イの国探検隊ファンの皆様こんにちは
 
 
 
雲井御所(くもいごしょ)です。
香川県坂出市
 
田んぼに囲われた感じの場所にひっそりとあります。
 
 
朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し、双方の力衝突に至った政変である保元の乱。
敗れた崇徳上皇が、讃岐へ流され、仮の住まいとしていた場所らしい。真顔
 
 
配流された崇徳上皇(38歳)は、1156年7月23日京を出発し、鳥羽から船で瀬戸内海を移動して直島に立ち寄り、8月10日坂出市松山の津に上陸した。
 
しかし、まだ住まいが用意されてなく、国府の目代である綾高遠(あやのたかとお)の館を修繕して仮の御所としました。
 
ここで過ごした約3年は、都を懐かしく思いこの館の柱に「ここもまたあらぬ雲井となりにけり空行く月の影にまかせて」と記したとされることから雲井御所と名付け、この地は雲井の里と言われたと伝えられているとのこと。
 
崇徳院が、「ここもまたあらぬ雲井となりにけり」と読んだのは、暗殺を予見していたんじゃないかな。
 
 
以前のブログに書いたが、余りに詳細なことが伝わっていることからも暗殺説の真実味が濃いと感じる。ガーン
 
後の朝廷側の創作と思うが、

 

 

我魔性となり王を奪って下民となし下民をとって王となし、この国に世々乱をなさん」と言い、自らの血で大乗経を書き

「この写経の功力を三悪道に投げ込み、その力をもって日本国の大魔縁とならんと言って、その経を瀬戸内海に沈めて呪詛したと言います。

 

しかし、地元の伝承や地誌では、落ち込んではいたが、穏やかにすごされたようです。
朝廷が崇徳院を恐れてあらぬ妄想をしたことから、こんな話しになったんじゃないかなと思います。
 
 
崇徳上皇の歌
「浜千鳥 跡は都へ通えども 身は松山に 音をのみぞなく」 
 
崇徳上皇としては、後の世のためを思い一心に写したお経田舎の讃岐へ置いておくのがつらく、都に近い八幡山高野山か、もし許しが得られれば鳥羽法皇の御陵に、この歌を添えて納めたいと思っていました。
しかし、京都の朝廷は、罪人の写したお経はよいお経のはずがないと送り返したそうです。
 
乱に負けたとはいえ、冷たい対応は誰しもショックだったと思う。ショボーン
田舎の讃岐は余計だと思うがえー?
 
 
鳥羽法皇らは「近衛天皇が崩御したのは、崇徳院に近い藤原頼長の呪詛(じゅそ)のせいだ」と信じていたそうです。
 
 
ま、朝廷側にしてみれば、当時の昔は、神仏を心底信じていただろうし、呪いは今にも悪い事が起こると思い相当怖かったんだと思う。

修験道の役小角、陰陽道の安倍晴明しかり、真言密教の弘法大師しかり呪術
 
もしかしたら、昔の人は現実に他の次元を感じたりすることができたのかも…グラサン
虹🌈が立つ場所には市場とか
昔のことの不思議は、現代人には分からなくてなっただけかも。
 
 
坂出市観光協会の情報などによると、
 
1835年(天保6)高松藩主第9代の松平頼恕は、聖地の所在がわからなくなっているのをなげき、場所を推定して碑「雲井御所之碑」を建て、香川郡に住んでいる綾家の子孫を探し、綾繁次郎高近に田地二町(二町歩)を 与えて当地に呼び寄せ、以後、この碑の守りを命じました。碑の傍らにその時に植えられた「ソテツ」 が大きく群生しているとのこと。
 
 
二町歩を 与えてって、20,000平方メートルだなガーン
 
 
 
 
 
 
この雲井御所で約三年過ごした後、国府のすぐ近くの鼓岡(つづみがおか)にある木ノ丸殿(このまるでん)に移られました。
 
 
 
確かに大きいソテツがあるニコ
 
 
この碑が、松平頼恕の立てた碑のようである。
 
 
 
 
崇徳上皇の守り本尊の観世音を安置した
綾高遠の子孫の林田太次郎が鰐口を納めている。
 
 
なぜ雲井なのか?
 
【雲居・雲井】くも‐い とは
「居」はすわるの意。「井」は当て字
雲のある所の高い所。大空。天上。 雲。
※古事記(712)中・歌謡「はしけやし 我家(わぎへ)の方よ 久毛韋(クモヰ)立ち来も」
●中心となるべき所からはるかに隔たった場所。遠く、または高く離れた所
※万葉(8C後)一・五二「名ぐはしき 吉野の山は 影面(かげとも)の 大き御門雲居にそ 遠くありける
皇居。宮中。また、天皇、皇室をもいう。⑤ 皇居のある所。すなわち、都。
 
 
なぜ御所に雲井と名づけたのか?
 
これらの意味が発生したことを妄想すると、
雲井とは、
雲のある高いところ
=吉野という地の山の見える皇居だが現在では遠いところになっている
と、とれる。

つまり、
「昔は天皇がいたところは雲のかかるほど高いところにあった」
 
「井」(韋)はイヨの二名島の「イ」ではないのか?


吉野川が流れるのは、阿波 徳島県
吉野の地に流れる川

天皇出自のイの国は阿波の高地性集落だった。
 
悲運な崇徳上皇、争いは醜い。

だが、なぜ讃岐に配流?

水主神社のモモソヒメも黒田の宮からうつぼ舟で讃岐に流されて来た具体的伝承がのこる。



崇徳上皇が流された雲井の御所が物語る讃岐から思うイの国
 

「万葉集」
玉藻よし 讃岐の国は 国柄か 見れども飽かぬ 神柄か ここど貴き 天地 日月とともに 満りゆかむ 神の御面と 継ぎ来る 中の水門ゆ 船浮けて わが漕ぎ来れば 時つ風 雲居に吹くに ・・・
 



「貴い神柄である国柄と継いできた讃岐だから流される地にされている」
とするのは私の行き過ぎた妄想か?
意味深
 
 
酷い妄想でした。ゲホゲホ
ではまた。