いきなり、みちくさ話ですが、
富田神社
さぬき市大川町富田中114
祭神 品陀和気命 帯仲彦命 息長帯日売命(神功皇后)
さぬき市の旧、寒川郡に鎮座の富田神社の狛犬さん
スフィンクス調の立髪が迫力があります。
ヤマトタケルさんの魂が白鳥になり舞い降りた、白鳥神社の狛犬さんとよく似ています。石工さんが同じかも。
白鳥神社
「富田」といえば、徳島県の眉山は、昔は「富田山」
1815年、徳島藩が阿波志を編集した時の現在の眉山は富田山。江戸時代、庶民は富田の山や佐古の山と呼んでいた。一般に眉山と呼ばれるようになったのは、文政年間(1818~1830年)以降。明治の中頃、1895年には小学校教科書の地誌に、眉山の地名が表れ一般化した。
万葉集
「眉のごと 雲居に見ゆる 阿波の山 懸けて漕ぐ舟 泊まり知らずも」 船王
眉のような難破の山
眉のような難破の山
眉山とは、3世紀の鵜のべ山古墳がある、さぬき市津田(平安時代には難破)北山だと妄想します。
#富田 #眉山 #神功皇后 #難破 #紀州 #寒川
由緒
その昔現在の神奈川県の寒川神社の分霊を勧請し寒川神と称して、一郡の総鎮守として奉祀した。因って郡名寒川はこれより名付けられたと言う。
一説には、861年、富田弥太郎則朝が紀州鳩ケ峯八幡宮の分神をお迎えして、当社に合祀して難波八幡とも言われたという。
雨滝城主・安富肥前守盛方の長臣六車左衛門大夫宗堪が当社に奉仕して以降祠官となって今日に至る。六車博氏は15代目。
明治3年郷社に列せられ寒川八幡宮を富田神社と改称した。
富田さんが、紀州から分霊を勧請。または、神奈川県の寒川神社分霊を勧請。
名前が、難波八幡=寒川八幡=富田八幡
難波=難破(倭名類聚抄ではさぬき市津田は難破)
寒川=神奈川県高座郡寒川町宮山に鎮座する相模國一之宮・式内社名神大社・寒川神社。記紀には記載がない寒川比古命・寒川比女命が祭られ、大水上命の御子とする説がある。また、この二柱は牟弥乃神社(伊勢神宮末社)で祀られ、大水上命は大山祇神と同一視される。讃岐二宮は大水上神社。
富田=阿波の眉山の昔の名前。富田神社がある地域には四国最大の前方後円墳・富田茶臼山古墳があり、阿波那羅(山崎忌部神社方面)への那羅街道といわれたとの県道の始点。
難波皇后、難破、富田茶臼山古墳、那羅、忌部神社、義経
主な行事
歳旦祭・元旦祭 1月1日
夏越祭 7月31日
例大祭 10月第1日曜日
後ろの楠はやたらでかい。
富田神社の大楠
境内には「香川の保存木」指定の大楠。樹高20m、根周り16mあり県下3番目の大木。
りっぱな角
「だれが政府の犬?じゃ!わしゃキリンじゃけん!」と主張
へ?
じゃけん? 蛇犬?
富田神社から約1.3km南西には、
産宮神社
さぬき市大川町富田西2631-1
祭神 息長足姫命
由緒
神功皇后が三韓征伐から凱旋の途次、当地に立ち寄られたので住民等が その御聖徳を敬慕して、お祀りしたと伝わる。中世の頃から子安の神として知られ、現代に至るまで安産、厄除け、進学祈願の神として、参拝者が訪れている。
住民はしっかり伝えてるの~。
やっと
③の続き。
月読命(月夜見尊)と、妄想。
堂内に納められていた西国三十三観音巡礼の観音像は、神功皇后(気長足姫尊)墳墓石櫃に一旦納められていた。
那智山青岸渡寺は、補陀落信仰で、役行者や、伝教、弘法、智証、叡豪、範俊らの高僧が法燈を守り続けた寺。
飯盛山の栄螺堂とは、海神・ワニの祈りと妄想した。
1133年4月7日、美作国久米(現在の岡山県久米郡久米南町)の防人の移動に携わっていた任務から移動させる兵の戦闘等指揮官へと変化した押領使・漆間時国と、母秦氏君(はたうじのきみ)清刀自との子として生まれる。
生誕地は、誕生日寺(出家した熊谷直実が建立したとされる)。
法性寺を出発し、経の島・室の泊を経て、土佐国に流される途中、法然の法話の中にむすこと死別した救いを見つけられた九条兼実の庇護により変更され配所となった讃岐国に入った。
讃岐→摂津
洛中の神泉苑で美妓百人による雨乞祈祷が行われ、最後に静が一人で白拍子を舞った。
静は美声で今様「水の宴という雨乞いの舞曲」を歌った。🎤
水のすぐれておぼゆるは、
西天竺の白露池、
尽浄虚融にすみわたる、
昆明池の水の色、
行末久しくすむとかや」、
「茅の下葉おとづるは、
三島入江の氷水、
春立つ空の若水は、
汲むとも汲むとも尽きもせじ・・・・・尽きもせじ
法然さんの讃岐の痕跡を掘るのだ!ここ掘れワンワンでひっぱるのだ!
今日のところは、このへんで
ではまた!