稲荷の御用を越えていく | かんながら

かんながら

旅の記録です

ずっと見つからないと思っていた最初の「かんながら」を和魂の方のブログにあるのをようやく発見した。

 

美志摩かなは振り返りでこんな記事を書いている。

 

 

 

 

しかし、筑波山に行った記録がない。

 

 

 

でも時がきて、ついに発見した。

稲荷の御用の最初のピース。

 

 

 

 

まだ伊勢平氏おじさんとふつうになかよしご近所さんとして付き合っていたころ。

だから「美志摩かな」はまだいなかった。

 

 

 

 

行き先が、笠間稲荷神社で、筑波山に丹後の神人に代参を頼まれていくんだけど、

そこで朝日稲荷神社に行っている。

 

明らかに「稲荷の御用」につながってる。

 

だって、「天気の子」の舞台は、代々木のビルの上にあったことになってる「朝日稲荷神社」なんだから!!

 

 

御用の最後に代々木駅に降り立ってて、月と木星が輝いていたっていっている。

 

だいたいこの日、代々木の不動産屋のおにいちゃんに「天気の子って知ってますか」って聞かれて、

「知らない」って答えた。

当時は知らないからスルーした。

 

 

その後、まさに「天気の子」そのものの、「稲荷の御用」にからめとられていくことにも知らずに。

 

 

そのまま内見に行って部屋を決めた。

しかもその部屋に入れるのは11月だっていうのに。

伊勢平氏おじさんに「小さなしあわせを大切に」ってメッセージがきたっていったのもこの頃。

 

あの代々木の部屋に引っ越すまではすべてがうまくいっていたのよ。

伊勢平氏おじさんはそのまえに、やきとん屋で「炎に焼かれたくまさんをみたとき」におびえて逃げる決心をしていたみたいだけどね。

 

 

 

 

 

11月の入居予定で9月の上旬に部屋を契約するなんて、明日の予定を決めていない今の私にはありえないことである。

でも、あのときは安定した未来をみていたから2か月先まで確実に私の人生はちゃんとつながって展望があったのだ。

 

たしかに人気物件は、「空き予定」で契約しないとって事情がある。

でもこのパターン、思い起こせばわたしの記憶から抜け落ちている、阪神淡路大震災の直後に最初の夫と円満別居したはずの時と同じだ。30年のときを経て、わたしは同じ選択をしたってことである。

 

 

日にちからして、なにわの審神者に出会う直前。

やっぱり丹後だった(謎)。

 

 

 

朝日稲荷神社のご祭神は、写真をみると大宮姫だ。

どおりであるとき、なにわの審神者が「大宮売神社が重要」っていってきたわけだ。

ちゃんとその後いって、考古学をやってたっていう人から、がっちり資料をもらった。

 

 

なんかここに、「丹後」は昔は、「旦ご」だったって書いてある。

 

 

で、そのときにみた「ブルーのガラスの腕輪」と同じブルーのガラスのビーズを、神隠しで遭難しそうになった近つ飛鳥でみることになったのである。

記録にはないけどね。

ついにamebloアプリがおちて、いつものように写真をつけて書けなくなったから。

 

 

 

 

銀座の朝日稲荷神社の朝日稲荷縁起によると

 

朝日稲荷神社は古来より当地に鎮座し、守護神として厚く奉斎され、遠近の崇敬を集めていた。 しかしながら、安政の大地震により社殿倒壊し、三十間堀に幽没して以来、社地は荒廃し浮浪の徒付近に散集して見るかげもなかった。 

 

大正6年、銀座を襲った大海嘯によって、三十間堀より霊体が顕れ、建築業館岡其が当地に奉安したが、関東大震災により転地を余儀なくされ、神社は銀座三丁目町会の奉斎するところとなった。町内崇敬者一同神威を畏み奉り、町内守護神として奉斎しようとしたが、当時社地は東京市有地に編入され、東京市の管理化にあった。三丁目崇敬者は時の東京市助役を訪ね、社地の下附を懇請したが叶わなかった。しかしながら、土地使用黙許の許可を得、社殿が建立され、社地は整えられた。初午が盛大に祝われ、縁日は四丁目の出世地蔵尊のそれと伍して多くの人々を集めた。こうした、町内守護神として広大な神徳を顕わすにいたったが、戦災のため社殿はことごとく烏有に帰した。

 

とある。

 

つまり、三十間堀っていう場所に、古くからご近所のみなさんの崇敬厚く祀られていたけど、安政の大地震で社殿が壊れてそのままになっていたところ、大正6年にものすごい高潮がきたことがきっかけで霊体が浮かび上がって、祀りなおした。

でもまた第二次世界大戦で廃墟になってたのを再興したってところかな。

 

 

で、大正6年(1933年)の大海嘯(かいしょう)とは、

 

Wikiによると

1917年(大正6年)9月25日フィリピン東方で発生した台風は、29日大東島付近を通過、30日夜半には近畿地方に大きな被害をもたらし(後述)、同日のうちに静岡浜松の間を通過して、10月1日に関東地方を南西から北東に縦断。その間に首都の東京を直撃した[3]。東京都心では最大風速43m/s・日最低海面気圧952.7hPaを記録し[3]、うち日最低海面気圧の最低記録は現在でも破られていない。台風はさらに東北地方北海道を縦断、各地に集中豪雨をもたらし10月2日オホーツク海に抜けた。

全国的な被害は極めて大きく、近畿地方以東を中心として3府1道25県に及んだ。死者・行方不明者数1,324人[3]、負傷者約2,000人[4]、全壊家屋43,083戸、流出家屋2,399戸、床上浸水194,698戸を数え、1891年明治24年)の濃尾地震1896年(明治29年)の三陸大津浪に次ぐ大被害となった。

東京湾接近時には、折しも満潮の時刻と重なり、東京の京橋区深川区本所区などの東京湾沿岸域や隅田川沿いの区部は著しい被害をこうむった。前後2回にわたって高潮が押し寄せ、佃島月島築地品川深川地区などが浸水。月島、築地、洲崎方面の増水が激しく、多くの人が溺死した。東京府の死者・行方不明者数は日本全体の半数近くの563人に上った。

千葉県の東京湾岸一帯にも被害を及ぼした。浦安町は全町が水没した。江戸時代を通じ、幾多の水害をくぐり抜けてきた行徳塩田堤防が完全に破壊され、これをきっかけに東京湾で行われてきた塩田による製塩業の数百年の歴史は事実上幕を閉じた。

 

 

とある。

最近仕事が月島、築地方面多いから御用ってわかってたけどね。

品川もちょっと前連続で仕事にいった。

あそこも閉じられた稲荷があった。

 

深川あたりがきそうだけど、私よほどの好条件でなければあんな遠いところバイトに行きませんからね!

実際すでにもう川からも何度か通ってる。富岡八幡宮。

相撲の碑だしたからもういいでしょ。

 

 

 

 

 

相撲の碑を揮毫したのは、太宰府天満宮関係者で、遣唐使が必ず立ち寄っていたという六度寺をたたんだ宮小路康文氏だよ。

出雲(太陽)VS肥後(月)。

 

なんで肥後が月?

それも美志摩妄想で考察したよ。

 

月代の宮には尚氏がいたからね。古くからいて誰もお詣りしなくなったカマドの神のところに。

 

 

 

 

で、やっぱり消えたみたい。

肝心なことは。

 

 

 

 

 

安政の大地震が朝日稲荷神社が崩れた最初なんだけど、

安政といえば、安政の大獄とかで、時代の変わり目だったときなのよね。

 

 

どおりで、「トラフが」って話をずっとされてたのが理解できたよ。

安政の大地震というのも「トラフ」だったみたい。

 

 

wikiにこう書いてあるもの。

 

「安政の大地震」はこのような幕末の多難な状況下で討幕運動に呼応するかの如く連発した大地震であった[22][23][24]

 

つまり倒幕運動と連動させてる。

 

 

 

神さまが起こした、ってことになるんだろうけどね。

 

違うよ!!!!

 

 

 

このあいだ紹介されたショックドクトリン。

 

 

 

 

詳細は書いてないけど(たぶん書いたのに消えた)、

そもそも、天変地異で人の心が乱れたら、それを虎視眈々と狙ってて、利用する輩がいるわけよ。

 

そして、純粋な人ほど「神様がお怒りじゃ!」みたいにあっさり騙されるわけ。

 

 

わたしだって、今思えば阪神淡路大震災のあと、完全に自分が壊れた。

そこを誰かの思念に乗っ取られた。

 

伊江島で。

 

で、わたしはすべてを棄てて東京にくることになった。

その顛末をちょっとまえ、今のわたしの記憶の最初の場所、伊江島にいって振り返っている。

 

 

 

そのあたりから、だんだんわかってきた。

わたしはあのとき「マブイ(魂)を落とした」んだって。

そして、そのマブイは、単に落としただけじゃなくて、誰かに拾われて利用されてた。

 

ラグビーボールかサッカーボールか知らないけど。

最近考察してたでしょ。

 

どうも私の周りにはサッカーチームとラグビーチームがいて、

サッカーチームは蹴る(ちょっかいだす)だけ、ラグビーチームは、落とさないように仕事くれたりしてる、って。

 

でもおかしいのよ。

ケープタウンに住んでたとき、イギリス人が、サッカーは黒人のスポーツって差別的発言していたけど、

サッカーチームはなんか王族・貴族系(陸軍系)のにおいがするのよね。

 

一方、ラグビーチームは、やんちゃな海人族系で、海軍のにおいがする。

 

どういうことなんだろ?

 

 

 

で、今朝、六根清浄大祓が、浮かんだ。

わたし六根清浄大祓を毎日唱えていたんだけど、あるとき

「すべて他人せい」って感じが嫌でやめた。

 

でもあるとき、なにわの審神者が「それを超えたところに境域の守護者と同じものがある」って言ってきたことを思い出した。

 

それが、この記事。

 

 

伊勢平氏おじさんのこの先に、きっと裏切りがあるって予感してて、それを、

 

 

今はわたし、受け入れられそうな気がする。

 

産土神の懐に抱かれてうまれてきたわたしが、

諸々の不浄をみているだけなんだなって、わかったから。

 

 

 

はじめて伊勢神宮で御垣内参拝が叶った時に、

「わけみたま」って言葉がうかんで、さらさらと清らかな風とひかりに包まれたことを振り返ってこう書いている。

 

 

わたしの中には、あの清らかな「わけみたま」がいつもある。

どんなドラマの中に迷い込んでいたとしても。

 

 

って書いている。

 

 

わたし、今度こそ夢に翻弄されずに、自分の現実という幻想の空間に、生きた証をつくっていかなきゃね。

この、限りあるいのちと身体をつかって。

 

 

筑波山もなんだか、三輪山と大神島に似てるなぁ。

そういえば、ツインピークスだったね。筑波山も。