1.豊かになった社会と不安定になった人間

現代社会は、かつてないほど豊かで便利になった。交通や通信の発達によって、人は遠く離れた相手とも瞬時に連絡を取ることができる。インターネットを通じて世界中の情報に触れ、必要な商品やサービスも容易に手に入れられるようになった。

企業や行政の組織も巨大化し、社会は高度な分業によって運営されている。

 

しかし、その一方で、現代人の精神は必ずしも安定していない。家族や地域とのつながりが弱まり、職場を離れた途端に居場所を失う人がいる。多くの人と通信手段で結ばれていながら、心を許して話せる相手がいないという人もいる。孤独死が社会問題となり、誰にも看取られず、死後しばらく発見されない人も珍しくなくなった。

 

とりわけ深刻なのは、社会的な役割を失い、家族とも離れて暮らすようになった高齢者の孤独である。このような現象を、個人の性格や努力不足だけで説明することはできない。むしろ考えるべきなのは、社会の発展そのものが、人間の精神的安定をどのように変化させたのかという問題に解答を与えることである。そして、それに基づいて対策を練ることである。

 

2.社会は人間の幸福を目的として発展したのか?

社会は、人間を幸福にするという一つの目的に向かって、誰かが全体を設計したものではない。確かに健康で安全な生活を営むことができる社会になっただろう。しかし、人間のライフスタイル全体を想定して社会は発展してはいない。

 

経済には経済の都合があり、企業には企業の都合がある。国家や行政にも、それぞれ独自の目的と都合がある。市場は、より効率よく商品やサービスを供給する方向へ発展する。

 

企業は、生産性や利益を高めるために組織を作り替える。国家や行政は、人口や領域を管理し、秩序を維持するために制度を複雑化させる。それらは、社会を維持し発展させるためには必要なことである。しかし、そこで働き、暮らす人間が、どのようにして安心感を得るのか、どこに自分の居場所を見いだすのかという問題は、社会の発展過程に自動的には組み込まれていない。

 

人間が老いや死をどのように受け入れるのか、役割を失った後にも、どのような社会とのつながりを持ち続けられるのかという問題も、経済や組織の機能とは別の問題である。社会は、こうした人間の精神的必要を十分に考慮しないまま、独自の都合に従って発展してきた。

 

その結果として人間の精神が不安定になったとしても、経済や制度がそれを直ちに修正することは現状不可能である。会社は利益を上げ続けようとし、行政組織は制度と権限を維持しようとする。国家は統治能力や対外的な影響力を守ろうとする。それぞれの組織は、自らの目的を優先して活動する。

 

人間の精神的安定は、それらの目的に最初から含まれているとは限らないのである。

 

3.共同体と機能体

社会は、単一の巨大な組織として存在しているのではない。家族、地域、学校、会社、宗教団体、行政機関、国家など、性格の異なる多数の部分社会が重なり合うことによって、社会全体が形成されている。これらの部分社会を理解するため、本稿ではまず、共同体機能体という二つの概念を用いる。

 

共同体とは、家族や地域社会のように、構成員が生活、感情、記憶、習慣などを共有し、存在そのものによって結びついている集団である。共同体では、人が何かの役に立つ以前に、その一員であるということ自体が、関係の根拠となる。子どもや高齢者、病気の人、働く能力を失った人であっても、共同体の構成員であることには変わりがない。

 

これに対して機能体とは、会社、官庁、大学、軍隊などのように、一定の目的や機能を実現するために作られた組織である。機能体では、構成員はそれぞれ役割を割り当てられ、分業、指揮、責任、評価、規則によって結びつけられる。

 

ただし、共同体と機能体は、現実には完全に分離して存在しているわけではない。会社は本来、商品やサービスを生産し、利益を上げるための機能体である。しかし、長く勤務する人々の間には仲間意識や帰属意識が生じ、共同体としての性格を帯びることもある。家族や地域共同体にも、生活の維持、子育て、財産管理、防災、祭祀など、果たすべき機能が存在する。

 

したがって、共同体と機能体とは、社会を完全に二分する分類というよりも、それぞれの部分社会が持つ二つの性質を示す概念である。共同体は、人間に帰属と安心を与える。機能体は、目的を達成するための行動力と組織力を生み出す。

 

現代社会の問題は、機能体が巨大化し発展する一方で、人間を無条件に受け入れてきた共同体が弱体化したことにある。

 

4.参加型社会と帰属型社会

共同体と機能体の違いを、個人と社会との結びつき方から見ると、参加型社会帰属型社会という二つの型が見えてくる。

 

参加型社会とは、会社、学校、学会、政党、各種団体などのように、共通の目的や機能が先にあり、個人が一定の役割を担うことによって加わる社会である。そこでは、能力、責任、契約、成果、権限の配分が重要になる。参加型社会は、主として機能体としての性格を持っている。

 

これに対して帰属型社会とは、家族、親族、地域共同体、氏族、民族などのように、個人が何かの役割を果たす以前に、その一員であるという事実によって結びつく社会である。帰属型社会は、主として共同体としての性格を持っている。

 

もっとも、参加と帰属も完全に分離できるわけではない。会社への所属は、最初は役割を通じた参加であっても、長い年月のうちに帰属意識へと変わることがある。家族は生まれながらの帰属によって成立するが、その維持には、家族一人一人の積極的な参加と努力も必要である。

 

しかし、参加型社会と帰属型社会には、決定的な違いがある。参加型社会には、参加する理由と果たすべき役割が必要である。役割を果たせなくなれば、その人と組織との関係は弱くなる。場合によっては、関係そのものが失われる。これに対して帰属型社会では、本来、役割を失っても、その人が構成員であることは変わらない。

 

「人間の本質は、集団を作って生きることである」という種としての人間の特徴を言い換えれば、「人間は参加型社会だけで生きることはできない」ということになる。

 

働けなくなり、社会的な役割を失った人に対して、参加型社会は十分な居場所を提供できないからである。しかし、帰属型社会だけで、現代の巨大で複雑な社会を運営することもできない。血縁や情緒的な結びつきだけでは、大企業、国家、大学、研究機関、医療機関などを合理的に機能させることは難しい。

 

そこには、専門性、役割分担、責任の所在、評価、契約、規則が必要になる。したがって、人間社会の安定には、帰属と参加の両方が必要である。帰属型社会は、人間に安心と居場所を与える。参加型社会は、社会に機能と発展をもたらす。問題は、現代社会において、参加型社会が著しく発達する一方で、帰属型社会が衰退していることである。

 

5.社会の発展は、なぜ人間を孤独にするのか

ここで、本稿の表題として掲げた問いに、ひとまず答えておかなければならない。社会の発展が人間を孤独にしたのは、機能体への参加が生活の中心となる一方で、老齢になり、役割や能力を失った後にも、自分がその一員であると感じられる帰属型社会が失われたからである。

 

会社や官庁などの機能体は、人間を一定の役割を担う構成員として受け入れる。そこでは、人間は働く者、判断する者、命令する者、技術を提供する者として位置づけられる。役割を果たしている間、その人には組織の中の居場所がある。しかし、退職して役割を失えば、その関係は急速に弱くなる。

 

機能体は、その目的を達成するために人間を必要とするのであって、人間の全生涯を引き受けるために存在しているわけではない。他方、資本主義経済の発展の中で巨大化した会社や官庁などの機能体は、人間を能率的に配置し、その労働力を利用するため、人を地域から移動させ、家族からも切り離してきた。若い人々は職業を求めて故郷を離れ、都市へ移動した。

 

家族は大家族から核家族へと縮小し、さらに単身世帯へと分解されていった。家族の構成員は、同じ家に属する人間であるよりも、それぞれ別の会社や学校に参加する個人として生活するようになった。機能体の能率的な発展は、地域共同体だけでなく、家族共同体までも弱体化させたのである。

 

人間は、働いている間には、会社という参加型社会を持つことができる。しかし、老齢になり、退職し、配偶者を失い、子どもとも離れて暮らすようになったとき、自分が無条件に属していると感じられる社会が、ほとんど残っていないことに気づく。現代の老人が直面する孤独は、単に話し相手が少ないという問題ではない。

 

自分が存在するだけで、その一員として認められる社会がないという問題である。地域にも属していない。会社には、すでに必要とされていない。家族は離れて暮らし、親族との関係も薄くなっている。祖先から子孫へと続く家系の感覚も、失われつつある。

 

人間は、多くの機能体を発展させることによって自由と豊かさを得た。しかし、その代わりに、老齢になった後まで自分を包み込む帰属型社会を失ったのである。これが、社会が発展したにもかかわらず、現代人が孤独になった根本的な理由ではないだろうか。

6.葬送の変化と時間的帰属の喪失

現代人の孤独は、現在生きている人々との関係だけに関わる問題ではない。帰属型社会には、同時代の人々の間のつながりだけでなく、世代を超えた時間的なつながりが存在する。家系や系図、祖先と子孫の関係は、人間を長い時間の流れの中に位置づける。

 

人は、突然この世界に現れた孤立した存在ではない。祖先から生命と文化を受け取り、それを次の世代へ伝える中間的な存在である。この感覚は、人間に自分の位置を与えると同時に、死を単なる消滅とは異なるものとして理解させてきた。葬式や祖先祭祀も、この時間を超えた帰属と深く関係している。

 

葬式は、単に遺体を処理し、死者との別れを確認するためだけの儀式ではない。亡くなった人を、家族や共同体の記憶の中に置き直し、祖先の側へ送り出す行為である。それによって死者は、共同体から完全に消去されるのではなく、「時間軸の上での共同体」の一員として新たに位置づけられる。  

 

残された者もまた、自分が同じ生命と記憶の連続の中にいることを確認する。墓も、単なる遺骨の保管場所ではない。生きている者と死者、現在と過去を結ぶ場所である。人は墓を訪れることによって、死者を思い出すだけでなく、自分自身が祖先と子孫を結ぶ時間の流れの中にいることを確認してきた。

 

しかし、現在では、葬式は次第に家族だけで行う小規模なものとなり、墓を持たない樹木葬や、遺灰を海へ散布する葬送も選ばれるようになった。これらには、費用、家族への負担、居住地の移動、価値観の変化など、さまざまな理由がある。したがって、個々の選択を単純に否定することはできない。

 

しかし、文明論的に見れば、これらは、死者を家、地域、祖先という時間的共同体の中に位置づける仕組みが弱くなったことを示す、象徴的な現象でもある。死者が共同体の中に新たな位置を与えられるのではなく、社会から消えていく存在となる。そして生きている老人もまた、自分の死後に、その名前や記憶を受け取る共同体が存在しないことを感じながら、老いなければならなくなる。

 

孤独死とは、誰にも看取られずに死ぬことだけを意味しない。それは、生きている間から、自分を時間的にも空間的にも受け入れる社会が存在しないという感覚の、最後の表現なのである。

 

7.帰属をどのように再建するのか

では、現代社会において、人間に時間的かつ空間的な帰属の感覚を、どのように取り戻すことができるのだろうか。この問いに対して、本稿はまだ完成した答えを持っていない。

 

過去の村落共同体や家制度を、そのまま復活させることはできない。古い共同体には、人間を孤独から守る力があった一方で、個人を拘束し、異なる生き方を排除する側面もあった。また、血縁家族だけに、老後と死後のすべてを委ねることも、家族の小規模化と分散が進んだ現代では困難である。

 

必要なのは、過去の共同体への単純な回帰ではない。現代人が得た自由を失わずに、人間に帰属の感覚を与える新しい社会の構成である。その具体的な形は、まだ明らかではない。しかし、考えるための手掛かりはいくつか存在する。

 

第一の手掛かりは、老人を単に扶養され、介護される存在として扱わないことである。老人は、長い時間を生き、家族、地域、職業、社会の変化を記憶している。その記憶と経験を、次の世代へ渡すべき社会的な資産として位置づけることができれば、老人は過去の残余ではなく、過去と未来をつなぐ存在となる。

 

第二の手掛かりは、人間の死後も、その名前、記憶、人生が共同体の中に残る仕組みを作ることである。それは必ずしも、従来の墓や家制度と同じ形である必要はない。地域による記憶の継承、世代を超えた記録、共同の追悼、人生史の保存など、死者を匿名の存在として消去しない仕組みを考えることができる。

 

第三の手掛かりは、参加型社会と帰属型社会を完全に切り離さないことである。会社や学校などの機能体も、役割を失った構成員との関係を直ちに断ち切るのではなく、過去の構成員を、組織の歴史と記憶を担う人間として位置づけることができるかもしれない。退職者を、もはや不要となった人間ではなく、組織の時間的連続性を構成する人間として扱うのである。

 

第四の手掛かりは、血縁や地縁だけに限定されない、新しい帰属型社会を形成することである。人間は、ただ同じ場所に住むだけで共同体を形成するわけではない。互いの存在を記憶し、人生の一部を共有し、病気、老い、死を含めて関係を継続しようとするとき、そこに帰属型社会が生まれる。

 

現代社会に必要なのは、老人を機能体から脱落した個人として管理する制度だけではない。人間が老齢になっても、自分は誰かとともに生き、誰かの記憶の中に残り、過去から未来へ続く時間の中に位置していると感じられる仕組みである。

 

帰属の再建という問いを立てなければ、孤独の問題は、見守りサービス、介護制度、通信機器などによって、表面的に処理されるだけで終わる。これらの制度は必要である。しかし、それだけでは、人間に「自分はこの社会の一員である」という感覚を与えることはできない。

 

8.本稿の課題

社会全体は、家族、地域、学校、会社、宗教団体、行政機関、国家など、多数の部分社会が重層的に組み合わされることによって成立している。

これらの部分社会は、それぞれ共同体と機能体、帰属と参加という異なる性格を持っている。さらに、部分社会は、構成員や上層部の意志と欲望を集約し、自己保存と拡張を求める、疑似的な人格のように振る舞うことがある。家族、会社、地域、国家という異なる規模の社会の中には、上下関係、横の協働、帰属、参加、自己保存と拡張など、似た構造が繰り返し現れる。

 

本稿では、こうした社会の重層的な構造を明らかにするため、共同体と機能体、参加型社会と帰属型社会という区別を、さらに詳しく検討する。

 

また、人間関係を、上下の秩序、横の協働、世代を超える時間的連続という三つの軸から捉えることを試みる。

そのうえで、父性的宗教と母性的宗教、ユダヤ・キリスト教文化と日本の宗教文化の違いが、社会の構成と人間関係にどのような影響を与えてきたのかを考える。

 

共同体を形成する力と、機能体を合理的に設計し運営する力とは、同じものではない。

日本社会が共同体を形成することには優れていながら、目的、責任、権限を明確にした機能体の構成と運営には、別の知恵を必要としてきた理由についても考察したい。

 

本稿の目的は、現代人の孤独や社会の荒廃を、個人の心の弱さとしてではなく、社会構造の問題として捉え直すことである。

そして、社会の機能的な発展と、人間の精神的安定を両立させるためには、どのような社会モデルが必要なのかを考えることである。

 

社会の発展を止めることはできない。しかし、社会の発展が人間を孤独にする仕組みを理解し、その欠陥を補う知恵を、社会の構成と運営に取り入れることは可能である。

 

それは、過去へ戻るための思想ではない。人間が社会のためだけに存在するのではなく、社会もまた、人間の生命と人格を支えるために存在するという原点を、現代の条件のもとで再発見するための試みである。

 


追記――AIとの共同作業について

本稿は、筆者がこれまで考えてきた人間関係、共同体、宗教、孤独、死と葬送についての問題意識をもとに、生成AIであるChatGPTとの対話を通じて整理し、文章化したものである。基本的な着想と問題意識は筆者によるものであり、ChatGPTは、論点の整理、概念間の関係の明確化、文章構成と表現の調整に協力した。

 

 

死ぬ前にすること(1)

 

人間は、未来を語るよりも過去を語ることが多くなったとき、自ら人生の終盤に差しかかったことを知るのではないだろうか。

 

私も後期高齢者となり、そのような時期に入ったことを自覚している。これから先、どれほどの時間が残されているかは分からない。しかし、人間としての自分がどのように形づくられ、何を考え、何を学び、それが現在の私にどのようにつながっているのかは、今のうちに書き残しておきたいと思う。

 

傷も負った。しかし幸いにも、今日まで心身ともに何とか歩んでくることができた。その軌跡を、思いつくままに振り返ってみたい。話は年代順ではなく、印象に残っている出来事から始めることにする。

 

今回は、1967年、十八歳で大学理学部化学科へ入学した頃の話である。前期教養課程(二年間)で受けた文系科目の中で、半世紀を経た今なお私の中に残り続けているものがある。それは意外にも専門科目ではなく、一冊の哲学書を題材にした英語の授業であった。

エーリッヒ・フロムの『The Art of Loving』である。

 

その思い出をたどって2015年12月16日に書いた文章を、今回はそのまま再掲したい。


 

愛するということ:アガペーとフィリア

 

古い題目だが、昨日のBSフジプライムニュースでゲストの曽野綾子さんが語っておられたので、書く気になった。フィリアは普通に好きであるということで、その言葉はphilosophy(知、つまりソフィー、を愛する)など、多くの英単語に生きている。アガペーは人間としての理性の愛であり、イエス・キリストの「あなたの敵を愛しなさい」の言葉で語られる愛である。

1)

この「愛」の考え方については、古い思い出がある。

大学の教養課程の時、英語の教材がエリック・フロムの「Is love an art?」であった。テスト対策に邦訳を買ったが、その題名は「愛するということ」だった。授業を受けた後だったので、すぐに題名の訳が不十分(不適切)であることがわかった。Artという言葉が訳せていないのである。

 

英語の授業では最初に、このArtはNatureに対する言葉であることを教わった。日本語では通常Artを芸術と訳すが、それを用いて「愛は芸術か?」ではフロムの本の題名としては誤訳になる。つまり、Artとは「人ゆえに持つ美しさの表現」の様な解説をされたと思う。そのArtを含む英単語にartificialがある。その和訳は「人造の」や「造りものの」となるが、あくまでもnaturalに対することばであり、安物といった日本語的感覚は元々なかった筈である。

 

つまり西欧には、「世界は、自然と人間という二つの空間に大きく分けられる」という基本的考え方があるのだろう。日本には、そして多分東アジアには、人間は自然の一部という考え方がある。オリジナルな神道(例えば御嶽信仰や白山信仰など)などはそれを明確に示している。

 

大学教養部の講義の中で現在まで残ったものである。専門につながる数学や自然科学以外では、この英語の授業以外はほとんど何も残っていない。

 

2)

人間の空間を自然と明確に区別するのは、一神教と深く関係があると考える。エホバ神が創造した点においては、自然も人間も順番が違うが同格であるため、自然の下に人間を置くのはおかしい。従って、人間も固有の空間を持つことになる。私は、西欧人が現代の高度な文明を創造できた理由、つまり自然を人間が対象として解析し、それを用いて高度な文明を築くことができた理由が、そこにあると思う。アニミズムの世界に生きていては、現代のような文明など100万年かかってもできない筈である。

 

「愛」に話を戻す。人間と人間の間の感情には当然好意と敵意があるだろう。英語で該当するのが、PhiliaとPhobiaであり、前者は語尾としてしか残っていないが「親しい」という意味で、後者は「恐怖心、敵意」を表し、単語としても語尾としても用いられている。これらは、化学分野のhydrophilic (親水的)とhydrophobic(疎水的)という言葉でもわかる様に自然界にも存在する。他に自然の中の異性愛として、エロスがあるが、それらは人間界特有の愛ではない。

 

そこで、人間界特有の愛としてアガぺーが持ち込まれたのだろう。創世記にあるように、神の形に作られたのが人間であるから、アガペーは人間界特有の愛であると同時に神と人間との愛でもあると思う。また、人間界は文明的空間であるから、アガペーは文明的な愛だと思う。

 

上記番組で曽野綾子さんは「理性の愛」と表現されていた。つまり、理性に照らして、義務として愛することである。それが、人間として社会をつくり、その中で充実した人生を作り上げる基本的栄養素なのだろう。

 

補足:

曽野綾子さんの言葉で印象的だったのは、「私は人を信じません。」「嫌な人でも、その人を愛する人がするようにすれば良い。」などであった。私は曽野さんの言葉を以下のように解釈した。

つまり、人間は神と違って不完全な存在であるから、本心を表に出してはいけない場合があるし、相手の方の本心を過剰に気にすることも慎むべきである。それらは人生において重大な失敗の原因となる。曽野さんは、西欧(キリスト教圏)の方々同様神を信じることにより、人にたいしては自由な接し方(つまり本心に拘らない接し方;大人の接し方)ができるのだろう。

日本人が子供っぽいのは、怖れる神(自然神)を持っても、信じることができる神(人格神)を持たないことが原因だろう。

 


追補: 挿画の制作と前書きの編集には、OpenAI の ChatGPT の協力を得た。

 

——高市首相は、何のために防衛費の増額をするのか? 国民に覚悟はあるのか?—— 


 

最近、中国の王毅外相が、日本の防衛予算増額(GDP比2%への動き)を捉えて「新型軍国主義」と痛烈に批判している問題について、柯 隆(か りゅう)氏は経済学者の視点から冷静に分析している。

 

王毅氏の批判は具体的な国際比較データやエビデンス(根拠)を欠いており、多分に中国国内向けのポーズであること。しかし同時に、日本国内の議論もまた「結論ありき」でデータに基づかない無責任なものが多いと警鐘を鳴らしていた。

 

 

 

その動画のコメント欄には「お前らがEEZ内に立ち入り脅しを掛けるからだろ」とか「本当に日本をその気にさせたのはチャイナです」などの感情的な反中国コメントが散見された。そのため、私はそれらのコメント主の方々への警告の意味も込めて、以下のようなコメントを投稿した。

 

日本の軍事力増強の前提として、ウクライナのように米国の犬として動かない真の独立国を明確に目指しているということがあるべきです。その一つとして、中国やロシアとの対話を継続することは必須です。高市政権にそれがないのなら、つまりこれまでと違って積極的に米国の犬として戦う姿勢なら、それは新型軍国主義のための軍備増強といわれても仕方ないと思います。孫崎さんは米国の恐ろしさを知っていると思います。

 

1. 柯 隆氏が指摘した元外務官僚のCCTV発言とその真意

柯 隆氏は上記動画の中で名前こそ伏せていたものの、元外務省国際情報局長であり『アメリカに潰された政治家たち』などの著書で知られる孫崎 享(まごさき うける)氏が中国の国営放送(CCTV)の取材に対し「防衛費増額が日本経済に大ダメージを与える」といった主旨の発言をしたことを紹介している。

 

柯氏はこの発言に対し、具体的な財政出動のデータを示さない感覚的な発言であり、海外の視聴者をミスリードしかねないと指摘している。データや論理を欠いた批判は、かえって本質を見誤らせる原因となるからであるという意見は真っ当である。

 

しかし、孫崎氏は元外交官であり、経済の専門家ではない。その事実を踏まえるならば、彼の発言の背後にある意図をもう一歩深く考えるべきではないだろうか。つまり孫崎氏は、東アジアの情勢が緊迫する中で、「日本国内にも現高市政権の政策に反対する意見が確かに存在する」という事実を、中国国民に向けてあえて示したかったのではないか。

 

孫崎氏は、名著『アメリカに潰された政治家たち』(河出書房新社)で知られる元外交官だ。同書には、石橋湛山や田中角栄といった「自主独立」を掲げた政治家たちが、対米追随からの脱却をいかに図り、そしてアメリカによっていかに潰されてきたかが冷徹に記されている。

 

そうして自主派の政治家たちがすべて葬り去られた後に残ったのが、「不沈空母」発言で知られる中曽根康弘氏らを筆頭とする米国盲従型の政治家たちである。孫崎氏のCCTVでの発言を「不適切だ」と批判するのは簡単だ。しかし、彼を批判できるだけの独立自尊の資格を持った日本の政治家など、今の長田町にはほぼ皆無だと言わざるを得ない。

 

2. 防衛力増強の「主体」はどこにあるのか

ここで我々は、さらに一歩踏み込んで考えなければならない。それは、「その軍事力増強の前提として、日本はウクライナのように米国の意向のままに動くのではない、真の独立国を明確に目指しているのか」という点である。

 

もし日本にその国家ビジョンがなく、単に米国の対中・対ロ包囲網の戦略に組み込まれ、その肩代わりとして積極的に戦う姿勢であるならば、それこそ中国側から「新型軍国主義のための軍備増強」と指弾されても弁明の余地はない。

 

真の独立国であるためには、軍備の増強という抑止力と同時に、中国やロシアといった近隣諸国との対話チャンネルを継続・維持する外交努力が必須である。

 

もちろん、現在のアジアの知政学リスクを鑑みれば、米国との同盟関係を完全に断ち切ってしまっては日本の生存は成り立たない。アメリカの冷徹な戦略に一定の範囲で同調しつつも、いかに日本の国益を守り、自立性を保つかという高度なバランスが不可欠なのだ。

 

それが出来ない内閣であるならば、日本国民はその政権に対して明確に「NO」の意思を示すべきである。手遅れかもしれないが、唯一日本を救えるのは、日本国民一人ひとりの政治に関する深い関心と主体的関与だけである。

あとがきを兼ねて:日本が「まともな国」になるために

国家の安全保障は、最前線の兵器(ハードパワー)だけでなく、米国内などでの緻密なロビー活動や世論形成といった「ソフトパワー」が勝敗を大きく左右する。しかし、日本のこの種の活動はあまりにも戦略性に欠け、脆弱である。

 

イスラエルは言うに及ばず、台湾や韓国などの国々も、まさに国家の生存や実利をかけて米国内で凄まじいロビー活動を展開している。日本も多額の予算を投じてはいるものの、その多くは「摩擦回避」や文化プロモーションにとどまっているのが現実だ。

 

政府の発信力や外交センスの低さを嘆くだけでは何も変わらない。動画のコメント欄を見渡しても、こうした政治的・地政学的な構造の本質を見抜く声は極めて稀であり、感情的な思考停止や知識不足が目立つ。

 

国の防衛力は、防衛費の金額や自衛隊の規模だけで表せるものではない。世界情勢を冷徹に見つめ、大国の思惑に流されず、自国のあり方を自ら考える主権者がどれだけいるか——その国民の意識の高さこそが、国の最大の防衛力であり、真の独立への第一歩なのである。

 


付記: 本稿は、生成AI(Gemini)との共同作業として執筆したものである。特に、各国のロビー活動の比較検証およびその実態の調査においては、Geminiによる知見と言語化のサポートを大きく反映させている。