イノクニタンケンタイ雑用係の日月ホトトギスです。
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万葉集
「眉のごと 雲居に見ゆる 阿波の山 懸けて漕ぐ舟 泊まり知らずも」 船王
『古事記』に第16代・仁徳天皇の歌と伝わるもの
於是天皇 戀其黒日賣 欺大后曰「欲見淡道嶋而」 幸行之時 坐淡道嶋 遙望歌曰、『淤志弖流夜(おしてるや)、那爾波能佐岐用(なにはのさきよ)、伊傳多知弖(いでたちて)、和賀久邇美禮婆(わがくにみれば)、阿波志摩(あはしま)、淤能碁呂志摩(おのごろしま)、阿遲摩佐能(あじまさの)、志麻母美由(しまもみゆ)、佐氣都志摩美由(さけつしまもみゆ)』乃自其嶋傳而幸行吉備國。
イ探妄想訳
ここに難波天皇が、その黒日賣を恋い、皇后をあざむき「淡路島を見ようとおもう」とおっしゃり幸行する時、おわします淡路島を遥に望み見て歌にして話された。
「一面に照り光る難破の崎よ、そこに立って我が国を見ると、あわ島、淤能碁呂島、檳榔(あじまさ、ビロウ)島も見える。裂けたような島も見える。」
なので、その島を伝って吉備國に幸行できる
難破津(東から望む)
遠くに眉のごと見える山がありんす。
手前の緑の岬、難破の崎よ
あじまさ島(砂州で繋がる男島、女島)は、後ろで写ってないが、龍が棲むと云われている。
長尾寺はしっぽ関係では気になりまする
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大阪~奈良の長尾街道(ながおかいどう)は、大仙陵古墳(伝、仁徳天皇陵)から奈良葛城の長尾神社へ
似たようなのが讃岐から阿波へ
讃岐の富田茶臼山古墳から阿波の那羅そして葛城
仁徳天皇の別名は、難波天皇
「富田茶臼山古墳」はやはり
「仁徳天皇陵」だ!と妄想した。
が、納得いく。
四国霊場87番札所長尾寺の紋は「雀」。
大雀に繋がり
具体的には、3羽の雀が輪になった紋です。
妄想
3羽=三輪の仁徳天皇
②では、
四国最大の前方後円墳「富田茶臼山古墳」は、推定5世紀前半、古墳時代中期前半頃の築造。
仁徳天皇は4世紀末から5世紀前半に実在したと見られる天皇で、しっくりくる。
仁徳天皇は誉田天皇(応神天皇)の第四皇子。
誉田天皇(応神天皇)は、記紀によると渡来人を用いて国家を発展させたとされ、中世以降は軍神八幡神としても信奉。
その富田茶臼山古墳から東へ行き、東かがわ市には、
四国八十八箇所奥の院
真言宗善通寺派別格本山 與田寺(よだじ)がある。
長尾寺と同様に別格で本山なんだというとります。
山号は醫王山、院号は虚空蔵院。
ご詠歌:祈るより 仏に ちかい あらたなる よだのお寺へ参るうれしさ
仏に近いとは、三輪の地だからか?
寺伝によれば、奈良時代の天平11年(739年)に行基開山
醫王山薬王寺薬師院として法相宗の寺院として創建。
後に空海により真言宗、寺号を神宮寺に改められた。
嵯峨天皇の勅願寺。
応長元年(1311年)には国内談議所の―つに定められ、13世紀後期から増吽による中興。
(落胤と伝わる禅僧一休宗純の父)後小松天皇より虚空蔵院の院号を下賜され、1,000を越す末寺を有する讃岐国屈指の大寺院となっている。
豊臣秀吉の長宗我部氏の兵火で堂塔伽藍の大半を焼失だが、江戸時代初頭に高松藩初代藩主松平頼重の帰依により復興。
明治時代に所在が與田郡であることから神宮寺から與田寺に改。
仁徳天皇は、誉田天皇の崩御後、最も有力だった皇太子の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)と互いに皇位を譲り合ったが、太子の薨去により即位。
菟道稚郎子を祭るといえば、セカチュウ探検時の庵治(妄想:始まりの天下春命=阿春=庵治)の皇子神社(セカチュウのブランコのシーン)。
皇子神社は同じ庵治にある桜八幡神社の摂社。
桜八幡神社は、元は花は桜のコノハナサクヤヒメを祭ると伝わる。
(悪い意味ではない)片田舎の庵治の神社に、わざわざ太閤秀吉はツツジの太鼓を寄進している。
「與田寺」(ヨだじ)
行基開山
玄奘三蔵からの法相宗の寺院として創建。
空海により真言宗神宮寺に改。
嵯峨天皇の勅願寺。
一休宗純の父、後小松天皇より虚空蔵院。
山王信仰の家康、松平により復興
気になる「誉」
[音よみ]ヨ
[訓よみ]ほまれ ほめる
ほめ‐ら【誉】徳島県地方で、正月に祝い言を唱えながら家々を回る物乞い人。春駒(はるごま)。
ここからの続きですな。
與田寺の與(ヨ)が気になるところでした。
讃岐の難波にある富田茶臼山古墳は仁徳天皇陵ではないかとの妄想。
仁徳天皇の父は、誉田天皇(応神天皇)
兄弟には、武蔵秩父国造らの祖・天下春命を表す阿春と妄想の庵治地区(映画セカチュウの舞台)。そこの木花咲耶姫をかつて祭った桜八幡神社の摂社の皇子神社に祭られる菟道稚郎子。
與田寺の本来の字は誉田寺ではないのかと妄想。
誉(ヨ)を伏せているのではないか。
妄想を進めてみる。
誉田天皇(応神天皇)
在位中には様々な渡来人の来朝があった。
王仁(わに)とは、
往古王仁(わに)。古事記には和邇吉師(わにきし)。
歌自体をイ探の妄想では、
「難破津さぬき津田に 裂く(悪をなす)野狐の鼻 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの(鵜のべ)鼻(崎)」王仁(わに)
(難破)津田湾に注ぐのは、(かつて鴨部川とつながっていたと思われる)津田川
津田川河口を遡上すると津田湾の南側の山の背を蛇行していて、津田川と鴨部川が繋がっていたとして、鴨部川方をさらに遡上すると、豊玉毘賣を祭る和邇賀波神社がある。
和名類聚抄では、香川県さぬき市津田、旧津田町、旧大川町は「難破」
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![ポーン](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/040.png)
飯(いい)乞(こ)ふと 草の庵を
立ち出でて 里にい行けば
たまほこの 道のちまたに
子どもらが 今を春べと
手毬つく ひふみよいむな
汝(な)がつけば 吾(あ)はうたひ
吾(あ)がつけば 汝はうたひ
つきて唄ひて 霞(かすみ)立つ
永き春日を 暮らしつるかも
裏になり 天下春命がされば
稲飯命(法然の祖でワニ)乞い
素戔嗚の(旧美馬郡穴吹町と美馬郡つるぎ町一宇村との境界に位置す)八面山の尾根道に
イの国の子孫らが 今を天下春命の時代と
(糸=絹=)皇后「琉球十三マーイ」つく
河南省の嵩県から淮水に流れる「汝水(ジョスイ)川」がつけば、
如水川が神のお告げを汚れから守る
お互いに呼応し
長く続く天孫降臨の警護三十二神の一神で武蔵の秩父国造らの祖・天下春の日に照らされて
つまーり!
三輪の地に
誉田天皇(応神天皇)
倭迹迹日百襲姫命・孝霊天皇
天下春の地に
菟道稚郎子、神阿多都姫
鰐を奉っているのだ!
![絶望](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char4/642.png)