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また『ソドムとゴモラー』の冒頭を飾る、有名なヴィニーの詩句「女はゴモラを持つであろう、男はソドムを持つであろう」のように、彼のなかには男女両性間の対立と敵意にこだわる部分が確かにある。 だがプルーストの人間観において、性の境界はさほど強固な障壁ではない。 眠ってしまえば、人は「原初の人類のように」両性具有に戻る(m、三七〇)。 現に、男性である話者は、眠りぎわのおぽろげな意識のなかで女を産んだように錯覚し(I、四)、スワンの夢のなかでヴェルデュラン夫人は口ひげを生やしている(I、三七二)。 十三、四歳ころのプルーストは「質問帳」の問い、「文学作品で、あなたの好きなヒロインは?」に答えて、「女性の範囲を出なくても女以上である人たち」と書いた。 彼が二十歳を過ぎてから行なわれたとおぼしい同種のアンケート、「彼自身によるマルセループルースト」には、こんな問答もある。
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「『フェードル』ほどボードレール的なものはなく、「悪の華」ほど、ラシーヌに、とりわけマレルブにふさわしいものはありません」(「ボードレールについて」cs、六二七)。 それどころかボードレールに比べて、「ラシーヌのほうがもっと背徳的です」。 ラシーヌの「背徳」性で、プルーストが直ちに同性愛傾向を意味しているとは言い切れない。 だが、シャルリュスがほのめかすような(H、一二二)、『アンドロマック』や『フェードル』での近親相姦的な情熱と並んで、いくらかは、「女」であったラシーヌに隠れた性向を想定しているのだと考えることはできる。 『ソドムとゴモラー』には同性愛の連想を誘う作家として、ボードレール、ウォルター・スコットと並んで、ラーファイェット夫人とラシーヌの名があるのだ(m、二五)。 やはり「女」であるシャルリュスが、ラシーヌをいたく愛するのももっともなのであろう。 イスラム世界の寛容さこのようにみてくると、第一印象としては滑稽で、場違いの感さえ与えかねないラシーヌ劇の引用を、私たちはまるでボードレールの「レスボス詩篇」ででもあるかのように、読まねばならないことになる。
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芸術家的素質と創造そのものとのあいだには、やはり径庭がある。 こういった事情にもまして、シャルリュスの才能に寄与するナルシシズムが、一面では彼が創造者たることにマイナスに働いたのだという仮定も成り立つ。 確かに、日常の生活では虚しく失われていく個性の実感を、イメージの世界で回復するのが芸術本来の役割だとプルーストは考える。 だが、こうした、他に還元できない自分自身のヴィジョンと感受性を重視する考えを裏打ちし補完する形で、プルーストには己れを空無化する思想があることを、ここで思い出す必要があるだろう。 一九〇四年刊行のラスキンの翻訳『アミアンの聖書』の序文では、原著者の意見を紹介しながら「詩人は一種の書記であって、自然が口述するとおりにその秘密の多かれ少なかれ重要な部分を書き取る人間である」として、「芸術家の第一のつとめはこの崇高なメッセージに、自分で作り出したものを何一つ付け加えないことである」(cs、11)と論じる。
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『ゲルマントのほう』に、ブロックにふれて「種族の感嘆すべき強力さ」を論じる箇所がある。 数世紀の時間を隔てても「種族の永続性」はなおも働きつづけ、ブロックにそれとわかる特徴を添えているというのだ(H、四八八)。 ミングルグリュンが指摘したように、詠嘆と列挙のレトリックを駆使したこの一節は、それと気づかれぬまま社会のあらゆる場所でユダヤ人が進出するさまを語って、同じように同性愛者の遍在を説く『ソドムとゴモラー』のIページ(m、一九)にはなはだ似通った口調をおびる。 まるで種族の同一性も同性愛者のそれも、時間と空間の広がりを超えて、有無をいわさぬ力で個人に働きかけるかのようだ。 罪責感と免責への希求とのあいだを揺れ動きながら、ついに自己の性向を表面に出すことがなかったのがプルーストである。 卑怯といえば卑怯な姿勢であろう。 彼の同性愛意識をあきたらないとする意見があとを絶たないゆえんである。 たとえばシードは、プルーストの自己防御や偽装をきびしく批判し、彼のことを「隠蔽の偉大な巨匠」とまでいう。
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だが精神医学による同性愛の研究も、正常と異常との峻別にこだわり、同性愛者を病人扱いにする限りにおいて、結局は、国家と社会による抑圧を補完する役割を演じるものでしかなかった。 なかには、マグヌスーヒルシュフェルトのように一八九七年、「科学的人道主義委員会」を作って同性愛の正しい理解に努めようとした人もいた。 しかしそんな彼も、同性愛者を「第三の性」として一般人と別個に考える立場に変わりはないのだ。 ポールーブルーアルデルはパリ大学での講義で、狂人を扱うのと同じやり方で同性愛者に接するように学生に勧めた。 その同僚で、今日までつづく偏見の元祖の観さえあるアンブロワーズータルデュー教授は、外見や身体つきで「おかま」を見分けられるとした。 彼が列挙するリストは有名である。 「カールした髪、メイクを施した顔、形を浮き立たせるようきつく締め付けた腰、この上もなく強力な香水の匂いを発散する全身、(……)そして手には、ハンカチか花か針仕事。 同性愛者が示す、奇怪で不愉快な、そしてうさんくさい相貌はこのようである」。