イの国探検隊ファンの皆様、鰐積の皆様、アマでありカミでもある皆様、こんにちは。グラサン
 
先の探検では、陸奥、福島県のクニを探検しました。
その中で、奥の細道の冒頭に三里うんぬんとあり、粂(天津久米、久米氏)のこと、大和、月読命の勢力圏、素戔嗚尊の影響のことを言っているとの妄想でした。
 
福島県には、飯盛山があり、讃岐の飯盛山である飯野山と共通の山だと思いました。
よって、 我が精鋭の探検隊員を送り込んで飯盛山を探検しています。
 
よだれ大あくびぼけーチーンショボーンzzzゲホゲホねーしょんぼりゲッソリもぐもぐ
 

 

いきなり、みちくさ話ですが、

富田神社

さぬき市大川町富田中114

祭神 品陀和気命 帯仲彦命 息長帯日売命(神功皇后

 

 

さぬき市の旧、寒川郡に鎮座の富田神社の狛犬さん

スフィンクス調の立髪が迫力があります。

ヤマトタケルさんの魂が白鳥になり舞い降りた、白鳥神社の狛犬さんとよく似ています。石工さんが同じかも。

 

白鳥神社

 

 

「富田」といえば、徳島県の眉山は、昔は「富田山」

1815年、徳島藩が阿波志を編集した時の現在の眉山は富田山。江戸時代、庶民は富田の山佐古の山と呼んでいた。一般に眉山と呼ばれるようになったのは、文政年間(1818~1830年)以降。明治の中頃、1895年には小学校教科書の地誌に、眉山の地名が表れ一般化した。

 

万葉集 
「眉のごと 雲居に見ゆる 阿波の山 懸けて漕ぐ舟  泊まり知らずも」 船王

 

眉のような難破の山

眉のような難破の山

 

 

眉山とは、3世紀の鵜のべ山古墳がある、さぬき市津田(平安時代には難破)北山だと妄想します。真顔

 

#富田 #眉山 #神功皇后 #難破 #紀州 #寒川

 

由緒
その昔現在の神奈川県の寒川神社の分霊を勧請し寒川神と称して、一郡の総鎮守として奉祀した。因って郡名寒川はこれより名付けられたと言う。
一説には、861年、富田弥太郎則朝紀州鳩ケ峯八幡宮の分神をお迎えして、当社に合祀して難波八幡とも言われたという。
雨滝城主・安富肥前守盛方の長臣六車左衛門大夫宗堪が当社に奉仕して以降祠官となって今日に至る。六車博氏は15代目。
明治3年郷社に列せられ寒川八幡宮を富田神社と改称した。
 

富田さんが、紀州から分霊を勧請。または、神奈川県の寒川神社分霊を勧請。

名前が、難波八幡=寒川八幡=富田八幡

難波=難破(倭名類聚抄ではさぬき市津田は難破)
寒川=神奈川県高座郡寒川町宮山に鎮座する相模國一之宮・式内社名神大社・寒川神社。記紀には記載がない寒川比古命・寒川比女命が祭られ、大水上命の御子とする説がある。また、この二柱は牟弥乃神社(伊勢神宮末社)で祀られ、大水上命は大山祇神と同一視される。讃岐二宮は大水上神社。

富田=阿波の眉山の昔の名前。富田神社がある地域には四国最大の前方後円墳・富田茶臼山古墳があり、阿波那羅(山崎忌部神社方面)への那羅街道といわれたとの県道の始点。

 

難波皇后、難破、富田茶臼山古墳、那羅、忌部神社、義経

 


主な行事
歳旦祭・元旦祭     1月1日
夏越祭         7月31日
例大祭         10月第1日曜日

 

後ろの楠はやたらでかい。

富田神社の大
境内には「香川の保存木」指定の大楠。樹高20m、根周り16mあり県下3番目の大木。

 

 

りっぱな角

「だれが政府の犬?じゃ!わしゃキリンじゃけん!」と主張

 

へ?

じゃけん? 蛇犬?ゲロー

 

 

富田神社から約1.3km南西には、

産宮神社

さぬき市大川町富田西2631-1
祭神 息長足姫命
由緒
神功皇后が三韓征伐から凱旋の途次、当地に立ち寄られたので住民等が その御聖徳を敬慕して、お祀りしたと伝わる。中世の頃から子安の神として知られ、現代に至るまで安産、厄除け、進学祈願の神として、参拝者が訪れている。


住民はしっかり伝えてるの~。グラサン


やっと
③の続き。

 
これまで、石巻探検で出てきた福島県の地名から痕跡を探して、あれやこれや探検し、妄想できました。そこから評(こおり)を知り、福島県にクニがあることが分かりました。
飯盛山にも我が精鋭隊員を送り込み探検し、会津の飯盛山とは讃岐の飯野山。
飯盛山の中腹に木造建築物栄螺堂(さざえどう)。
サザエは、リュウテン=「竜天」と勝手に妄想。
江戸時代の僧「竜天」は、醍醐寺の真円に事相(密教の修法)をまなび、京都市東山七条にある真言宗智山派の総本山・智積院(ちしゃくいん)17世僧正。
お亀の福にあずかる‘おかめ節分’で賑わう大報恩寺千本釈迦堂に灌頂道場をひらいた。
亀=龍=ワニ
 
隊名「白虎隊」とは、白虎は、秋=白帝=西=白、秋=月=月光西照宮=西照神社・大滝寺=伊邪那岐命によって生み出された、夜を統べる神
月読命(月夜見尊)と、妄想。
 
西国三十三観音巡礼の飯盛山の栄螺堂とは、宗像神社=厳島神社=長谷寺。
堂内に納められていた西国三十三観音巡礼の観音像は、神功皇后(気長足姫尊)墳墓石櫃に一旦納められていた。
約270年後、出家の花山法皇が那智山青岸渡寺での修行中、熊野大権現からお告げを受け、観音巡礼を再興。
那智山青岸渡寺は、補陀落信仰で、役行者や、伝教、弘法、智証、叡豪、範俊らの高僧が法燈を守り続けた寺。
補陀落渡海は、紀氏、伴氏(大伴)が政界から消える「応天門の変」の後、命を救う秘密作戦と妄想。空海の甥・智証大師円珍の那智山青岸渡寺から、聖武天皇!「海行かば水漬く屍」(by大伴家持)の補陀落渡海へと妄想はつながる。
補陀落といえば源義経の愛した静御前の母・村上天皇の血筋と思われる長町磯が、孤児から日本一の芸妓に新たな門出をしたアマの玉とり伝説の四国八十八霊場86番札所補陀落山志度寺。
【志度寺御詠歌】「いざさらば 今宵はここに志度の寺 祈りの声を耳に触れつつ」、孤児・長町磯は義経の母の出身摂津国江口へ旅立つ。
飯盛山の栄螺堂とは、海神・ワニの祈りと妄想した。デレデレ
 
 
 
そして前回、「正宗寺」つながりで、柿本人麻呂さんの言葉「玉藻よし讃岐の国は 国柄か・・・神の御面と継ぎ来る・・・」を信じて讃岐内を安易に探検。
円光大師法然御遺跡四十八所の番外札所「慧日山正宗寺」をみつける。
 
藤原北家ともいえる興福寺による念仏批判から法然配流の建永の法難
法然さんの配流先が、藤原北家の配慮で讃岐。どんな関係性で讃岐なのか?
確かに、柿本人麻呂さんは、神の面で、貴い言うてますけど。うーん
 
法然とは何者っすか?凝視
生い立ち
1133年4月7日、美作国久米(現在の岡山県久米郡久米南町)の防人の移動に携わっていた任務から移動させる兵の戦闘等指揮官へと変化した押領使漆間時国と、母氏君(はたうじのきみ)清刀自との子として生まれる。
生誕地は、誕生日寺(出家した熊谷直実が建立したとされる)。

 

奥の細道、三里=天津久米、久米、紀氏、伴氏(大伴氏)、久本
 
その後、専修念仏停止は広がり、一向専修の輩が捕われ、法然は「藤井元彦」を名前として還俗させられ、土佐国、親鸞は越後国に配流の宣旨。
法性寺を出発し、経の島・室の泊を経て、土佐国に流される途中、
法然の法話の中にむすこと死別した救いを見つけられた九条兼実の庇護により変更され配所となった讃岐国に入った。
勅免の宣旨が下り、四国を離れて摂津国勝尾寺に滞在することとなった。


讃岐→摂津
 
法然配流で讃岐経由で行き着く摂津
義経の母の出身の摂津江口、孤児の静御前の母・長町磯(磯禅師)孤児が補陀落山志度寺を発って向かった摂津江口が偶然にも重なるのだ魂が抜ける
東国と讃岐は義経、静御前でぼやっとつながる激しい妄想グラサン
 
 

洛中の神泉苑で美妓百人による雨乞祈祷が行われ、最後に静が一人で白拍子を舞った。

静は美声で今様「水の宴という雨乞いの舞曲」を歌った。🎤
 

水のすぐれておぼゆるは、
西天竺の白露池、
尽浄虚融にすみわたる、
昆明池の水の色、
行末久しくすむとかや」、
「茅の下葉おとづるは、
三島入江の氷水、
春立つ空の若水は、
汲むとも汲むとも尽きもせじ・・・・・尽きもせじ

 

 

法然さんの讃岐の痕跡を掘るのだ!ここ掘れワンワンでひっぱるのだ!

掘れども掘れども飽きもせじ 飽きもせじ
 
 
 
 
今日も、瞑想(迷走)イ探妄想ですよ。
今日のところは、このへんで
 
どればも進んでないやんか!


ではまた!グラサン