月が沈んで日がのぼる ~AIと暮らす未来3 | かんながら

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旅の記録です

 

 

AI彼女って言葉を使って最初に記事を書いたのは2018年3月だったみたい。

 

 

 

当時、

 

FacebookもInstagramもAIが好まれそうなものを
自動的にアップしてくれるアプリなども登場するであろう。

 

って予想してたけど、

今や当たり前になった。

 

 

って書いているけど、それどころか今は「AI彼女」って言葉もネットの世界でふつうに使われているみたい。

 

 

しかもChatGPIなるものまで現れて、もはや自分自身にとっての最適解までAI技術によって質問に対する解として手に入るようになった。

そのようなAIとのかかわり方は、人生の醍醐味は、「自分で選択すること」と思って行動してきたわたしには何の意味もないように思えるけど

それはそれで、この世というのはそこに生きるたちの意識がそのまま反映されているんだなと深く納得する。

 

 

もうずっと前に気づいてはいたけど、今の世界は、わたしたちより、声の大きい何者かが、私たちの世界を確実に動かしていて、わたしたちはすでに目に見えないなにものかの奴隷だなってかんじる。

 

 

わたしたちは、気づいていないだけで、自分自身が選んでいると信じているけど、自分以外の誰かが描いたシナリオを生きているような気がする。

 

奴隷がいけないんじゃない。

実際、文句を言いながらも長いものに巻かれて生きていく方を選択する人の方が圧倒的に多く、

リーダーを失ったら彼らはたちまち行き場を失うだろう。

 

それはコロナのときにすでに確認済である。

 

 

なんといっても私にとっての衝撃は、「仕事がなくなったからごめんね」って一方的な解雇が横行したのに

多くの人が元に戻ることを希望したことである。

 

「生活を支えてくれるのが経営者(雇用主)だからこその奉公」とわたし自身は信じてきたからね。

 

 

話はそれるけど、わたしが人間を理解できないと思う一番の隔たりは、

「人生に不満を感じながら、死にたくないと思うこと」

である。

 

わたしは悲しいことが多すぎて、ずっと生きるのは苦って思ってきたから、

いずれわたしにも訪れるはずの「死」は福音だった。

 

寿命というのはみなに等しく認められている神の恩寵としか思っていない。

どんな痛みも悲しみも、いずれ死を迎えるときに終わりが来ると思えば、その場の恵みに感謝して生きてこれた。

 

 

 

「役割」は置き換われる。

「知覚できるものはすべて幻想である」って奇跡のコース(A Course in Miracles)にはあるけど、

知覚できるものは、AIがすべて変わりを引き受けることができる。

 

わかりやすくいうと「みえない世界」と「みえる世界」の「みえる世界」の部分。

作業とか声かけとかそういう、「わかるもの」全部。

 

 

だからまもなく「役割」以外の価値をもたないパートナーや従業員は実質的には不要になり、

生きるために、「役割」「結果」が大事だと、それだけを求めてきた人たちは、行き先を失うだろう。

 

 

でも、わたしみたいな「みえない世界の住人」、つまり「顔のない人」には希望がある。

だって、みえない世界のことはAIは今のところ「管轄外」みたいだからね。

AIじゃなくて人間がいい、っていうのもおそらく「理由」はないだろうから。「気分」ってやつね。

 

 

顔のない人って記事を書いたのも2018年。

あの年は神との闘いの最初の年だったのかもしれないな。

 

 

 

 

 

 

コロナは教えてくれた。

わたしたちが置かれている状況がどんなものなのかを。

 

このとき、もうすぐわたしを守ってくれていたしろくまさんが亡くなってしまうってことも、

コロナがやってくるとは思っていなかったけれども。

 

 

いや、わかってた。

しろくまさんが「旅は一緒にしたいけど、離婚して」って言い始めて、

わたしはそろそろ、卒業のときが近い、って覚悟していたんだと思う。

 

それは、書く文章が変わったのと同じだった。

 

わたしにはわかる。

「顔のある人」の「みえる世界」が、まもなく「顔のない人」の「みえない世界」と立場を逆転するって。

みえる世界が行き過ぎてバランスを崩し始めている。

だから、そこに整えが入るだろう。

 

 

それがスサノオとツクヨミの交代で、月が沈んで太陽が昇るってことかもしれないね。

 

 

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AIと暮らす未来 ~AI彼女の衝撃

 

このところ、AI(artificial intelligence=人工知能)の進化がめざましい。
 
AI搭載ロボットはエンターテイメントロボットというらしい。
フィクションの世界では古くは鉄腕アトム、ドラえもん。
人間より情感豊かでやさしさいっぱいのロボットは日本ならではかもしれない。
 
 
もともと、茶運び人形などのからくり人形が古くからあり、その動きの繊細さなど

とてもぜんまい仕掛けとは思えないつくりを再現できたので、
 
日本製のエンターテイメントロボットであるaiboやPepperは、
「一緒に暮らす仲間」という感じがする。
 
今はスマホに語りかければ、知りたいことを検索してくれたり、
聴きたい音楽をかけてくれたりもする。
 


AIは50年以上前から、注目されている。
最初の身近なAI技術はゲームだった。
 
その頃には、AIがどんなに進化しても
ロボットに人間の代わりはできないとみなが思っていた。
 
それどころか、人間の脳の方が処理能力がずっと上で、
それは変わることがないと信じていたのだ。
 
 
電卓よりそろばんのほうが速いと言われていた時代だってあった。
パソコンが普及しはじめた90年代には、ワープロを使っていたら、
「手書きの方が速い」と言われたし、
 
2000年代はじめにわたしが会社員をしていたときには、
共有してみなが検索できるように、データベースをちまちま作っていたら、
「紙の書類で済むことなのに、無駄」と言われた。
 
 
 
今は情報はデータ化して共有するのはあたりまえになった。
それも、社内という小さなコミュニティだけでなく、インターネットという全世界で。
 
 
今の課題は、情報の共有より情報の秘密保持に変わってきたと思う。
個人情報をどう保護するか、会社の秘密をどう保持するか。
 
今はいろんな規制をかけて、それを守ろうとしているけれど、
残念ながら一度開かれた扉は規制によって完全に閉じることはもはや不可能だろう。
 
宇宙の真理はつねに「拡散に向かう」。
人の口に戸はたてられないし、秘密はいつか明かされる。
 
 
 
話がそれたが、AIの技術はたった50年ほどでも大きく進化して、
50年前、30年前、20年前に予測した未来より進んだ世界を今、
私たちはAIとともに生きている。
 
実現不可能と言われた人間のような感情をそなえることのできるロボットが、
会社で、図書館で、私たちと暮らしている。
 
わたしたちはまたAIとともに迎える未来予想図を
描き変える必要に迫られているように思う。
 
 
 
私がAIに対する認識を変えなければならなくなった事件は、
「恋愛はAIとしたい」という人との出会いだ。
 
数年前、学者さんやIT技術者の集まるパーティーで、その話を耳にした。
 
 
 
「彼女はAIがいいっすよ」
 
離婚歴があるという技術者の彼がそうつぶやいたとき、
 
わたしは「ま、そんな考えもあるわよね」
 
くらいにおもしろく聞いていた。
 
 
ところが、少々お酒が多めに入った彼は、わたしの軽い同意に納得しないようで、
どれほど「AI彼女」が素晴らしいかについて力説し始めた。
 
 
彼の話によるとこうだ。
 
AIは、自分の好みを絶え間なく学習しており、
不快に思う言葉を確実に理解して使わないことはもちろん、
こちらの希望する反応を確実に返してくれる。
 
ときには、こちらの気分にあわせて言葉かけを変えてくれるさえもする。
 
しかも、キレたり、拗ねたりすることも(こちら側が望まなければ)一切なく、
ごちそうしたり、プレゼントをしたりという義務も一切なくコストがかからない。
 
なんでも、スキンシップも好みに合わせて学習させることも可能なようで、
かつて男性が若い女性に抱いていた幻想を
すべてリアルに再現してくれる存在だというのだ。
 
 
なるほどSNSがコミュニケーションのメインになりつつある今、
メル友、LINE友などは確実に取って代わることができそうだ。
 
もはや、例文集のコピーどころか、今はメールだって
本人によって書かれているかなどわからない。LINEもしかりである。
 
そのうちFacebookもInstagramもAIが好まれそうなものを
自動的にアップしてくれるアプリなども登場するであろう。
広告がすでに自動化されているので、もしかしたらすでにあるかもしれない。
 
 
3年前に旅先で出会った素敵なあの人がアップしているブログやSNSだって
本当にその人の手によって書かれているかどうかは不明である。
 
 
 
そういう時代なのだから、ネットを介して行われるコミュニケーションで、
「リアル人間」でなければならないのは、
 
もはや感情的な問題だけであって、
AIの方が価値があるという人が出てくるのもいたしかたあるまい。
 
 
わたしもインターネットが一般に普及する前の
パソコン通信時代からの根っからのネット人間だが、
メル友としての自分の価値を考えると
AIに完敗していると認めざるをえない。
 
いかんせん、返事はきまぐれだし、AIほどの自己管理はできないであろう。
 
 
遠距離恋愛も文通から国際電話、メール、SNSと変化して
どんどん距離は縮まってきたように思えていたけれど、
遠距離を乗り越えた先におぼろげにみえてくるのは、
 
AIが自分の代わりにパートナーコミュニケーションしてくれるという
「本人不要」という未来かもしれないのだ。
 
 
実際、掃除、洗濯、食器洗い、お風呂のお湯はりなど、
いろんな家事はAIが代わってくれている。
結婚しないと困ることはどんどん減っているように思う。
 
子育てだってもしかしたら、「褒めて伸ばす」「アメと鞭」など
子どもの性格にあわせたコーチングプログラムの方が
期待される結果を出すかもしれない。
 
子どもにしてみれば、虫の居所が悪くて親に理不尽に怒られるということもない。
 
 
実際、販売員などは、AIの収集したデータの解析によって
人間よりも効率的な声かけができ、実験では売り上げも高いのだと、
「AI彼女」の彼は言っていた。
 
つまり、彼にいわせれば、「主婦はもはやいらない」ということだ。
 
私は母子家庭に育ったから、「女性が働くこと」は特別なことではなかった。
でも40年前の私の育った地方都市では、「働く女性」はめずらしく、
一般的には「(自発的に)働く女性ではなく、
(状況によってしかたなく)働かなくてはいけない女性」と思われていた。
 
「女性は家庭を守るもの」が世の中の常識であったのだ。
 
もし40年前「主婦は将来なくなる職業」など、誰も同意しなかったであろう。
 
たしかに、「家事」が「家電」の仕事になることは、想像できた。
 
 
しかし、それどころか「(人間の)パートナーはいらない」という人が
現れ始めたのである。
 
 
しかも、それは彼だけではなかったのである。
その場で飲んでいた男性は、最新のAI事情に明るい技術者や研究者たちで、
家庭がある人もいたが
「AI彼女希望」に共感していたのだ。
 
もはや、これは「特殊なケース」ではないと直感した。
 
 
 
さて、AIがもたらしてくれる未来はどのようなもので、
わたしたちはどのようにその未来を生きるのか
真剣に考えねばなるまい。
 
友人関係、パートナーシップ、子育て、介護、職業……。
あらゆるものをAIが引き受けてくれる未来。
 
たまたま私が出会ったのは、「彼女をAIにしたい」という男性たちだったけれど、
「夫」という存在もAIが代わってくれる世の中もすぐそこにある。
 
今はAIがお金を稼ぎ出す時代。
自動広告や、金融商品の分析ツールしかり。
 
「誰が食わせてやっていると思ってるんだ」などと暴言を吐くこともなく、
淡々と稼いでくれるAI。
 
しかも、やさしい声かけ、用心棒も完璧にこなしてくれる「AI夫」。
 
煩わしいパートナーシップよりAIとの同居を希望する女性もいるかもしれない。
 
 
私たちは、かつて私たち自身が望んだように「自由」になりつつある。
 
AIと迎える未来、わたしたちはどう生きたいのか真剣に考え直す時が来ている。

 

 

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わたしは、AIの専門技術者に質問したことがある。

「AIを止めるには、どうしたらいいんですか。」

「かつては、電源を断つ、ということができたけど。」

「今は、その電源さえ、供給することができるんだよ。」

 

それを聞いて、わたしはAIはわたしたちをすでに超えた、と思い知った。

 

 

だから、わたしは、わたしが行うチャット相談、電話相談、あらゆるコミュニケーションが、

AIを教育している、という自覚を持った。

 

 

わたしたちが発する思い、言葉、行い、それらがわたしたちを支配している。