イノクニタンケンタイ雑用係の日月ホトトギスです。
女木島(鬼ヶ島、竜宮?)
右奥に連なるは、男木島、豊島
和爾賀波神社
難破津にそそぐ鴨部川(昔はつながっていたであろう津田川)沿い
静御前と、その子らの墓
脇には大山祇が墓を見守る
和爾賀波神社の屋根からは龍がにらみをきかす
長尾は何のしっぽ?⑨のつづきです。
長尾寺はしっぽ関係では気になりまする
「松」といえば、金毘羅大権現「松尾寺」
古語拾遺(807)「故に其のハツコ(上:商、下:衣、の字でハツコ)、今紀伊国名草郡・御木麁香(あらか)の二の郷に在り」
意味は同じで伝わったのが、ハツコを上下逆の漢字「裔」だと妄想する。
松尾寺=伊邪那美の尾(裔)の寺
奥の細道の「・・・三里に灸据うるより、松島の月まづ心にかかりて、住める方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、・・・」とは、「三里に天津久米の誇りをしっかりと保つより、松島(伊邪那美の勢力範囲)の月(月読命)を最初に思う」なんじゃないかい!?
さらに、続きは「今は、そこに住んでなく、ほかの人が居て、杉(素戔嗚尊)風(影響)が別の屋敷へ移って・・・」通して、奥の細道の「・・・三里に灸据うるより、松島の月まづ心にかかりて、住める方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、・・・」とは、
「三里に天津久米の誇りを保つより、伊邪那美の勢力範囲である倭(イの国)の月読命を最初に思う。今は、(大和に)譲り、ほかの人が居て、素戔嗚尊の影響が別の屋敷へ移って・・・」
脇道が気になる。
気になるほうへ、鬼さんこちら・・・
広場古墳群の北方にお寺があるようだ。
日蓮宗 本山 小松原山 鏡忍寺
千葉県鴨川市広場1413
グーグルマップのお寺の書き込みに「波の伊八のお墓は10年ほど前に生家に移転したと知った。」とあるのを見つけた。
なんだ、この「波」、「伊」、「八」とイ探センサーにかかる字は!
波といえば、海神
伊といえばイの国
八といえば、八面山、八幡、源氏、源満仲、神山町の悲願寺
高千穂神山は、友内山だ!と言っているのである。しかも神の山だと!神山町あるし。古事記の「爾に日子番能邇邇芸命、天降りまさむとする時に、天の八衢に居て」つまり、徳島県の八面山は、天の八衢じゃ!ということである!そして、高千穂である友内山へ天下るぞ!ってな次第
どんどん妄想の脇道へ入り込むぞ
波の伊八(なみのいはち)とは、
江戸時代後期、主に房総各地で約50の寺社に作品を納めた宮彫師。
本名は、武志伊八郎信由
江戸中期には、欄間を飾る彫刻が流行し、躍動感ある波を表した欄間が見事で、異名で呼ばれる。
1751年または1752年に安房国長狭郡下打墨村(現・千葉県鴨川市打墨)で生まれ、没年は1824年と伝。
伊八は、下打墨村で名主を代々務めた武志家の5代目。
10歳の時から彫刻を始め、躍動感と立体感溢れる横波を彫って以来、作風を確立し、同世代に活躍した葛飾北斎『富嶽三十六景』の「神奈川沖浪裏」などの画風に強く影響を与えたといわれ、没するまで意欲的に作品を造り続けた。
「波裏」へ影響を与えた可能性を唱えたのは「波に宝珠」と呼ばれる伊八の欄間がある848年~851年に円仁によって創建されたと伝わり江戸幕府から朱印状を与えられていた行元寺(千葉県いすみ市)の元住職で、旧千葉県立安房博物館の館長だった市原淳由。
その作風は、五代目伊八(高石伊八朗信月:明治23年-昭和29年)まで200年にわたって、房総南部の社寺を中心に欄間彫刻などに作品を残した。
松平頼重+龍+犬
松平頼重:讃岐国高松藩の初代藩主。高松松平家の祖。水戸藩2代藩主徳川光圀(水戸黄門)の同母兄
安房博物館の館長だった市原さんが「波裏」への影響を唱えたことは、不思議な縁があるとイ探は感じてなりませぬ。
これまでの探検で、市=虹=龍=蛇=亀=鰐。
原=海。
葛飾北斎の「浪裏」、波の裏に意味を感じてしまう。
裏=浦
鸕鶿草葺不合尊が生まれたとの伝承のある屋島の麓の鵜の羽大明神が鎮座する地、「浦生(うろ)」
浦島太郎をもなんとなく思う。
亀を助けて竜宮城へ
高松藩松平家墓地 龍亀
浦島太郎は魚釣りの恰好
山幸彦は釣り針を大槌島と小鎚島の間で失くし、神の言葉で東の島へ
東にある島は、豊玉姫を祭る豊島、男木島、女木島、女木島は鬼ヶ島と伝わる。
鬼は製鉄技術者とおもわれる。
鵜の羽大明神が見つめるのは女木島
高松市内には三石神社に豊玉姫の妹で鸕鶿草葺不合尊の奥さん玉依姫が祭れれ、4石目の鰭(ひれ)石があるとされるのは、女木島と鵜の羽大明神の間の瀬戸内海の海中。
東の島で失くした釣り針を見つける。
失くした鉄製の釣り針と同じ鉄製の釣り針をもらったってことじゃないかの。
つまり、海幸彦が持っていた鉄製の釣り針と同じものを持つ(作る)集団が島にいたってことだと。
桃太郎は、製鉄集団(鬼)を退治。兄、孝元天皇、父、孝霊天皇は渡来人を受け入れていたようなので、柔軟な考えな方だったと妄想すれば、従わなかった鬼を政治的にやむを得ず殺し、吉備に祭った。ということかな。
豊玉姫は海神(わたつみ)の娘で、竜宮に住むとされる。
真の姿は八尋の大和邇(やひろのおおわに)であり、異類婚姻譚の典型。
神武天皇(初代天皇)の父の鸕鶿草葺不合尊の母であり、天皇の母の玉依姫の姉にあたる。
豊玉毘売の「豊」は「豊かな」、「玉」を「玉(真珠)」と解し、名義は「豊かな玉に神霊が依り憑く巫女」。
真珠といえば、アマが天皇の魂を奪ったと妄想の「海女の玉とり」の志度寺縁起。
最後に海女は真珠島で果てる。
真珠島には弁財天さま、吉祥天さまを祀る。清和源氏につながる生駒氏が、弁財天、吉祥天を祀りなさいと定めている。弁財天は、河の女神。吉祥天は、北方の毘沙門天の妻もしくは妹。毘沙門天は、多聞天で金毘羅大権現。金毘羅大権現=鰐積=祖谷を北で守護
志度寺前から旅立ったのは、村上天皇の血筋と妄想の静御前の母・長町磯(磯禅師)
静御前と母磯禅師が、失意で磯の生まれ故郷に帰ってきて一時お世話になったであろう釋王寺。
そこから何度も眺めた景色だと思います。磯禅師は幼い頃両親を亡くして預けられた記憶。そして、ここから旅立った思い出と、追われる娘とまた戻って来た複雑な思い。静御前は、義経が通った大坂峠方面を見て胸をこがしたのだと妄想します。薬師如来=大日如来=天照大神と妄想。観世音菩薩=7代・孝霊天皇の皇后。(8代・孝元天皇の生母)
補陀落信仰は、南方の信仰と重なり八角形の山が重要で、仏像関係は百済経由で入り、春日(和珥)氏と摂関藤原氏、空海が関係していると妄想した。ただし、渡海が始まった年は、「応天門の変」で罪人にされた伴氏が亡くなり、しばらくして伴氏の身内ともいえる佐伯筋の円珍(讃岐出身、空海の身内)が延暦寺座主となっている。この「応天門の変」の後、武家の台頭が始まる。補陀落渡海は、神仏習合の自然信仰の那智大社は特に盛んで、智証大師円珍は那智の滝で修行し、三井修験道の起源を作っている。聖武天皇!「海行かば水漬く屍」(by大伴家持)
稲田氏は代々鎧・刀・画などの寄進をたびたび行っているが、「白人大明神」と刻まれた額も稲田主税助植春の奉納したもので、彗雲鉄啀の書になるものです。そのほか同神社に保存されている矢を入れて肩や腰に掛け、携帯する容器・箙(えびら、やなぐい)は木製で、蜻蛉(かげろう)の形の彫り物を施し、全国的にも類例が少ない。主祭神は瓊瓊杵尊・天照大神・伊弉冉尊・豊秋津姫命・崇徳天皇・源為朝。境内社には、八幡神社、天神社、神明神社。そうそうたるメンツ。豊秋津姫命とは、たぶん、「古事記」の萬幡豊秋津師比売命(よろづはたとよあきつしひめのみこと)、「日本書紀」の栲幡千千姫、一書では栲幡千千媛萬媛命(たくはたちぢひめよろづひめのみこと)、天萬栲幡媛命(あめのよろづたくはたひめのみこと)、栲幡千幡姫命(たくはたちはたひめのみこと)、火之戸幡姫児千千姫命(ほのとばたひめこちぢひめのみこと)と表記と同一かと思われる。
神名の「萬幡」=「多くの布帛」、「豊」=「多く」、「秋津」=「蜻蛉の羽のように薄い上質なもの」、「師」=「技師」(織女)、名義は、「多くの布帛で、多くの蜻蛉の羽のように薄い上質なものを作る技師」。神社に保存されている全国的にも類例が少ない矢を入れて肩や腰に掛け、携帯する容器の木製の箙は、蜻蛉(かげろう)の形の彫り物が施されている。この蜻蛉(カゲロウ)が表すのは、秋津であり豊秋津姫命(天下春命の叔母)ととれる。
源 為朝(みなもと の ためとも)とは、平安時代末期の武将。源頼朝、義経兄弟の叔父。源為義の八男。母は摂津国江口(現・大阪市東淀川区江口)の遊女。江口で、気になったのは、静御前の母、磯禅師の生い立ち孤児となった磯は、長町家の菩提寺である大谷地区の真言宗大渓山延命院釈王寺に預けられる。→その後、美声で歌がうまいことに住職が気づく。→評判となり、四国88霊場第八十六番札所補陀落山志度寺前で興行していた旅芸人傀儡女(くぐつめ)集団の目にとまり、預かりたいと申し出があり、集団が芸を仕込んだ。(この時代すでに、四国霊場88の前身となる弘法大師ゆかりの地巡礼は始まっていた)。志度寺【御詠歌】「いざさらば今宵はここに志度の寺 祈りの声を耳に触れつつ」
数え12歳のとき、傀儡女が日本一の芸妓にすべく、淀川沿いの名代の遊里・江口の里へ移る。
なんやかんやを妄想でつなげて、くっつけて投げてこねまわして竈で焼いて、こんなんできましたけど。
山幸彦=浦島太郎
竜宮城=女木島(男木島、豊島)
わたつみ鰐の住む城
乙姫=豊玉姫・玉依姫
なんじゃないかいの?