イノクニタンケンタイ雑用係の日月ホトトギスです。
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長尾寺
境内はすっきりした気が流れる
次の寺は四国八十八札所結願の女体山にある大窪寺
長尾寺
別格本山なんだとはっきり書いている
静御前の剃髪塚
あじまさ島、さけつ島も見える
難破津から淡路方面を望む
鴨部川(和邇川、鰐川)ちかくの静御前、その子らの墓
隣に
静御前の母磯禅師の墓
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読み方は、地元の人は「ながおがわ」と呼ぶが、他所では「ながさ」と呼ぶ人もいる。
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古くは大津道(おおつみち)と呼ばれた。
ほとんどの区域で大阪府道・奈良県道12号堺大和高田線に平行し、堺市の市街地では花田口筋とも呼ばれる。
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『古事記』に第16代・仁徳天皇の歌と伝わるものから(ネット情報より)
原文
於是天皇 戀其黒日賣 欺大后曰「欲見淡道嶋而」 幸行之時 坐淡道嶋 遙望歌曰、『淤志弖流夜(おしてるや)、那爾波能佐岐用(なにはのさきよ)、伊傳多知弖(いでたちて)、和賀久邇美禮婆(わがくにみれば)、阿波志摩(あはしま)、淤能碁呂志摩(おのごろしま)、阿遲摩佐能(あじまさの)、志麻母美由(しまもみゆ)、佐氣都志摩美由(さけつしまもみゆ)』
乃自其嶋傳而幸行吉備國。
イ探妄想訳
ここに天皇が、その黒日賣を恋い、皇后をあざむき
「淡路島を見ようとおもう」とおっしゃり幸行する時、おわします淡路島を遥に望み見て歌にして話された。
「一面に照り光る難破の崎よ、そこに立って我が国を見ると、あわ島、淤能碁呂島、檳榔(あじまさ、ビロウ)島も見える。裂けたような島も見える。」
なので、その島を伝って吉備國に幸行できる
。
九月条にみえる皇后・磐之媛の動向は、
難波の済で恨み、御綱葉を海に投げ入れる。
大津に泊まらず、山背を廻って倭に向かう。
帰らずなお進み、山背河に至り歌を詠む(紀53、磐之媛の歌)
(皇后、還へりたまはずして、猶(なほ)し行でます。山背河に至りまして、歌して曰はく、)
「つぎねふ 山背河を 河沂(のぼ)り 我が沂れば 河隈に 立ち栄ゆる 百(もも)足らず 八十葉(やそば)の木は 大君ろかも」
イ探妄想解釈
皇后は難破での出来事で天皇を恨み、常緑亜高木のテングノウチワ(三角柏:ミツノカシワ)を海に投げ入れた。🍁👺
難破へは帰らず、山背川にまで行き歌った。
「次に山背川を遡上すれば、川の入り組んだ淵に、元気に立ち、たくさんの根を張り葉が茂っている木は、仁徳天皇かも」
那羅山を越え、葛城を望み歌を詠む(紀54、磐之媛の歌)
「つぎねふ 山背河を 宮沂り 我が沂れば 青丹(あおに)よし 那羅(なら)を過ぎ 小盾(こだて) 大和(やまと)を過ぎ 我が見が欲し国は 葛城高宮(かつらぎたかみや) 我家(わぎへ)のあたり 」
山背に戻り、宮室を筒城岡の南に造る
イ探妄想解釈
皇后は奈良街道で奈良山を越え、葛城の方を見て歌を詠んだ。
「次に山背川を、宮廷へ向かって遡上すれば、青土(鉄鋼石に通じる緑泥片岩が砕けた土や砂)に生える葦が見え、奈良を過ぎて、更に間に合わせの大和を過ぎた辺りで、見たい国は自分の家のある葛城高宮」
結局は山背川と歌われている山の背になっている地区にとどまり筒城の丘に住む家を建てている。
富田茶臼山古墳から阿波の那羅への那羅街道 那羅 葛城
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