イの国探検隊ファンの皆様、鰐積の皆様、アマでありカミでもある皆様、こんにちは。

イノクニタンケンタイ雑用係の日月ホトトギスです。セキセイインコ青
 

長尾寺

境内はすっきりした気が流れる

次の寺は四国八十八札所結願の女体山にある大窪寺

 

 

長尾寺

別格本山なんだとはっきり書いている

 

 

静御前の剃髪塚

 

 

 

 

 

 

あじまさ島、さけつ島も見える

難破津から淡路方面を望む

 

鴨部川(和邇川、鰐川)ちかくの静御前、その子らの墓

 

隣に

 

 

静御前の母磯禅師の墓

 

 
 
 
 
探検してると、〇〇尾とか、尾がよくでてくるように思う。
例えば、石清八幡宮、長寺、張など
 
菅原道真さんの友、明印さんの長尾寺
 
 
長尾は、何の尾?
 
長尾寺の御詠歌では、「あしびきの山鳥の尾の長尾寺 秋の夜すがら御名を唱えよ」
山鳥の尾でした。
なぜ山鳥の尾?うーん
 
 
「ながお」をしらべると、
 
長峡川(ながおがわ、ながさがわ)とは、
台南斜面(京都郡みやこ町)を源流とし、福岡県行橋市を流れ、旧行事村と旧大橋村の境で、行事村と大橋村と宮市村が合併して行橋町となった。長狭川は周防灘に注ぐ2級河川。
読み方は、地元の人は「ながおがわ」と呼ぶが、他所では「ながさ」と呼ぶ人もいる。 
 
長狭は、「ながお」ともよむようである。ニコ
福岡県行橋市を流れるが、京都郡みやこ町を源流と「京都」「みやこ」がでてくる。
 
 
 
 
大阪~奈良の長尾街道(ながおかいどう)とは、
大阪府市堺区から東へ向かい奈良葛城市の長尾神社付近に至る街道。
古くは大津道(おおつみち)と呼ばれた。
日本書紀の推古天皇二十一年(613年)の条に、後に上町台地に首都の難波宮が置かれる「難波より京(飛鳥)に至る大道(おおじ)を置く」と記されていた日本最古の「官道」である「竹内街道」の北1,908m(但し計画値)に平行して整備された。
大津の名は、羽曳野市北宮にある式内大津神社に由来するといわれるが、大和川と石川の合流地点が大津と呼ばれた時期があったことがあり、その大津に至る道という意味で大津道といい、細長い海岸浜堤を長狭(ながお)といい、その特徴から長尾街道と名が付いたという。
ほとんどの区域で大阪府道・奈良県道12号堺大和高田線に平行し、堺市の市街地では花田口筋とも呼ばれる。
奈良時代以降になると、北側に「竜飛道」(のちの奈良街道)が整備された。
 
 
こちらは、大仙陵古墳(伝、仁徳天皇陵)、ミサンザイ古墳など、墳丘長200m以上の大型の前方後円墳4基を含む百舌鳥古墳群(もずこふんぐん)がある堺から奈良県葛城市の長尾神社付近に至る街道である。
 
仁徳天皇陵から奈良葛城の長尾グラサン
 
似たようなのが・・・
 
富田茶臼山古墳から阿波の那羅葛城

『古事記』に第16代・仁徳天皇の歌と伝わるものから(ネット情報より)

原文

於是天皇 戀其黒日賣 欺大后曰「欲見淡道嶋而」 幸行之時 坐淡道嶋 遙望歌曰、『淤志弖流夜(おしてるや)、那爾波能佐岐用(なにはのさきよ)、伊傳多知弖(いでたちて)、和賀久邇美禮婆(わがくにみれば)、阿波志摩(あはしま)、淤能碁呂志摩(おのごろしま)、阿遲摩佐能(あじまさの)、志麻母美由(しまもみゆ)、佐氣都志摩美由(さけつしまもみゆ)』

乃自其嶋傳而幸行吉備國。

 

イ探妄想訳

ここに天皇が、その黒日賣を恋いラブラブ、皇后をあざむきオバケ「淡路島を見ようとおもう」とおっしゃり幸行する時、おわします淡路島を遥に望み見て歌にして話された。ドクロ

「一面に照り光る難破の崎よ、そこに立って我が国を見ると、あわ島、淤能碁呂島、檳榔(あじまさ、ビロウ)島も見える。裂けたような島も見える。」

なので、その島を伝って吉備國ラブラブに幸行できる音譜グラサン

 

九月条にみえる皇后磐之媛の動向は、
難波の済で恨み、御綱葉を海に投げ入れる。

大津に泊まらず、山背を廻って倭に向かう。
帰らずなお進み、山背河に至り歌を詠む(紀53、磐之媛の歌)
(皇后、還へりたまはずして、猶(なほ)し行でます。山背河に至りまして、歌して曰はく、)

「つぎねふ 山背河を 河沂(のぼ)り 我が沂れば 河隈に 立ち栄ゆる 百(もも)足らず 八十葉(やそば)の木は 大君ろかも」

イ探妄想解釈
皇后は難破での出来事で天皇を恨み、常緑亜高木のテングノウチワ(三角柏:ミツノカシワ)を海に投げ入れた。🍁👺

難破へは帰らず、山背川にまで行き歌った。
「次に山背川を遡上すれば、川の入り組んだ淵に、元気に立ち、たくさんの根を張り葉が茂っている木は、仁徳天皇かも」
悲しい
 

那羅山を越え、葛城を望み歌を詠む(紀54、磐之媛の歌)
「つぎねふ 山背河を 宮沂り 我が沂れば 青丹(あおに)よし 那羅(なら)を過ぎ 小盾(こだて) 大和(やまと)を過ぎ 我が見が欲し国は 葛城高宮(かつらぎたかみや) 我家(わぎへ)のあたり 」
山背に戻り、宮室を筒城岡の南に造る


イ探妄想解釈
皇后は奈良街道で奈良山を越え、葛城の方を見て歌を詠んだ。
「次に山背川を、宮廷へ向かって遡上すれば、青土(鉄鋼石に通じる緑泥片岩が砕けた土や砂)に生える葦が見え、奈良を過ぎて、更に間に合わせの大和を過ぎた辺りで、見たい国は自分の家のある葛城高宮」

結局は山背川と歌われている山の背になっている地区にとどまり筒城の丘に住む家を建てている。

 
 
(香川県)難波の富田茶臼山古墳~那羅山越え~(徳島県)那羅~葛城
 
仁徳天皇陵から奈良葛城の長尾神社までの長尾街道と香川県の富田茶臼山古墳(四国最大の前方後円墳)から徳島県をつなぐ伝・那羅街道、そして那羅から磐之媛の家のある葛城へ
 
重なるぜグラサン
 
 
 
妄想が暴走、そして失踪!
 
仁徳天皇の別名は、難波天皇
 
さぬき市は昔は難破
 
 
 
 
 
 
 
 
その難破にある
「富田茶臼山古墳」はやはり
 
 
「仁徳天皇陵」だ!
 
なんじゃないかの?
 
 
 
長尾だけに長うなるんかの~?
長すぎるんは読みにくいで、短めにせんと
 
ではまた。デレデレ