社会では、知はしばしば別の意味を帯びてきた。知は和を乱すもの、他者を傷つけるもの、あるいは責任を引き受けざるを得なくなる危険なものとして、警戒されてきたのである。その結果、考えること自体が社会的リスクになるという文化が形成された。これは知的怠慢ではない。むしろ、日本社会で生き延びるための合理的適応だった。

 

日本は長く層状の権力構造を持つ社会だった。上層では権力闘争と淘汰が起きる一方、下層はその結果に従属し、生産と生活を続ける。決定的なのは、淘汰が原理的に上層に限定されていた点である。村や町や職場の秩序は、上の支配者が誰に変わろうと、基本的に維持された。

 

この構造のもとでは、下層にとって知や議論は生存条件ではなかった。秩序を議論で高度化しなくても、思考様式を更新しなくても、生きることは可能だった。ここに、日本で「議論によって秩序を高める文化」が育たなかった根本原因が存在る。

 

2.委託製造としての近代化と言語の問題

明治以降、日本は急速に近代国家へと変貌した。しかしそれは、社会全体の自己改革ではなかった。実際に起きたのは、旧来の上層が自らを原料に、西欧近代という設計図と技術を用いて、新しい上層を再鋳造するという「委託製造された近代化」である。

 

法制度、官僚制、軍事、教育は近代化されたが、下層つまりマジョリティの判断様式や議論文化は改質されなかった。そして、長期にわたって社会に知と議論が根付かなかったことで、日本の言語文化は近代日本に適応することなく、不適合なまま固定された。

 

日本語は、主語を曖昧にし、責任を分散し、判断を空気に委ねることを可能にする。これは言語そのものの欠陥というより、日本古来の社会構造と長年の人々の適応の結果である。
 

言語と社会構造がガッチリと噛み合ったまま、考えないことが最も摩擦の少ない生き方として定着した。近代化は輸入されたが、それを内側から支える思考様式と言語運用は更新されなかった。この歪みは、その後の日本社会に長い影を落とすことになる。

 

3.敗戦・高度成長・40年デフレ――選ばれ続けた停滞

敗戦は、本来なら社会に自己検証を強制する出来事だったはずだ。しかし日本では、制度改革も憲法も外部(つまりマッカーサーの占領政治)によって与えられ、社会が自らの判断様式を問い直す過程は省略された。

 

続く高度経済成長は、この未完性を決定的に固定した。考えなくても生活は良くなり、判断しなくても正解は上から降ってきた。こうして、「個人は考えなくても良い、判断はお上の特権である」という文化が成功体験として社会に埋め込まれた。

 

高度成長が終わった後、日本の会社は本来なら日本型共同体的組織から西欧型機能体組織へと進化する必要があった。しかしバブル崩壊以降、日本は約40年にわたりデフレ経済を引きずる。その本質は単なる不景気ではない。政治が日本社会の構造転換を決断せず、共同体企業を守る規制を撤廃せず、ゾンビ化した企業の退出や再編などの改革への支援を回避し続けたことにある。

 

結果として、考えない組織を守ることが安定と見なされた。これは衰退ではない。日本社会全体が選び続けた停滞である。

 

4.規制の維持と異次元の金融緩和

日本の規制の多くは、結果的に共同体的組織を存続させてきたが、それは「安全の為の装置」だったわけではない。むしろ、社会の進化を止めるという意味で、危険な装置だった。

 

雇用維持、参入障壁、業界調整は、「考えなくても生きられる」「判断を誤っても即座に退出しなくてよい」という前提を社会全体に与えた。その結果、知と議論が不要な組織が温存され、社会全体の判断力は更新されなかった。

 

このため規制撤廃は、単なる改革では終わらない。それは社会全体の生存条件を変更する行為であり、破壊と受け取られるのは当然だった。こうした長期停滞の末に登場したのが異次元の金融緩和である。これは現在も続く停滞の原因ではなく、40年間構造転換を先送りしてきた帰結であり、一時的な延命措置、最後のカンフル剤にすぎなかった。

 

5.機能体組織と公的空間としての会社

この長い停滞の中でも、例外的に別の論理で動いてきた組織がある。それが国際競争に晒される株式会社である。

国際競争の場においては、判断は数値で評価され、責任は特定され、結果がすべてを決める。そのような環境に置かれた企業の中には、西欧の論理を採用するために英語を公用語とする企業も増えてきた。議論を通じて知を育てる文化を取り入れることで、厳しい競争空間での生存を図るようになったのである。

その前提として必要なのは、会社での労働を個人にとっての公的活動と位置づけ、家庭やプライベートな人間関係と明確に区別するという労働文化である。情緒や私的配慮が支配する私的空間と、能力評価・適材適所・論理優先が支配する空間を公空間として分離することによって、個人の社会生活を護りながら会社は機能体組織となり得るのである。

機能体組織における人間関係は冷酷なのではない。私的空間と公的空間の峻別及び人格と役割の切り分けによって、個人の尊厳を守りつつ上下関係とその間の議論と情報交換が成立する公空間として作り上げた空間であり組織である。英語の社内公用語化や英語IRは、国際化のためではない。責任と論理を逃がさない言語空間をつくるためである。

その延長上に、こうした企業文化の集積として、日本という社会全体の構造と文化を、将来にわたって生き残り得る形へと進化させていく現実的なプロセスが存在すると考えられる。この最後の文章が本記事での提案である。

 

おわりに

日本が直面している危機は、明治以来一貫して続いてきた危機である。それは、社会の構成員の全てが沈黙や奥ゆかしさと、無知や思考停止の区別ができない社会になっているいう危機である。

日本の再興には、働くことを公的空間における活動と位置づけ、私的空間から峻別するという労働文化を取り入れ、会社を基点として社会全体を機能体組織へと変えていくという静かな革命が必要である。それは理念でもスローガンでもない。考えなければ生き残れない組織が着実に増えていくことによってのみ、未完の近代化はようやく完了する。

 

市民一般の政治参加は、これまで通りの公空間での活動である。そこに仕事空間で作り上げられた公空間の文化を浸透させることで、日本の政治を個人が思考し主張する本物の民主政治にすることが、日本が21世紀の危機を乗り越え、22世紀に生き残るために必須である。(12/22早朝編集)

 

(本稿は、OpenAI ChatGPT の協力を得て作成されたものである。)

 

ふるさととはなんなのだろうか。父母が亡くなった後も、長い間そのような問いが心に浮かぶことはなかった。私にとって故郷とは、生まれ育った懐かしい場所であり、帰ろうと思えば帰れる場所、そして父母が迎えてくれるところという意味のままであった。


10年以上も前になるが、職場で隣に座っていた珍しい姓の人物に、その姓の由来を尋ねたことがあった。その時彼は、それが石川県のある地域に限定された姓であることを語るとともに、「私は田舎に帰らないのだ」と、室生犀星の詩を引用して語った。

 

その時以来、学校で習った室生犀星の詩が、その人物の記憶とともに心の中に引っかかっていた。そして最近ふと、ふるさとを詠った石川啄木の詩と室生犀星の詩に大きな違いがあることに気付いた。それが、本ブログ記事を書いた動機である。

 

本稿では、啄木の二つの詩──「ふるさとの山」「ふるさとの訛り」──と、犀星の「故郷は遠くにありて」を手がかりに、人生の段階によって変化する「ふるさと」を考えてみたい。それは同時に、私自身が老いのなかでのふるさとを確認する作業でもある。

 

石川啄木──幼少期の原風景としての「ふるさと」

石川啄木(1886–1912)は明治期の歌人であり、26歳という若さで病没した。 彼は結婚し、妻子もいたが、家族は早世して血縁の系譜を残すまでには至らなかった。(文献参照)

 

ふるさとの山に向ひて

言ふことなし

ふるさとの山はありがたきかな

 

この詩の「ふるさとの山」は一説によると岩木山だが、もはや現実世界の具体的な場所ではない。幼少期の内面に定着した記憶としての山 ーそれが啄木が詠ったときのふるさとである。
 

ふるさとの訛なつかし

停車場の

人ごみの中に

そを聴きにゆく

 

これも、なまりによって呼び覚まされたふるさとの記憶を詠っている。たまたま故郷に向かうバスの停車場近くを通りかかった時、ここでバスに乗ればふるさとに行けることを確かめる為に停車場まで行ったのだろう。

 

啄木の人生は26年間と短く、その多くは都市生活と貧困、仕事によって、ふるさとから引き裂かれた時間であった。これらの郷愁を詠う詩二編は、そのような厳しい人生の中で喪失した啄木のふるさとである。

 

室生犀星──成熟した人生の視点から見た「故郷」

これに対して室生犀星のふるさとの詩は、まったく異なる感覚を詠っている。

 

故郷は遠きにありて思ふもの

そして悲しくうたふもの

よしや

うらぶれて異土の乞食となるとても

帰るところにあるまじや

ひとり都のゆふぐれに

ふるさとおもひ涙ぐむ

そのこころもて

遠きみやこにかへらばや

遠きみやこにかへらばや

 

この詩は、郷愁というよりもふるさととの決別を詠っている。

 

ふるさとを出て働くために遠く離れた土地に移り住み、その土地に骨を埋めることになるのは、近代日本でも家を継ぐ長男以外の普通の人生だっただろう。犀星も何度か転居を繰り返し結局東京に住むことになったようだ。
 

ある時、ふるさと金沢に帰った犀星を迎えたのは、啄木の描いたような暖かく自分を包み込んでくれるふるさとではなかったようだ。優しくそして温かかったふるさとを心にしまい込んで、遠く厳しい東京に帰ろうとする決心をこの詩は詠んでいる。
 

二つの詩に詠われた「ふるさと」の違い

啄木と犀星の「ふるさと」は、その詩に刻まれた情況と人生における意味合いが異なる。一般に、就職や家庭を築くなどの人生の各ステージを応じて、心の中の「ふるさと」は徐々に変化していくのだろう。

 

「ふるさと」が持つ意味は決して不変でも一様ではないし、人と情況によっても様々だろう。父母が故郷に健在であるあいだ、ふるさとを懐かしみ、疲れたときには帰ろうとするのは自然である。そこにはその地を慕う気持ちとともに、親との関係が織り込まれている。

 

啄木の詠んだふるさとは、ふるさとが心の中で“変質”する前の郷愁を謳っていると思う。生きることに夢中であったのかもしれない。そしていつの間にかふるさとへは帰れない境遇になってしまったのだろう。

 

しかし、父母が世を去り、自分の子どもたちが成長したころには、故郷には自分の座る場所が無くなっているのが普通である。つまり、ふるさとは「遠きにありて思うもの」でしかなくなるのも自然である。
 

室生犀星は、その遠きにありて思うものでしかなくなったふるさとを発見し、前に進むべき自分を奮立たせるために故郷との決別を明確に詠んだのだろう。「遠きみやこにかえらばや」は、その戦いに似た自分の人生の場へ帰る覚悟を示している。その自分がこれから帰るところは、自分の子たちのふるさととなるのだろう。

 

犀星にとっての故郷そして父母は、一般的ではないことは文献などにみられる。しかし、犀星にとってもふるさとの山や川は幼少期でも時として自分を慰めてくれる存在だっただろう。ふるさとの川である犀川の犀の一字をペンネームに用いているのだから、故郷を嫌う気はない筈である。

 

人生のステージ変化とふるさとの意味の変遷

人はふるさとを原点として生まれ、育ち、大部分はそこから外の世界へと押し出されていく。その原点があるからこそ現在の自分があり、さらにその自分が、次の世代──子どもたちの故郷を作るために必死に働き生きる。
 

この関係こそが、健全な人の生のつながりとふるさとの関係なのだろう。その人生のなかでの戦いや苦しみ、諦めや悟り、そして老いから死に向かう時間のなかで、ふるさととの距離は物理的にも心理的にも変質していくのである。

 

おわりに

 

多くの日本人が「ふるさと」と聞いて先ず思い浮かべるのは、”うさぎ追いしかの山、小鮒釣りしかの川”とうたう唱歌ふるさと(高野辰之作詞、岡野貞一作曲(1914))だと思う。これは小学生の音楽教育向きの「故郷讃歌」であり、人生の前半なら大部分の人の心の中に共通して存在する故郷である。

 

学校教育を修了したのちに社会に出て、さまざまな人生経験を経たあと、故郷は心の中に確かに存在するが、その像はひと様々である。ふるさとに帰ることが出来なかった啄木の心の中の故郷は、それだけより暖かくより美しく描かれることになったのだろう。
 

ふるさとに帰ってみても安住する場所ではないと発見した犀星は、決して安住の地ではないが東京で生きるしかないと考えた。「異郷の乞食となっても故郷は帰るところではない」との強い決意には、故郷との決別の意味もあるが、それ以上に東京での暮らしの厳しさー人生の厳しさを感じる。
 

犀星のこの故郷の詩に自分の気持ちを重ねる人も多いかもしれない。「はじめに」で紹介した職場で隣に座っていた人物もその一人だろうし、そして老齢となった現在の私もその一人である。
 

(本稿は、OpenAI ChatGPTGPT-5)の協力により作成されたものです)

――歴史・国家意識・AI時代が示す条件

   ※本稿は、2019年に公開した「中野剛志氏の『没落について』という講演動画に関する感想」
https://ameblo.jp/polymorph86/entry-12560835048.html)を、現在の国際情勢およびAI・ネット環境の変化を踏まえて、思考モデル 

  と構成を再整理したバージョンアップ稿である。

 

序章  日本はなぜ「選択できない国」になったのか

日本は現在、没落に向かう谷底を進むように鍵をかけられている、つまりロックインされた状態にある。ここで言うロックインとは、ある時点で選ばれた進路が、制度や思考様式として固定化され、別の選択肢が見えにくくなる現象を指す。谷底という比喩は、一度そこに入り込むと視界が狭まり、隣に別の谷や別の道が存在していても気づきにくくなる状況を表している。

 

このような言い方は、過度に悲観的だと受け取られるかもしれない。しかし本稿で言う没落とは、感情的な衰退論ではない。過去の選択が積み重なり、それ自体が前提条件となって将来の選択肢を縛っていく、構造的な過程を意味している。

 

戦後の日本を振り返れば、経済、外交、安全保障、教育のいずれの分野においても、致命的な失敗を重ねてきたわけではない。むしろ多くの場合、それらは当時としては合理的で、現実的と考えられた選択であった。問題は、その合理性が長期にわたって一つの方向へ社会を導き、別の可能性を想像する力そのものを弱めてきた点にある。

 

本稿では、この状態を「渓谷モデル」として捉える。一度形成された谷底の道は、容易には外れられない。隣に別の谷が存在していても、その存在を認識できなければ移動は起こらない。国家もまた、こうした地形の中を動いている。

 

日本には過去に、進路を変え得る瞬間が二度存在した。占領終結期と冷戦終結後である。いずれの時代にも、日本には政治的力量も国際的余地も存在していた。しかしその可能性は、国民的選択として引き受けられることなく、静かに閉じられた。

 

没落の谷底を進む道は、神が定めた運命ではない。だが再興もまた、自動的に訪れるものではない。本稿の目的は、日本が再び進路を選び直すために、どのような条件が必要なのかを整理することにある。

 

1.   渓谷モデル――ロックインとアンロックの構造

国家の進路は、意思決定の積み重ねによって形成される。しかしその進路は、いつでも自由に変更できるわけではない。ある選択が繰り返されることで制度や価値観が固定化され、別の選択肢が見えなくなる。この状態をロックインと呼ぶ。

 

渓谷モデルでは、没落へ向かう進路も、再興へ向かう進路も、それぞれ一つの谷底として存在している。両者は完全に断絶しているわけではないが、その間には尾根、すなわち障壁がある。通常、この障壁は高く、越えることは困難である。

 

しかし歴史を見れば、国際秩序の変動や覇権構造の揺らぎによって、この障壁が一時的に低くなる瞬間が存在する。その時にのみ、国家は隣の谷へ移動する現実的可能性を得る。アンロックとは、この一瞬の機会を捉える行為である。

 

重要なのは、アンロックはいつでも可能なわけではないという点だ。可能性は常に存在するが、実行可能な時間は短い。だからこそ「機を見るに敏」である姿勢が問われる。

 

2.   日本に二度あったアンロックの瞬間

日本には、進路を変え得る瞬間が二度存在した。

 

第一は、占領終結前後である。冷戦構造がまだ固まっておらず、日本が主権回復後に憲法改正を含む国家像を自ら設計する余地が存在していた時期だ。この可能性は理論的にも政治的にも存在していたが、国民的議論として展開されることはなかった。

 

第二は、冷戦終結後である。米国の明確な敵が消失し、日米安保の意味が宙に浮いた時期、日本は史上最大級の経済力と外交余力を持っていた。しかしこの時も、日本は進路を変えることなく、惰性で同じ谷を走り続けた。

 

二度とも、日本には政治的力量を持つ人物が存在した。しかしいずれの場合も、決定的な問いは国民に投げかけられなかった。問題は人物の資質ではなく、国民が国家の進路を引き受ける準備が整っていなかったことにある。

 

3.   なぜ日本人は「国家としての自分」を持てなかったのか

日本人の国家意識の希薄さは、偶然ではない。千年以上にわたり、日本の民衆は政治と自らの生死が直接結びつく経験をほとんど持たずに生きてきた。政治は武士や貴族の世界の出来事であり、庶民の生活は基本的に連続していた。

 

太平洋戦争は、初めて政治と国民の生死が直結した経験だったが、それは主体的な選択の結果ではなく、一方的に降りかかった破局だった。その結果、日本社会には国家から距離を取ろうとする深い心理が刻み込まれた。

 

戦後、憲法改正を含む国家の根本規範が国民的選択として問われることはなく、国家意識を形成する訓練は欠落したまま現在に至っている。この構造の中では、没落の谷にロックインされていること自体が認識されにくい。

 

4.   ネットとAIが開いた新しい回路

近年、この構造に小さな変化が生じている。ネットとAIの発展によって、国家や歴史を自ら学び、考え、議論する回路が、教育機関や既存メディアの外側に生まれ始めている。

 

これは教育の分散処理化であり、国家意識が初めて下から形成される可能性を示している。参政党の誕生は、この変化が政治的に可視化された一例に過ぎない。重要なのは、国家を自分事として考える人々が現れ始めたという事実である。

 

まだ谷を移動したわけではない。しかし隣に別の谷があることを認識する人々が生まれ始めたこと自体が、これまでの日本にはなかった変化である。

 

終章   再興の条件と、天皇という存在

日本が再興の道に戻るための条件は明確である。


第一に、没落の谷にロックインされている現実を構造として理解すること。
第二に、隣に別の谷が存在することを想像力として共有すること。
第三に、その瞬間が訪れたとき、不確実性を引き受ける覚悟を持つことである。

 

最後に、天皇という存在について触れておきたい。天皇は、軍事国家としての大日本帝国において、国家が国民を動員する装置として位置づけられた時代を経てきた。しかし日本が再び主権国家としての道を模索するのであれば、その役割の重心は、江戸時代以前に近い形へと静かに戻されるべきではないだろうか。

 

それは政治的権限を持つ存在へ回帰することを意味しない。むしろ、国民が自発的に敬愛し支えてきた、伊勢神道の宗主としての天皇という位置づけである。

 

制度や形式を国民が決めるべきだとは思わない。最終的には天皇家ご自身のご判断に委ねられるべき問題であろう。京都御所にお戻りになる形であってもよいし、現在の皇居のままであってもよい。

 

ただ、日本国民の一人として願うのは、天皇と皇室が、お伊勢さんの主宰として国民とともにある存在として、静かに位置づけられていくことである。

 

没落の谷底を進むことは、神が定めた運命ではない。しかし再興もまた、自動的には訪れない。その条件を見極め、機を見るに敏であり続けること――それ自体が、すでに政治なのである。

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(本稿は、OpenAI ChatGPTGPT-5)の協力を得て、筆者自身の思考と責任において執筆したものである。)