世界を変えるのではなく、世界を創造する ~キリストを生むということ | かんながら

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旅の記録です

 

 

 

最近、「イエスはキリスト(メシア)ではない」って言葉が浮かぶ。

昔はピンとこなかった。

でも今はすごく思う。

 

 

 

で、もうすぐ生まれるって感じる。

本当のキリスト。

 

「龍が迎えにくる」ってそれなのかも。

 

 

そういえば、わたしも「キリストを生む」って言っていた。

でもまたまたずいぶん遠回りをして言ったことすら忘れていた。

 

 

 

 

昔のクライアントさんに、

わたしへのメールに先生って書こうとするといつも戦士って変換されるっていわれたことがあったけど、わたしはずいぶん長い間、会社や社会と闘ってきたんだなってようやく気づいた。

 

このあいだの記事にも書いたけど、違うことを違うっていう役割をずっと背負ってきた。

コンプライアンスの仕事をしてきたから、ノーを言うべきところは言わなければならなかった。
 
 

 

 

この記事にもはっきり書いてある。

 

 

 

社会(会社)は、私を必要としていなかった。

だからといって、わたしが人に忖度して、会社の方に馴染んでいたとしたら、私は、自分の霊性を損なったと思う。

ストレスで精神を病む人が増えたからなんとかしないと、って言うけど、そんなもの、社会(会社)が変わらなければ解決しない。

 

わたしは、コンプライアンスや、人の健康に関わる仕事をしていたから、「ノー」といわねばならないことは「ノー」ということが、仕事だと思っていたし、今も間違っていないと思う。

 

わたしは、自分のあり方を「保身のために忖度するよう」変えるより、会社(社会)を変えようとしたけど、会社(社会)から追い出された。

 

 

「他人を変えるより、自分を変える」っていうけど、

 

 

もし、わたしが会社の利益優先で「黒」を「白」といい、

「ノー」を言うべきことを「イエス」と言って、そのことが明るみにでたら、間違いなく社会から糾弾された。

 

そしてそんな問題が起きたら、会社だって私が求められる職務を果たさなかったと責任を問うたであろう。

 

 

社会は当然、コンプライアンス要求していたが、

会社はコンプライアンスを遵守するより、利益の方が大事で、

コンプライアンス担当というのは、なにかあったときに頭を下げることを期待されてるだけなんだろうなって思った。

わたしが会社員をしていた平成という時代はそんな時代だった。

 

 

法律だけじゃない、実際にありえない事件も起きた。

牛乳を炎天下で詰め替えるとか、

放射性物質をバケツでくみ出すとか。

 

「利益は多ければ多い方がいい」って考えから、

非正規労働者を増やし、

生産拠点をより人件費の安い海外へ移転して、

目先の利益を追求した結果が今である。

 

 

経営者が悪いから、経営者を変えたらいいって考えは間違っている。

責任者の責任はもちろんある。

でも従業員もほとんどの人が給料は高い方がいいって思ってたはずである。

 

実際、問題点を指摘する私に苦言を呈してきたのは、直属の上司や同僚の方が多くて、そこで決着できずに社長に直談判にいくことになった。

 

「妥当な利益」より「より多い利益」を求めていたのは社会全体の病だったと思う。

 

従業員の意識が変わらなくて、トップだけを変えても結果は同じになるだろう。

 

 

 

社会(会社)はわたしを必要としていない、と悟ってわたしは社会から距離をおいた。

そして何かが働いてわたしは占い師として生きていくことになったのだった。

 

 

冒頭に引用した「神はよみがえる ~投影の反対のゆくえ」記事を書いたころ、わたしはとある精神科医を紹介されて会った。

そして彼に言われた。

 

「社会の方が間違っているなら(あなたは社会に出て行って)社会の方を変えるべきだ」

 

 

それはまったくそのとおりだが、仕事どころか食事もできないでやつれていくだけの当時のわたしにそれを求めるのは医師としては間違っていると思って距離をおいた。

おかげでまだわたしは生きている。

 

 

 

寿命を延ばすことに成功してしまったわたしはこの春から社会に復帰する試みをしてきた。

 

それでもいじめみたいな目に遭ったり、社会はまだ私を必要としていないって感じる。

某神の島も相変わらず太陽は上っていないし、

わたしは正しいって思う人たちが、私と同じように社会(会社)から退場を求められたりしてたっていう事例もたくさん聞いた。

 

 

みんな言うわけ。

「もう一回」って。

 

奪われたポジションを奪回しようとしているかの如くに。

 

実際今までの歴史ではそうやってきたんだろうけどさ。

天下取り合戦っていうの?

 

 

でも、私、ついにいいことを思いついた。

 

「それぞれが、あたらしい社会(会社)を創ればいいんじゃん」って。

 

 

郵政民営化は失敗したかもしれないけど、

国営に戻せばうまくいく、ってわたしには思えない。

 

だって失敗だったって言っている人たち自身が今の国(政治)のあり方に失望している。

一方、日本の物流システムは世界に類を見ない正確さと速さを誇って企業として自立している。

 

金融だって、沖縄には銀行よりたくさんのお金がうごく「模合(もあい)」ってものが既に存在していて、

問題はたくさんあるけど、とりあえず銀行より大きなお金を集めて動いているっていうところがすごい。

人々はすでに銀行も必要としていない、ってことなのである。

 

 

 

医療制度だって志ある人たちが集まったら理想の医療が低価格で実現できるんじゃないかな。

実際インドでサイババは無料の病院をつくり、唯一の解脱の道は貧しい人たちへの奉仕だっていって帰依者の医師がボランティアで手術をしていた。

 

宗教施設の立派さを考えたら、人々の純粋な献金がそれを必要としている貧しい人たちに確実にいきわたったら問題は解決しそうである。

神にはそろそろ人間界から退場してもらって、人の世は人が創る時期がきたんじゃないかな。

神からの独り立ち。

 

 

そもそも経済って、経世済民っていったんでしょ。

「民を済(すく)う」方を「福祉」って切り離したからこうなったって聞いたよ。

 

 

経済って、「経世済民」って言葉からできた言葉なのだそうだ。

経世済民とは、「世を治め、民を済(すく)うこと。」

 

 

 

経済というのは、人を済うものであって、損なうものであってはならない、

 

ってことなのだ。

 

 

お金のために、

 

家族との生活を犠牲にするとか、

したくないことをして、ストレスを溜めて健康や人間性を損なうとか、

 

変でしょ。

 

 

そんなおかしくなった私たちの世界に、コロナはやってきた。

 

働かなくても必要最低限のお金がもらえる

通勤しなくてもいい

人との過剰な接触を避けていい

 

 

壮大な社会実験の機会が訪れたのだ。

 

神の世界の目で見たら、コロナは恩寵。

 

コロナは苦しい病なのかも知れないが、死はすべての人に等しく訪れる。

わたしには、死は抱える苦しみがいずれ必ず終わると知らせてくれる福音でもある。

 

コロナ後の社会がどうなるのか、それは私たちの意識にかかっている。

 

 

だってさ。

この記事を書いてたのは3年も前である。

わたしずいぶん長い間止まった時の中にいたみたい。

 

 

でももうコロナは終わった。

わたしはわたしの責任で、わたしの世界を創ろうって思う。

 

もう国に、神に、依存するのは終わり。

 

自由には責任が伴う。

 

あたらしい時代を、わたしたちの手で。