創作ラボ2 -728ページ目

ベンジャミン・バトン 原作と映画



創作ラボ2-ビェンジャミンバトン


スコット・フィッツジェラルドの原作と映画がどういうふうに違うのかが、興味がありました。

原作は短編なのですが、映画は、超大作です。


ベンジャミンは老人として生まれ、歳を重ねるにしたがって、若くなっていくという設定です。


最期は赤ん坊になって、新生児の状態で死亡します。

奇想天外な物語ですが、こういう物語をスコット・フィッツジェラルドが書いていたということも、ちょっとした驚きです。

原作と映画では、ずいぶんと設定が違っています。


まず、ベンジャミンの妻となる女性の名前が『デイジー』となっていることです。原作ではデイジーではありません。

デイジーといえば、スコット・フィッツジェラルドの代表作の『グレート・ギャツビー』で、主人公のギャツビーが慕い続けていた女性がデイジーです。

映画の中で、デイジーはバレリーナーということになっているのですが、これは、スコット・フィッツジェラルドの妻のゼルダを思い起こさせます。

ゼルダはバレーに心酔していました。 


この映画は、奇妙な一人の男の人生を描いた叙事詩です。 


映画の冒頭は、老女となったデイジーが病室で娘に一冊の本を読んでもらうシーンから始まります。

このシーンは、クリント・イーストウッド主演の『マディソン郡の橋』を思い起こさせました。

そして、悲しい哀愁の漂うファンタジーの、『エレファントマン』を思い起こさせもしました。

映画の『ベンジャミン・バトン』は映像の美しさに驚かされます。

屋外のロケのシーンは、天候によって、理想的な絵が取れない場合は、何度も撮り直していると思われるので、かなりの時間がかかったと思います。

屋外のロケは自然の状態の絵ばかりを撮っているのではなくて、デジタル技術も使っているようです。

特殊メイクで老人になったブラット・ピットの頭と、別人の同体を合成しているということです。

その合成の映像はとても自然に見えるので、実際に存在する人物を使っているかのようです。

ハリウッド映画の大活劇のような派手なアクションとかはないのですが、心に沁み入る名作です。 

晩年のスコット・フィッツジェラルドはハリウッドで映画の脚本を書いていたようですが、自身の死後の70年後に、『ベンジャミン・バトン』が映画化され、超大作として話題になるとは思ってもみなかっただろうと思います。

脚本家としの彼は、あまり評価されなかったのですが、もし、彼がこの作品の脚本を書いたらどういう映画になっていたのでしょう。



最大の犠牲者

何日も、何週間も、何か月も、話し合った。


穏やかな声ばかりではなく、感情が高ぶる声の日もあった。


そして、二人とも疲労困憊し、結論にたどりついた。


「おとうさんと、おかあさんは離婚するんだ」と、9歳の娘に、私は言った。


娘は、この世が終わってしまったかのように泣きじゃくった。


離婚の最大の犠牲者は、子供なのだ。

上から降りてくる

自分の内側、あるいは、頭の中のどこかにある、言葉の集積場から、使用目的に適ったサイズの言葉を探し出してきて、言葉はつなげられ、一つの文章になるのだろうと、ふつに、そう思ってしまう。


でも、そうではないんだと、キーボードを打つ指先が語ることがあるように思う。


言葉は、内側にあるのではなくて、外にあるんだと指先が語る。


「外?それは、どこ?」と、私は、指先に尋ねてみた。


すると、右手の人差し指は、まっすぐ上に向けられた。


なるほど、上から降りてくるんだと、納得した。



50枚の短編

400字詰め原稿用紙にして、50枚程度の短編小説の第一稿を昨日脱稿しました。


1か月ほど寝かして、加筆訂正をします。


この短編は、某所のコンテストに応募する予定です。


50枚ですが、小説を書くとなると、なかなか苦しいものです。


50枚というのは、さほど短くもなく、もちろん、長編のようには長くはないのですが、作品の中のどの部分の描写に稿を割くか、あるいは数行に収めてしまうのか、というバランス配分が難しい。


なぜ、小説を書いてみようと思ったかというと、数年前に、おそらく、4年ほど前に、某出版社のコンテストにはじめてエッセイのようなものを書いて応募したところ、奨励賞をいただき、自分の文章はそこそこ、人に読ませても恥をかかない程度のものだろうと思い、それなら、小説はどうだろうと、思い立ち、ほどよい程度の長さのコンテストを見つけて、応募しようと決意したというのが事の顛末です。


100枚とか200枚となると、パソコンの前で頭を抱えて苦しむ時間が長くなりそうだけど、50枚なら、苦しむ時間も少なくてすむだろうと、いたって安穏と構えていたのですが、やはり、創作というのは、その長さにかかわらず苦しいものです。


過去を振り返ってみると、『群像』の一次選考通過と、『コバルトノベル』の一次選考に3回通過と、『アウト・ライダー』の一次選考に通過したのが、小説の戦績です。


どれもこれも、一次予選通過止まりです。


いずれは、きちんと紙に印刷して本の形で出版できればと、日々思うのみです。




不幸自慢?

「父親が突然倒れた。


子供は、ひきこもりになった。


おまけに、リストラされてしまった。」


と、彼が言った。



「君がトラブルをいくつも抱えているのは分かった。それで、僕に何ができる?」


彼は何も答えなかった。


結局、彼は、自分の不幸を自慢しているだけだった。