前回
藤原北家ともいえる興福寺が、専修念仏を非難し、法然らの処罰を朝廷に訴えた「承元の法難」で法然配流の摂津国
藤原北家といえば、藤原北家が鰐氏の金比羅、菅原道真の怨念を恐れて勧請したと思われる石清尾八幡宮。
その鎮座する山体にある石積みの石清尾山古墳群。
神社が見つめる先は難破津(さぬき市津田湾、鵜のべ山古墳、つまり鸕鶿草葺不合尊)。
単純に摂津つながりを探検したら
平安時代に養父が郎党に殺害され、恋人の死をきっかけに、官職より歌の道を求めて出家し、摂津国の古曾部に住み「古曾部入道」とも呼ばれた中古三十六歌仙の一人、能因法師。
旅に出て「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」と詠んでいる。
イ探妄想では、東国の白河と秋(月=月夜見命=西照神社・大滝寺=月光西照宮)を詠んでいる。
宮城県石巻市広渕鹿添242の鹿島神社の勧請は、
豊臣秀吉の奥州仕置の際に大名としては滅亡しているが、清和源氏(大和源氏)頼親流宇野氏の支流、摂津国豊島郡を本貫とした丈部姓有道氏一族で武蔵七党の児玉氏の支流の豊島氏である葛西氏。
左右に社がないので願い上げ塩釜、香取の両社も造営。
塩釜といえば在原業平、行平
そして、なりひら桜=桜=神阿多都姫
平安時代初期の歌人で六歌仙のひとり在原業平が、晩年に隠棲した「なりひら寺」、中庭に植えられている、なりひら桜(枝垂れ桜)でも知られる。
洛西と呼ばれる地域にある大原野は、長岡京遷都の頃から皇族や貴族が鷹狩をし、優雅に楽しんできたといわれる場所。その大原野の一角に文徳天皇が、女御である染殿皇后(藤原明子)に世継誕生祈願して、850年に伝教大師作の延命地蔵を安置して祀ったのが始まり。
讃岐国司紀夏井が右腕を務めた文徳天皇
祈願後、無事に惟仁親王(清和天皇)が誕生し、勅願所とされた。
その後、在原業平が、晩年この寺に隠棲し、境内の裏山には業平が塩焼きの風情を楽しんだとされる塩竈(しおがま)の旧跡。
平安時代中期には、花山法皇が西国三十三所を再興した時に背に負っていた草分観世音を当寺に納めたと伝わる。
西国三十三所。
栄螺堂とは、旧、正宗寺三匝堂のこと。
当時、飯盛山には正宗寺というお寺があり、その住職であった僧郁堂の考案した建物が、三匝堂。
2重螺旋のスロープに沿って西国三十三観音像が安置され、このお堂をお参りすることで三十三観音参りができていた。
在原業平 塩釜 桜
孝元天皇を祖にする紀氏の石清水八幡宮は、僧・行教が宇佐八幡で「われ都に近記男山に移りて国家を鎮護せん」との神託を受け、朝廷宣旨で木工寮権允橘良基が建立し、誉田別命・比口羊大神(菊理媛神、白山比咩神)・神功皇后を奉安。橘良基は嫌疑をかけられたまま死去。清廉・清貧を治政の信条とし、財産は無く、在原業平の兄弟・在原行平の支援で葬儀をする事が出来た。
讃岐國寒川郡 神前神社、極楽寺の明印法印が、男山相応の地に八幡宮を勧請せよとの醍醐天皇勅命により、京都石清水八幡宮を勧請。『延喜式』神名帳 南海道神 讃岐国 寒川郡「神前神社」に比定式内社(小社)の論社。一郡一八幡のはじめとして創祀。
現世に戻った徳道上人は、33の霊場を定め観音信仰を広めようとしたが、人々には受け入れられず、33の宝印を中山寺の6世紀後半の建造の第十四代仲哀天皇の后大仲姫(おおなかひめ、神功皇后、「日本書紀」での名は気長足姫尊で仲哀天皇崩御から応神天皇即位まで初めての摂政として約70年間君臨したとされ、実在したとすれば4世紀後半頃)と伝わる墳墓古墳石櫃に納めた。
富田神社から約1.3km南西には、産宮神社
さぬき市大川町富田西2631-1
祭神 息長足姫命
由緒
神功皇后が三韓征伐から凱旋の途次、当地に立ち寄られたので住民等が その御聖徳を敬慕して、お祀りしたと伝わる。中世の頃から子安の神として知られ、現代に至るまで安産、厄除け、進学祈願の神として、参拝者が訪れている。
豊島氏は紀伊国から熊野権現を勧請し、郡内に多くの熊野神社を設けた。その最大のものが王子神社である。
鹿島神社御祭神の武甕槌命。血潮が岩に飛び散って生まれた三神の内の神。武甕槌命とともに、建御雷の租である甕速日神と建御雷も生まれている。
時間軸が変だが、とにかく武甕槌命、甕速日神、建御雷が生まれた。
天之尾羽張神=伊都之尾羽張=稜威雄走神。
建御雷神(鹿島神宮主祀神)=天之尾羽張神=伊都之尾羽張。
剣の名は、十束剣=天之尾羽張=伊都尾羽張。
伊都=伊の都(津=港)。
伊のクニの港
摂津国といえば思うのが、徳島県の悲願寺。
清和源氏の源(多田)満仲が建立。
天正年間に摂津兵庫の豪族・源仲綱の三男、摂津源氏の後胤源頼政の孫、和泉守多田頼成によって復建され同時に塔頭として独立開基の志度寺脇の自性院。
多田氏の竹林独雄上人が住職。
竹林上人の出身地は長尾町白羽。
白羽と白鳥はほぼ同じ意味では?
讃岐の白鳥神社はヒミコ伝承の悲願寺へ向いており狛犬もその配置。
大原野の一角に文徳天皇が、女御である染殿皇后(藤原明子)に世継誕生祈願して、850年に伝教大師作の延命地蔵を安置して祀ったのが始まり。
紀夏井が右腕を務めた文徳天皇
祈願後、無事に惟仁親王(清和天皇)が誕生し、勅願所とされた。
その後、在原業平が、晩年この寺に隠棲し、境内の裏山には業平が塩焼きの風情を楽しんだとされる塩竈(しおがま)の旧跡。
平安時代中期には、花山法皇が西国三十三所を再興した。