イの国探検隊ファンの皆様、アマに内包されしカミの皆様もこんにちは

 

⑦の足摺岬からのつづきで土佐室戸岬。

「神」阿多~伊勢のラインをたどります。

イヒ

 

完全にイメージ画像(本文とは無関係)

瀬戸内海 さぬき市津田(難破)方面を望む。

眉のような山が見える。難破方面を西側からだが。

眉のごと 雲居に見ゆる 阿波の山 
懸けて漕ぐ舟 泊まり知らずも
  (船王)
万葉集の歌だが、難波の宮から海の沖を見ているのか、淡路か阿波の方向に進んでいく船を見て、もしくはイメージして詠んだ歌と思われる。
沖合を行く船、海上には眉のように見える山に雲がかかりつつも見えている。雲行きが怪しいので急いで進んでいる。今夜の泊りは分からないが、というような意味かな。
大阪府の難波の宮から西方の海上に阿波の山は見えない。「阿波の山」だが万葉集と阿波の関係は不明。

 

難破、眉のような山(動画内)

雲井 崇徳院

 

あくまで、探検の記録なので、単調で、混沌としているかも知れません。

すでにしている。滝汗


山道で松茸だ!と思って猪の糞だったことが、延々と続くようなものだと思っていただきたい。ニヤニヤ

ルートが、

笠沙の宮跡→伊勢神宮、その先へのラインがあるのではないかと妄想

↓これ、このライン

四国足摺岬→室戸岬→熊野→伊勢

阿多を出発し、日向を通り、四国の岬を綺麗に通過するライン上の伊勢神宮内宮・・・

 

前回の高知足摺岬のなんとなくまとめ

浦島太郎ばり亀(龍)の背中に乗る空海。何度も登場の竈戸神社は三宝様で荒神。荒神は伊勢神宮内宮正殿と同時に建立の荒祭宮。蹉跎山 補陀洛院 金剛福寺は、空海が黒潮が見える足摺岬の海に観世音菩薩の補陀落を感得。嵯峨天皇勅願で伽藍を建立。同時に三面千手観世音像を彫造安置。補陀落といえば、龍の玉獲り伝説の補陀落山志度寺や醍醐天皇の第十四皇子・村上源氏祖・村上天皇の血筋と思われる静御前得度の補陀落山長尾寺。志度寺には清和源氏源満中建立の悲願寺に通じそうな悲願金剛像。ヤマトタケルの白鳥神社は悲願寺を見つめる。玉(天皇の言葉)を奪われた龍は海神。歴代天皇の勅願所で源氏の帰依厚く、源満仲は多宝塔建立、子・頼光は諸堂修復。戦国時代以降、海の彼方の常世の国・補陀落浄土を信仰して補陀落渡海。

大師は華表(とりい)の建立を夜明け前にあまのじゃくが鳥の鳴真似をしたのでやめた。華表は中国ではとぐろを巻く龍。神道柱とも。あまのじゃくは、悪い鬼で毘沙門天(金毘羅=鰐=龍=亀)の鎧の腹の辺りにある鬼。また仏法守護神に踏みつけられている小鬼。海神にやっつけられたやつまたは、そう願う象徴では。

石積=石積みの石清尾山古墳群=海神の死後の世界

なんじゃないかい。

航海の山当てになっていると仮説妄想しながらさらに探検だ!おーっ!

 

(四国 土佐高知 室戸岬)

 

龍頭山 光明院 金剛頂寺

室戸市元乙523

【御詠歌】 往生に望みをかくる極楽のかたむく西寺の空

収蔵する木造阿弥陀如来坐像、板彫真言八祖像、銅造観音菩薩立像、金銅密教法具、金銅旅壇具、銅鐘、金剛頂経などはすべて国指定重要文化財
弘法大師伝によると、当山二代・智光上人は世に隠れたる聖人二人であり、一人は大和の室生寺堅恵大徳、一人は土佐金剛頂寺の智光上人。

堅恵は智恵第一の人、智光は行力第一の聖人と讃えられている。

縁起によると、大師が平城天皇の勅願により、本尊の薬師如来像を彫造して寺を創建は大同2年と伝。

創建のころは「金剛定寺」
次の
嵯峨天皇が「金剛頂寺」とした勅額を奉納されたことから、現在の寺名に改め、さらに次の淳和天皇も勅願所として尊信し、住職は第十世まで勅命によって選ばれており、以後、16世のころまで全盛を誇った。
室町時代に堂宇を罹災したこともあったが復興ははやく、
長宗我部元親の寺領寄進や、江戸時代には土佐藩主の祈願所として諸堂が整備されている。

昭和になって注目されるのは正倉院様式の宝物殿「霊宝殿」の建立である。

平安時代に大師が各地を旅したときの「金銅旅壇具」は、わが国唯一の遺品であり、重要文化財が数多く収蔵されている。
 

長尾寺明印菅原道真と極楽寺を語る

極楽寺跡 鎮守志太張神社

月神の宮 西照神社(大滝寺)

  ↓


宝珠山 真言院 津照寺

室戸市室津2652−イ

【御詠歌】
法の入るか出づるかこの津寺迷ふ我身をのせてたまへや

本堂は参道正面の小高い山の上に鎮座。

本堂に向う石段は真直ぐで、天に続くかのよう、急勾配。そして石段の途中には竜宮城を思わせるような鐘楼門兼仁王門

石段を昇り、本堂の正面には太平洋が広がる。

眼下には室津川の河口と室津港、右の方には行当岬と深緑の隙間に26番金剛頂寺が見える。港を見下ろす小山の上の津照寺(しんしょうじ)は、通称、津寺(つでら)と呼ばれる。

弘法大師空海上人が四国御修行の砌、山の形が地蔵菩薩の持つ宝珠(ほうしゅ)に似ているところから霊地とし地蔵菩薩を自ら刻み本尊とし、宝珠山真言院津照寺と号された。
はじめ長曽我部氏の庇護をうけ七町余の地高を有しその後、山内氏が国主として入国して更に一町五反余の田地を寄進され寺院の運営も全て藩営とされ中老格をもって遇され隆盛を極めていたが、明治の改革で地領は一旦政府に没収亦は小作農民に払い下げとなり寺は廃寺。
荒廃約十数年明治十六年に寺名復興を許され今日に至ったが、寺域は極度に狭められ昔日のおもかげはない。

【楫取地蔵の由来】

御本尊延命地蔵を楫取地蔵(かじとりじぞう)

由来は、慶長七年頃山内家初代一豊公が室戸の沖で暴風雨に遭い困難した時、何処からか大僧が現れ船の楫を取って御船は無事室津の港に入港する事が出来た。

先程の大僧を探して津寺へ参詣すると本尊地蔵菩薩の御体が濡れており、大僧が本尊地蔵菩薩であった。之より本尊が楫取地蔵と伝えられる。また今昔物語には、津寺の本堂が火難に遭った時、本尊地蔵菩薩が僧に身を変えて村人に知らせ、火難を逃れたとあり、火事取りの意味も。

四十寺

室戸市室津

四十寺山が最御崎寺の故地と思われている。

現在地に遷ったのは寛徳年間(1044-45)、平安中期の後期。本尊は十一面観音菩薩、脇侍は薬師如来、地蔵菩薩。

室戸山 明星院 最御崎寺

【御詠歌】
明星出でぬる方の東寺くらき迷いはなどかあらまし

「修行の道場」とされる土佐最初の霊場。室戸岬の突端にある。空と海が一体となり襲いかかる洞窟の樹下で、青年・空海は虚空蔵求聞持法の修法に励む。

この詳細は、大師24歳の撰述『三教指帰』に記されており、「…土州室戸崎に勤念す 谷響きを惜しまず 明星来影す 心に感ずるときは明星口に入り 虚空蔵光明照らし来たりて 菩薩の威を顕し 仏法の無二を現す…」
大同2年、唐から帰朝した翌年、大師は、勅命でふたたび室戸岬を訪ねている。虚空蔵求聞持法を成就したこの地に、本尊とする虚空蔵菩薩像を彫造して本堂を建立

嵯峨天皇をはじめ歴代天皇の尊信が厚く、また、足利幕府の時代には土佐の安国寺となり、戦国・江戸時代には武将、藩主などの寄進により、寺運は隆盛。

室戸岬では東西に対峙している二十六番・金剛頂寺が「西寺と呼ばれ、最御崎寺は「東寺」とも呼ばれており、納経帳等の寺名は東寺

室戸阿南国定公園の中心にあり、大師悟りの起源の地

明星石(大師が修行中に、星のように光を放ち、毒龍の妨げを防いだという伝説の石。海岸で斑レイ岩。)

真言宗総本山 東寺 【教王護国寺】

京都市南区九条町1番地

東寺は、唯一残る平安京の遺構。創建からおよそ1200年、1994年に世界遺産。
平安遷都とともに建立され東寺は官寺(国立の寺院)。
嵯峨天皇は、唐で新しい仏教、密教を学んで帰国した弘法大師空海に託したここに、日本ではじめての密教寺院が誕生託された弘法大師空海は、密教の主尊である大日如来を境内の中心にすえ、寺域に曼荼羅まんだらを表現しようとしたのかも。

最御崎寺多宝塔

室戸岬町4058−1

建武5年(1338)六十六基の一として料所を寄せられる。※あるいは、1341年足利尊氏は66基塔婆料所として、東寺に地頭職を寄進する。
土佐利生塔として指定または建立。1563年火災焼失。
1587年東寺地検帳では、山上には本寺(大坊)・西之坊・上之坊・北之坊・池之坊が記され、山下の高岡には里坊、領家側には藤之坊・西林坊・用蔵坊・桜坊など。推測では、最御崎寺の往時の寺領は広大なものであった
元和年中(1615-)石州(石見)浪人僧最蔵(勝)坊の奔走により、2代藩主山内忠義が堂塔を寄進。

 

日本廻国六十六部巡礼の痕跡 志度寺奥の院地蔵寺

 ↓

御蔵洞(みくろど)納経所

室戸市室戸岬町3225-2

室戸市には、空海ゆかりの場所が数多く残り、その一つ。修行時の住居。約1200年前の平安時代、青年時代の大師が悟りを開いたといわれる洞窟。内には五所神社とばれる社がある。 “空海”名前は、ここから見える空と海に感銘を受け。 

五所神社
神奈川県足柄下郡湯河原町宮下359-1

天照大神天忍穂耳尊瓊瓊杵尊彦火々出見尊 、鸕鷥草葺不合尊、誉田別尊、素盞鳴尊、伊弉諾尊、伊弉冊尊 

社伝によれば、今から千三百年前天智天皇の御代、加賀の住人二見加賀之助重行らの手によってこの地方が開拓されたとき土肥郷の総鎮守として、天照大神以下五柱の神霊が鎮座されたと伝。1060年、義家 奥羽征討の際、社家荒井刑部実継神霊の加護により軍功をたて、01180年頼朝伊豆より挙兵の時、この地方の豪族土肥次郎実平は一族とこれを助け、石橋山合戦進発の前夜は社前において盛大な戦勝祈願の護摩をたいた。以来、藩主、領主、庶民の崇敬特に厚く、今日の繁栄をみる。

 

極楽寺鎮守・志太張神社祭神・天下春命は天孫降臨の邇邇芸命に随伴の八意思兼神の子で、武蔵秩父国造等の祖。四国、讃岐にゆかりの多い神ではない

 

 

佐伯真魚空海が巣立った善通寺 境内に五社明神社(大麻明神、大歳明神、蕪津明神、雲気明神、広浜明神)

椎名八王子宮

室戸市室戸岬町703

詳細不明。椎名八王子宮 神祭(椎名太刀踊り/みこし洗い)毎年10月14日、15日に行われるお祭り。巫女さんと、奇妙な化粧をした少年が祭りの脇役になっている。この不思議な化粧をほどこされた少年は、他の祭りでは見られない。

「太刀踊り」と「みこし洗い」の2つが見どころ。「太刀踊り」は拝殿を舞台として奉納される踊りで、太鼓や鉦を使用せず拍子木で板を叩くことでリズムを刻み、歌舞伎の見得に似た所作が特徴。県の無形民俗文化財。「みこし洗い」は神輿が海岸から海へ入り肩まで浸かりながら神輿を担ぐ、沖にある「かなとこ岩」を目指す豪快な神輿となっている。

 

皇子神社の祭りも神輿は海に出る 

 

祭神 仁徳天皇の異母弟宇遅能和紀郎子命、旧暦6月15日満月に近い金と土曜日に庵治皇子神社船祭り神輿が船に乗り約2km先対岸へ渡り

神の宮 西照神社(大滝寺)

 

またなんとなくのまとめ

頭山 光金剛頂寺「金剛定寺」の御詠歌は、「往生に望みをかくる極楽のかたむく西寺の空」

長尾寺印菅原道真と極楽寺を語る。神の宮は光西照宮とも妄想した西照神社(大滝寺)。極楽といえば行基によって法相宗の寺院として開基し、空海が再興の志太張神社鎮守の極楽寺。「極楽」と「」が気になる。

収蔵物すべて国指定重要文化財。大師の「金銅旅壇具」は、わが国唯一の遺品。
弘法大師は、世に隠れたる聖人は、大和の室生寺堅恵大徳、土佐金剛頂寺の智光上人と言っている。嵯峨天皇が「
金剛頂寺」とした勅額を奉納。淳和天皇も勅願所として尊信し、住職は第十世まで勅命。
復興には、長宗我部元親の寺領寄進、土佐藩主の祈願所。
昭和には正倉院様式の宝物殿「霊宝殿」の建立。

 

宝珠山 真言院 照寺(しんしょうじ)は、通称「寺」(つでら)

【御詠歌】「法の入るか出づるかこの寺迷ふ我身をのせてたまへや」

空海が四国御修行のおり、山の形が地蔵菩薩の宝珠に似ているところから地蔵菩薩を刻み本尊。御本尊延命地蔵(楫取地蔵)。本堂は小高い山の上に鎮座。石段は真直ぐに続くようで、途中、竜宮城を思わせる鐘楼門兼仁王門。
本堂の正面には太平洋が広がる。眼下には室川河口と室港、右の方には行当岬と深緑の隙間に「金剛頂寺」が見える。
長曽我部氏の庇護、山内氏が一町五反余の田地を寄進。藩営。その後寺は廃寺。荒廃約十数年明治十六年、寺名復興。

 

四十寺は、四十寺山が最御崎寺の故地

室戸山 明星院 最御崎寺
【御詠歌】「明星の出でぬる方の東寺 くらき迷いはなどかあらまし」
室戸岬の突端にある。
が一体となり襲いかかる洞窟の樹下で、青年・空海は虚蔵求聞持法の修法に励む。大師24歳の撰述『三教指帰』には、「…土州室戸崎に勤念す 谷響きを惜しまず 明星来影す 心に感ずるときは明星口に入り 虚空蔵光明照らし来たりて 菩薩の威を顕し 仏法の無二を現す…」
唐から帰朝した翌大同2年、大師は勅命でふたたび室戸岬を訪ね本尊とする虚空蔵菩薩像を彫造して本堂を建立。嵯峨天皇をはじめ歴代天皇の尊信厚く、足利幕府時代には土佐の安国寺となり、戦国・江戸時代には武将、藩主などの寄進で寺運は隆盛。

室戸岬では「西寺」二十六番・金剛頂寺、最御崎寺は「東寺」が東西に対峙していると呼ばれ、納経帳等の寺名は東寺
室戸阿南国定公園の中心にあり、大師悟りの起源の地。
国指定重要文化財・御厨人窟(みくろど)
明星石(大師が修行中に、星のように光を放ち、毒の妨げを防いだという伝説の石。海岸で斑レイ岩として見かけることができる。)
東寺といえば、京都

真言宗総本山 東寺 【教王護国寺】
唯一残る平安京の遺構。創建から約1200年、1994年に世界遺産。
平安遷都とともに建立された東寺は、官寺(国立の寺院)。
その寺院を嵯峨天皇は、唐で新しい仏教・密教を学んで帰国した弘法大師空海に託し、日本で初の密教寺院が誕生。
託された弘法大師空海は、密教の主尊・大如来を境内中心にすえ、寺域に曼荼羅まんだらを表現しようとした可能性。

最御崎寺の多宝塔は、1338年六十六基の一つとして料所を寄せられる。
※あるいは、1341年、足利尊氏は六十六基塔婆料所として、東寺に地頭職を寄進。
土佐利生塔として指定または建立。
1563年火災焼失。1587年、推測では、最御崎寺の往時の寺領は広大なもの。1615年から石州(石見)浪人僧最蔵(勝)坊の奔走により、2代藩主山内忠義が堂塔を寄進。
六十六で気になるのが、日本廻国六十六部巡礼の痕跡があるの玉獲り伝説の志度寺奥の院地蔵寺。

 

御蔵洞納経所「御厨人窟」は、空海ゆかりの場所。空海修行時の住居。 約1200年前の平安時代、青年大師が悟りを開いたといわれる洞窟。内には五所神社がある。

 

五所神社といえば、神奈川県足柄下郡にもあり、千三百年前、加賀住人二見加賀之助重行らによって開拓されたとき土肥郷の総鎮守として、天照大神、天忍穂耳尊、瓊瓊杵尊、彦火々出見尊、鸕鷥草葺不合尊の5柱の神霊が鎮座。
1060年、源義家 奥羽征討の際、加護により軍功、1180年源頼朝伊豆より挙兵の時、豪族土肥次郎実平は一族とこれを助けて、石橋山合戦進発前夜は盛大な戦勝祈願の護摩をたいた。開拓神といえば、さぬき市鴨部地区にかつてあった空海再興の極楽寺の鎮守・志太張神社。祭神・天下春命は、四国讃岐にゆかりの多い神ではない。天孫降臨の邇邇芸命随伴の八意思兼神の子で、武蔵秩父国造等の祖

佐伯真空海が巣立った善通寺境内には五社明神社5柱の神は何か意味深。そして、四国よりの地域との繋がりがみえるようです。

椎名八王子宮は、詳細不明だが、神祭(椎名太刀踊り/みこし洗い)の情報からは、
奇妙な化粧の少年が祭りの脇役。「太刀踊り」は拍子木で板を叩く歌舞伎の見得に似た所作。県無形民俗文化財。「神輿洗い」は神輿が海岸から海へ入り沖にある「かなとこ岩」を目指す御神幸。
映画世界の中心で愛をさけぶの祭神・仁徳天皇の異母弟宇遅能和紀郎子命の皇子神社の祭りも神輿は船に乗るが海に出て御旅。

祭りの日程15日は共通。満月はわからん。

 

長々と見てくれてありがとう。なんとなく魂越しで見てね。もぐもぐオバケオバケオバケオバケオバケ

 

今日はこの辺で。

 

次は、紀伊半島かな。イヒ

ではまた。