『変身』 カフカ 著 / 高橋 義孝 訳 | 今日もこむらがえり - 本と映画とお楽しみの記録 -

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備忘録としての読書日記。主に小説がメインです。その他、見た映画や美術展に関するメモなど。

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久しぶりの【思い出した時にプレイバック読書】、カフカの『変身』です。去年末くらいに何だかフゥっと、「そういえばカフカの『変身』って、昔読んだ時どんな風に感じたんだっけ・・・もう一度読んでみようかなぁ」と思いつきました。すると、不思議なことに物事って連鎖するもので、あるいは何かを気にするからそれに関連することが目につきやすくなったり、関連させて考えがちなのかもしれませんが、色んな所でカフカやその作品についての記事や他ブロガーさんが取り上げているのに偶然遭遇することが続いたので、図書館予約本の連続攻撃が一段落したので、この隙に再読してみました。

 

ある朝、グレーゴル・ザムザがなにか気がかりな夢から目をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な虫に変わっているのを発見した。

 

絵画的で美しく情緒的な宮本輝さんの『錦繍』とはまた違った意味で忘れられないインパクトを残す書出しです。朝普通に目が覚めたら突然人間が何やら巨大な虫になっているという不条理さ。しかも、原因も理由もわからず、家族も驚き恐怖するものの、その恐怖と嫌悪を”そのまま”受け入れる(何故こうなった、何が起こったと追及しようとしたり根本的な解決を求めようとはしない)って、チョイチョイチョイ、とツッコミそうになります(苦笑)。グレーゴルも、虫になってビックリショッキングー!のすぐ後に時計みて、やっべぇ汽車に乗り遅れた、次の汽車まであと15分しかない・・・さて、この状態で時間内に身支度できるだろうか・・・って、悩むのそこじゃないしΣ(゚Д゚)。普通その姿で仕事行こうとしないし。

 

この書出しの「巨大な虫に変わって」の部分については、原文のドイツ語「Ungeziefer」にそのまま当てはまる日本語が存在せず、翻訳のあて方については現在に至っても各種論争が絶えないようですが(子供の頃はクモだと教わった記憶もあります)、カフカ自身が実在する特定の種類の虫にイメージを限定されるのを嫌って敢えて”手で触るのはためらわれるほど不浄でおぞましい生物”といったニュアンスの言葉を使い、出版時にも表紙のイラストに遠景にでも虫の姿は描かないようにと強く主張したそうなので、私はこの高橋義孝さんのシンプルに「巨大な虫」とした訳がベストだと思います。

 

「虫って、いったいどんな虫なんだろう?」と、その後に続く描写や時折挿入されるグレーゴルの動きから読む側が想像を膨らませながら、外見も内面も含めて各人にとってのグレーゴル像を推測していく作業はこの小説を味わうポイントの一つだと思います。また、グレーゴル自身も、自分の全体像は自分で俯瞰できないわけで、読者に少しづつ与えれていく情報は即ちグレーゴル自身の視野であり、客観的で淡々としたレポート調の文章を読みながらも視点はグレーゴルとシンクロするような錯覚のような感覚も体感できます。

 

丸く膨らんだ腹部、うごめく無数の細い脚。背中は比較的堅く、触覚もあるようです。そして、壁や天井も自在に這い回れるような形状の脚で、かつ這った跡はネバネバした液が付着するらしいです・・・なんだか、蜘蛛とムカデとゴキブリを混ぜ合わせたような生き物を想像します。部屋の掃除や食べ物を運ぶ係の妹が部屋に入ると息を止めたまま一目散に窓に突進し、窓を開け放して顔を外に出してから一気に深呼吸する様子から、どうやら臭気も強いようです。体臭なのか、排泄物なのか、脚から出るネバネバ液なのか、それ全部が原因なのか・・・とにかくどう想像しても背筋がゾワ~っとする存在。なにせ、そういう姿だと頭ではもうわかっている上でも、改めてその姿をみた母親がおぞましさのあまりショックで気絶してしまう程です^^;。

 

いかん、虫談義だけでどこまでも続きそうです(苦笑)。ゲシュタポに迫害された時代のユダヤ人だった為に資料が少ないということもありますが、いつまでもいつまでもカフカを研究する人が存在し、また決定的な答えも存在しないというのが、この虫談義だけ取り上げてもなんだかわかるような気がしてきます。訳者の高橋義孝さんのあとがきでとても印象的だった部分を引用させていただいて、虫問題はひとまず終わりにして(ようやく)次にいきたいと思います。

 

この作品中、ことに有名な、この『変身』の「巨大な褐色の虫」は何の象徴であろうか。答えは無数にあるようだ。そしてどの答えも答えらしくは見えぬ。けだし文学とは、それ自身がすでに答えなのであるから。

 

さて、グレーゴルですが、父親が事業で失敗して破産してしまった為に、父親のこさえた莫大な借金を返済し両親と妹の家族を養う為に、ノルマが厳しいけれど稼ぎの良い外交販売員の仕事に就き、自分のお小遣いもほとんど取らずにお給料の殆どを家に入れています。仕事や社長に対して不満を感じていながらも真面目で献身的で家族想いです。あるいはリスクを背負って自我を通す度胸がないとも。

 

そんなグレーゴルに家族は当然感謝しているものの、グレーゴルがとんでもないことになって、真っ先に思ったのはこれではグレーゴルが仕事に行けない、どうしよう?でした。ところが破産してスカンピンになったと思っていたからこそグレーゴルは必死に働いていたのですが、実はちゃっかりそれなりの蓄えは残してあった上にグレーゴルから受け取るお金もちょっとづつ貯金して殖やしていました。さらに、最初は動揺しつつも憐れんだり気を使ったりしていたのに、段々と変身したグレーゴルを邪険に扱うようになり、嫌なものは見とうない、とばかりに存在を無視しはじめます。

 

そしてグレーゴルがヒトの姿をしていた時は、身体の不調をアチコチ訴え働けないか弱い家族になりきっていたのがやむなく父親は銀行の雑用夫、母親は洋裁の内職、妹も店子として働き始めると皆妙にシャキっと元気になってイキイキ。さらにグレーゴルをガラクタの山に追いやって一部屋空けて3人の紳士を下宿させます。なんていうか、よく言えば逞しい・・・自分勝手でゲンキンな家族たち。挙句に自分達の暴力のせいでグレーゴルが死んでも自戒の念なし、やれやれ、やっと解放されたとばかりに、お手伝いさんに死体処理させて皆でお休みとって郊外へルンルンお出かけ。なんとも残酷な現実。

 

この作品は現在に至るまで本当に沢山の研究がなされていて、今でも割と頻繁に様々な解釈や解説を目にする機会があります。第一次世界大戦後のヨーロッパの精神世界を蔓延した虚無や絶望、破滅、恐怖といった意識から発生した「表現主義運動」に象徴的なニヒリズムが顕著に観られるとか、人間の孤独や残酷性(場合によってはファシズムの)が表現されているとか、カフカ≒ザムザで、作家自身の分身だとか、父親との関係性とか、フロイトを持ち出したり、不眠症の危険性を説いているんだという説まで。いったいなんでカフカはこんな小説を書いたのか、何を言いたかったのかと、気になる人が本当に沢山います。

 

ところでこの小説、カフカはひょんなことから思いついたそうです。カフカのことを調べると必ず登場する友人ブロートの紹介で知り合ったフェリーチェ嬢(後に婚約します)におネツになったカフカが彼女の怒涛のラブレター攻撃をかましまくりますが、彼女からのお返事は滅多にこない(そりゃ引くわな)。手紙を書いても書いても、「お返事ください」と書いても暖簾に腕押しでフテくされちゃったカフカがある日、「よぉーし、もう、フェリーチェから手紙が届くまでこのベッドから出ないぞ!」とフテ寝を決め込んでいた時に構想を思いついたとか。え。そうなの?!( ゚Д゚)

そして、書きあがった原稿を友人たちの前で朗読して聞かせたりしたそうですが、その時カフカは自分でクスクス笑いながら読んでいたとか。このエピソードを知って、私の中で何かが「スっ」と下りました。

 

昔最初に読んだ時は、多分中学生の頃。まだ昭和の時代でしたので、今の中学生よりずっとボンヤリでノンビリな時代です(自分は特に)。「不条理」という言葉もまだ知らなかった子供の頃、こんなに有名で色んな学者さん達が研究している作品だから、難しい社会情勢や哲学や倫理や学問的なメタファーが込められた難解な作品に違いない、と思い込みから難しく考えすぎて何か微かな違和感を無理くり納得させたのですが。後に〈ラーメンズ〉や〈ジョビジョバ〉や〈ジャルジャル〉の不条理コントが大好きになる中学生時代の私がひっかかった違和感の正体が解かった気がします。カフカさん、暗くすぎて独りよがりすぎてシニカルすぎて、変に突き抜けちゃってむしろ所々コミカルですらありませんか?!|д゚) それを昔はいや、笑える話のはずがない、暗くて難解な文学作品なんだ・・・と無意識に自分に言い聞かせて感覚をセーブしていたような気がします(笑)。

 

小学生の頃、退屈な授業中にノートをちぎったメモに書いた手紙を教室の友達の間で回し読みするのが流行って、そのメモのハートや苺やリボンなど可愛い複雑な折り方もまた流行りましたが、とある嫌われ者で授業が退屈で〇△□(覚えていませんが取りあえず失礼なあだ名)と陰で呼ばれていた先生の授業中に、かといって友達への連絡事項も尽きた私は退屈しのぎに「実は〇△□は、宇宙人だったのです」に始まるショートストーリーを、その先生の似顔絵の挿絵付きで書いて回したらこれが大ウケ。「続きを書いて」「もっと書いて」と乗せられるがままに、当時みんなの間で流行っていたコバルト文庫的なSFファンタジーや学園もののナンチャッテ小説を何作か書いてホチキス止めの製本にしてクラスで回し読みしてもらったのを思い出しました。今思うと授業中に教師をおちょくる小説を書いて回すなんて、タチの悪い生徒です。しかも表向き大人しい優等生のツラ被ってるんだからたまりませんよね・・・先生、ごめんなさい(苦笑)。

 

小学生の悪ふざけの駄文と人類史に残る文学作品を残したカフカを同じレベルで語るつもりは勿論、毛頭ありませんが、でも、あっそうか。と何か合点のいく思いがしたのです。だって、大好きなフェリーチェちゃんがお返事くれないよーイジイジぐっすんとふて寝してた時に思いついた話ですよ?このまま、彼女から手紙がずっと届かずベッドで寝続けていたら根が生えちゃったりして。もしくは餓死してミイラになっちゃうとか。夏だったら暑くて溶けちゃうかも。心配して何日か後に誰かが様子を見に来たら、何か別の生き物に変身しちゃってたら、自分の非情さをフェリーチェはちょっとは後悔するかもね・・・どんな生き物がいいかな、彼女がうんと後悔するよう、どうせならゾっとするようなおぞましいヤツがいいな。でも実際そうなっちゃったら、その後はどうなるんだろう。家族はどう反応するかな、仕事は・・・おっなんかこれ小説にしたら面白いかも?・・・と、いうことだったかどうかは知る由もありませんが、勝手に失礼な想像してみたらちょっと楽しくなってきちゃいました。ごめんなさい(;´・ω・)。

 

そんな思い付きがきっかけだったから、深い意味がない、笑える話なんだと言いたい分けでは決してなくてですね。何が言いたいかというと、どんな物語も、一番最初のきっかけはほんのちょっとしたことだったかもしれないということ。勿論、最初から「よし、とんでもなく壮大なものを書くぞ」「生命の神秘を解き明かすような大作を書くんだ」という目標設定から始まるケースもあるでしょうが、『変身』の場合は、恐らく、ふと思いついた構想が気に入って、それをどう料理しようかと膨らましていったのであれば、最初から父親の威圧が及ぼす屈折を盛り込もうとか、人間の残酷性を暴いてやるとか、後から言われるようなことを狙って書いたというよりは、書いたものに当然の結果としてカフカの人間性や経験、価値観が投影されて、それを他人が分析しようとすると色々な解釈が可能であった、ということではないかと。

だから、小説の読み方なんて、自由でいいんだ。すでに多くの人が様々な解釈や解説を披露してくれていても、それに縛られず自分なりに自由に楽しめばいいんだな、というわかっているつもりのことに改めて気がついた気がするのです。上手く説明できないくて自分の文章力に絶望を感じておりますが(苦笑)。なんて後ろ向きで投げやりで、暗いんだカフカさんよ~真面目に暗すぎて、逆に面白いんだけど。これって、狙って書いたのか、真面目の結果がオモロなのか。「フフフ、こうしてこうして、こうしてやろう。うわーい面白い」と自分で陰々とニヤけながらウケ狙って書いたとしてもそれはそれでコワイけど。笑いが暗すぎて・・・とか、急に馴れ馴れしい気分になる私(苦笑)。

ちょっと(いやダイブ・・・かな)力の抜けた楽しみ方もアリなんだと思ったら、途端にそれまでの何倍も興味深く実在性をもってカフカの存在を意識するようになりました。地味で手堅い公務員の仕事をしながら小説家を目指したカフカ、『変身』の初稿から出版までなんだかんだで3年もかかりながら「ちゃんと精査する時間のないまま出版になってしまった。全然満足いかない」とか言っちゃうカフカ。一方的な想いを貫いてまんまと婚約にこぎつけておきながら「でも、幸せになっちゃったら腑抜けて小説書けなくなっちゃうかも」と不安になって自分から婚約解消しちゃうカフカ。つい研究したくなっちゃう気持ちがわかります。カフカがこんなに興味深く面白い人だったとは。本屋さんで片っ端からカフカ本を買い占めそうな今日この頃です( *´艸`)。

グレーゴルが変身した虫の外見も、小説の内容も、自由に幾通りもの解釈をして楽しめばいいんだ、そのどれもが正解ではないかもしれないけれど、全てがその時々の自分にとっての正解なんだと納得したところで、今日もまたブログ友達きょんきょんさんの記事をご紹介させて頂きます。この↓記事の中できょんきょんさんは「変身したのは主人公グレーゴルではなく家族の方ではないか」という解釈をされていて、ナルホド、それもあるなぁと感心させられました^^。


 

ちょっと内容を確認する程度の軽い気持ちで頁を開いた『変身』でしたが、思った以上に興味をそそられてしまいましたので、ついついアレモコレモ書いておきたいことが増えすぎて(これでも色々削っていたりして・・・^^;)、恐ろしく冗漫なBlogになってしまい、すみません。こんな長い記事を最後までお読み頂き、ありがとうございました。<(_ _)>