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たとえば冒頭に近い「就寝劇」の場面からは、前章からの継続である「ユダヤ人たる母」の問題への手がかりが得られる。 また、『ソドムとゴモラ』後半でのユダヤ人ブロック一族の放埓な同性愛的所業にしても、やはり『ソドムとゴモラ』のあちこちにある、ラシーヌの戯曲『エステル』と『アタリー』に結びつけた同性愛者たちの描写にしても、ユダヤ性なるものが思いがけず多様な意味作用を発揮することを私たちに教えるテクストである。 私たちは順次、筆を進めることにし、さしあたりシャルリュスのユダヤ性についてすこしふれておきたい。 「ユダヤ人」シャルリュスというのも、このフランス切っての名門貴族のことを医師ゴダールの妻のように、本気で「冗舌なユダヤ人」(m、四二六)だと思い込む人がいるからだ。
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「あなたを愛してる。 だから、姉貴が不幸になるのに自分だけ幸せになれないとか偽善的なこと考えてるわけじゃない。 でも、このままやっていけるとも思ってない」「どうして」「自信がないから」「嘘だ」「嘘じゃないよ」「やってけないのは祐司じゃない、俺だって云いたいんだろう」ぼくは黙った。 「そうだよ、おっしゃるとおりだ。 二十二歳のきみに恋をした。 出会ったのが十年まえでも十年先でもこうはならなかった。 三十二歳のきみを愛してるなんて、ぜったい約束できない」その瞳にすいこまれて消えてしまえるなら、そのほうがよかった。 「蟻地獄みたいだ。 ぐるぐるわけのわからないうちに、何もかも失ってる。 どうしてくれるんだよ。 離婚したら会社もきっといづらくなる。 肩身の狭い思いしてまで働きたくない。 転職先さがすのかな。 これから。 嘘だろ。 ありかよそんなの。 ぜんぶきみのせいだ」「嫌いになった?」佐伯さんは顔をそむけた。 カウンターのうえに涙の粒が飛んだ。
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「どこ行こっか。 月華?しらかわ?」瞬がラーメン屋の名前を挙げる。 。 恋人”のふりをした謝礼として、このあとおごってもらうことになっていた。 大した芝居をしたわけではない。 ころあいを見はからって登場し、ただけだるい感じで煙草でも吸っていてくれれば、というので、そのとおりにしただけだ。 瞬の演技はみごとだった。 「君が好きだよ。 でも、そのことと感じるってこととは別なんだ。 俺はやっぱりこいつ(ぼくだ)じゃないとダメなんだってよくわかった。 何より自分をごまかそうとしてた自分が情けなくてしかたない」一気によどみなくしゃべり、最後の「しかたない」で声を切なげに震わせた。 「あのさ」ガラスにもたれたままぼくは瞬を見た。 「噂たてられたらどうすんの」「噂って」「男どうしでつきあってるって」「どうしよう。 ほんとにつきあっちゃおうか」「まじめに答えろよ」「たたないよ噂なんか。 あの子いい子だもん」「いい子なのにフ″ちゃったわけね」「いろいろあんのよ」瞬は気持ちよさそうに天井へ煙を吐いた。 店の外へ出ると、すきっ腹も凍りつく風が吹きつけた。 寒っ、と肩をちぢこめる瞬は笑顔で、木枯らしさえおもしろがっているみたいに靴を鳴らす。 ぼくはただ亀のしぐさでマフラーに顔を埋めた。 気の早いクリスマス騒ぎの渋谷を、青白い三日月が見下ろしている。 やっぱ帰るわ、と云ったら、瞬は細長い身体を折り曲げて覗きこんできた。
ガチムチパンツレスリングの兄貴
ヴィルヘルムニ世はそれまでの平和主義から一躍、好戦的な姿勢に転じるから、第一次世界大戦の遠因をオイレンブルク事件に見出す歴史家もいる。 この事件は、フランスでも逐一報じられた。 何しろ当事者は、詩人にして作曲家でもある、平和愛好の親フランス的な外交官なのだ。 かつての敵国での大がかりな醜聞を、面白く眺めるという部分も加わり、人々はオイレンブルクの話で持ちきりであった。 事件を扱った本がベストセラーになる。 「オモセクシュアリテ」というドイツ渡来の耳慣れない言葉が、民衆のあいだに広まる。 ドイツ側にすればフランスびいきの優男の悪徳であるものが、フランス人には「ドイツ人の悪徳」とされる。 ベルリンは「ソドムーシュルーシュプレー」(シュプレー河畔のソドム)との異名を取った。 「ドイツ語をしやべりますか」という問いかけがゲイのあいだの、相互確認の合図だったという話もある。 ここには、クラフトーエビングやヒルシュフェルトなど高名な性科学者がドイツで出たこと、ゲイの権利獲得運動もまたこの国で最初に起こったこと、などの連想も加わる。 このあとも、「ドイツ」と「同性愛」は近しい観念でありつづけるだろ樋・プルーストとオイレンブルク事件『ソドムとゴモラ』に、シャルリュスがこの事件に言及するところがある。
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二つ(あるいは三つ)のヴァージョンから成り、この女が死んでしまったとするのも、主人公シャンがたまらなくなって彼女に接吻するのもある。 この女性は『失われた時』でのやはり不可解な女、ピュトビュス夫人の小間使の原型とみなすこともでき、まず間違いなく現地でのプルースト自身の体験を踏まえているといわれる。 そういえば、第一ヴァージョンの冒頭にどうやら男娼らしき男たちの姿がちらつく。 この女がどうして修道院暮らしをするにいたったかは何も書かれていない。 これは未完成の断章に近く、もしかして「ジャンーサントゥイユ」のために書かれたのではないのかもしれない。 プルーストはいったいどのような意図をこめてこんな挿話をしたためたのであろうか。 修道院に入っても消えない女の欲望の激しさが問題だとも(「彼女の欲望の最後の痕跡は、その生命の最後の名残とともにしか去っていかないだろう」Js、八五〇)、逆にかつての馴染みを修道院にまで追いかける、男の執着のほどを示したいのだとも考えられる。 僧衣の下に情熱をたぎらす、昔ながらの「尼僧の恋」のテーマがここにあるのかもしれず、男からみて、喪服の女性と同様、修道服をまとう女は格別の魅力を放つのかもしれない。