タチのゲイの巣窟を発見したよ
修道院については、中世においてはそれがギリシア的、プラトン的伝統の保持される場所であったという事情を考慮に入れる必要はあろう。 それにしても、キリスト教とりわけカトリックの関係者を、何かしらまがまがしく隠微な性行動と結びつける感じ方は、民衆の心性のどこかに抜きがたく付着していると感じられてならない。 不当な言いがかりにすぎないのであろうか。 明快な言葉で「キリスト教の精神にもっとも正直に生きようとするとき、その正直者の男は同性愛にたどりついていくのだ」と言い切るのは中沢新一である。 彼が論拠とするのは、男である神に「徹底的な従順さをつらぬくことによって、完全な女性化をめざしたイエス」という視点である。 キリスト教世界とは「〈男〉と〈女性化をめざしていく男〉によってつくられる世界」であり、「ひとりのオカマとして十字架をかついでいった男の教えにしたがった人々のこころは、潜在的にアモセクシヤルな構造を持っている」というのである。 ほかならぬ「神」を「父」と呼べるのがキリスト教徒の歓びなのだ、とモーリアックは誇らしげに断じる。 人間は「神を愛するにも人間を愛するにもたった一つの心しか持っていない」のだ、とジュリアンーグリーンは好んで語る。