外専(がいせん)のゲイとの出会いならMEN'S CLUB(メンズクラブ)
よく光る大きな目をしている。 ―あ、とその子は云った。 「パでハルデ″レのおにいさんだ!」呆然とした祐司に、少年は重ねて云った。 「おにいさん、おとうさんと友だちになってくれたの?」祐司は少年を見つめた。 もういちどしゃがみ込んで、目の高さを合わせた。 「こんにちは」「こんにちは」「名前は?」「外山幸太郎」少年は答えた。 「外の山に幸せな太郎」「幸太郎くんか。 いくつ?」パーにした左手と、人差し指をたてた右手が突きだされた。 その手を後ろに引っ込めて急に恥ずかしそうにする六歳の顔が、神月にかさなった。 胸がいっぱいになった。 「おとうさんは?」手を後ろに組んだまま、子供は祐司の背後をうかがった。 「おにいさんも会いたいと思って来たんだけど、お出かけしてるみたいだな」「うそだよ、来るまえにメールしたもん。 あっでも、メールしたのよりいっこ早い電182車に乗ったかも」だとすると、息子のための買い物にそのへんまで出ているだけなのかもしれない。 急に鼓動が速まるのを感じた。
タチのゲイの巣窟を発見したよ
修道院については、中世においてはそれがギリシア的、プラトン的伝統の保持される場所であったという事情を考慮に入れる必要はあろう。 それにしても、キリスト教とりわけカトリックの関係者を、何かしらまがまがしく隠微な性行動と結びつける感じ方は、民衆の心性のどこかに抜きがたく付着していると感じられてならない。 不当な言いがかりにすぎないのであろうか。 明快な言葉で「キリスト教の精神にもっとも正直に生きようとするとき、その正直者の男は同性愛にたどりついていくのだ」と言い切るのは中沢新一である。 彼が論拠とするのは、男である神に「徹底的な従順さをつらぬくことによって、完全な女性化をめざしたイエス」という視点である。 キリスト教世界とは「〈男〉と〈女性化をめざしていく男〉によってつくられる世界」であり、「ひとりのオカマとして十字架をかついでいった男の教えにしたがった人々のこころは、潜在的にアモセクシヤルな構造を持っている」というのである。 ほかならぬ「神」を「父」と呼べるのがキリスト教徒の歓びなのだ、とモーリアックは誇らしげに断じる。 人間は「神を愛するにも人間を愛するにもたった一つの心しか持っていない」のだ、とジュリアンーグリーンは好んで語る。
タチのゲイの巣窟を発見したよ
『楽しみと日々』に収められたあの短篇「若い娘の告白」を思い出す必要があろうか。 男と抱き合っている現場を母に目撃された娘が、たぶんそのショックで母が発作に襲われたのを悔いて、死を選ぶ話である。 この物語を自己の性癖と母への罪責感をめぐる、プルースト自身の心の葛藤とみることには、まず異論がない。 のちの章でゆっくり論じる機会があるが、プルーストにおいて同性愛が深刻な問題となるのは、母とのつながりにおいてである。 三人の芸術家と同性愛小説『失われた時を求めて』での同性愛のテーマについては、いろんな批判がある。 もともとこんなに大つぴらにゲイたちを小説に登場させるべきではなかったという主張から、同性愛傾向の人物が過度に異様かつグロテスクに描かれているという批判、それにプルーストあるいは作中の話者が終始、他人ごととしてこの問題に対しているという非難まで、意見はさまざまである。
ベアなゲイと恋愛中!
実家の離れに住んでいた祖母は、自分が高校生のときに亡くなった。 離れはモダンに改築されて、わずか半年足らずだが姉のI度めの新婚生活の巣となり、それが破綻したあとはピアノ教室として使われた。 じゃあ、さっきの天井は。 もしかして。 もしかして俺-死んだ?そろそろと顔をだしてみる。 正面に本棚があり、右側は無地の襖だった。 左手の壁の窓からは、芸術写真をはめこんだような樹々の緑が見えた。 祖母の家ではない。 そして、どうやら生きてる。 なんじだ、と思い、腕時計が手首にないのに気がついた。 枕もとに置いてあった。 後ろの壁を見たら、夕べ着ていたジャケ″トが、きっちりとハンガーにかけられてぶら下がっている。 とてもまずい事態になっている。 本能的にそう感じた。 襖の向こうで足音が軋んだ。 祐司が身がまえたのを察知したか、迷うような間をおいてから襖は開けられた。 「おはようございます」祐司は黙っていた。 保健所に連れてこられた犬か何かになった気がした。
ボーイのゲイ
母親が死にぎわに発した「アンリ、おまえは私を何という目に会わせるの!」という叫びは、子供を愛する母なら、日常しばしばその息子に浴びせる非難なのだ。 「結局のところ、私たちは老いるにつれて、私たちを愛してくれる人たちのすべてを殺す。 私たちの引き起こす苦労によって、私たちがその人たちに抱かせ、たえず心配な思いにさせる、不安な愛情そのものによって」(CS、一五八-一五九)。 母が愛する子供に殺されるのだから、これは「若い娘の告白」の変奏である。 だが、家庭内の挿話としてだけ扱われた「若い娘」に比べて、こちらのほうは規模が大きい。 プルーストはオイディプスやオレストの神話を数回に及んで引き合いに出し、事件を「その上演がほとんど宗教的儀式であった、まさしくギリシア悲劇の一つ」だとみなす。 この親殺しは、けっしてけだもののような犯罪者ではなく、「人間性の高貴な典型」、「愛情深く敬虔な息子」(CS、一五七)なのだ。 問題を人間精神そのもののレベルに置くことで、プルーストは一種の「開き直り」に達したように思われる。