ガリなゲイも意外とイケル
「『フェードル』ほどボードレール的なものはなく、「悪の華」ほど、ラシーヌに、とりわけマレルブにふさわしいものはありません」(「ボードレールについて」cs、六二七)。 それどころかボードレールに比べて、「ラシーヌのほうがもっと背徳的です」。 ラシーヌの「背徳」性で、プルーストが直ちに同性愛傾向を意味しているとは言い切れない。 だが、シャルリュスがほのめかすような(H、一二二)、『アンドロマック』や『フェードル』での近親相姦的な情熱と並んで、いくらかは、「女」であったラシーヌに隠れた性向を想定しているのだと考えることはできる。 『ソドムとゴモラー』には同性愛の連想を誘う作家として、ボードレール、ウォルター・スコットと並んで、ラーファイェット夫人とラシーヌの名があるのだ(m、二五)。 やはり「女」であるシャルリュスが、ラシーヌをいたく愛するのももっともなのであろう。 イスラム世界の寛容さこのようにみてくると、第一印象としては滑稽で、場違いの感さえ与えかねないラシーヌ劇の引用を、私たちはまるでボードレールの「レスボス詩篇」ででもあるかのように、読まねばならないことになる。