立っている場所
衣食住足りて、安全であることは、当たり前である環境に我々は暮らしている。
戦争をしている国もあるし、飢えている国もある。
我々は自分たちが恵まれた環境にあるとは考えない。
なぜなら、自分たちがいる環境は、“当たり前”だから。
立っている場所の違うものを理解できるはずもない。
今日も無事に生きていることに感謝する気持ちだけは持ち続けたい。
知りたくもないのに
自分には、あまりそういうものはないと思っていたけれど、少し感じてしまう。
誰かを見て、この人は何かありそうだと感じてしまう。
目がおかしい。行動がおかしい。身体全体から不気味さが漂う。
その人が去ってから、その人の噂を聞く。
やはり、自分が感じていたことは正しかった。
その人は、普通の人が持っているものとは、違う価値観の中にいた。
この自分の感覚がだいたい当たってしまうので、怖いと思うこともある。
もっと感覚の強い人は、自分の感覚をどのように制御しているのだろうか。
知りたくもないことが分かり、見たくもないものが見えてしまう。
そういうのは、遠慮したい。
最期に会いたい人
「ユウコに会いたい」
彼は、喉の奥から絞り出すように、かすれた声で言った。
家族には、ユウコという名の者はいなかった。
二日後に彼は息を引き取り、葬儀が行われた。
弔問者の記帳の中に、『島田裕子』という名前があった。
喪主である彼の妻は彼女が誰であるのか分からなかった。
一ヶ月後、彼の遺品を整理している時、妻は、彼の高校の卒業アルバムの中に、『町田裕子』という名前を見つけた。
町田という姓が、島田の旧姓であることは彼女はすぐに分かった。
ワルツはわたしと ゼルダ・フィッツジェラルド
ゼルダ・フィッツジェラルドの、『ワルツはわたしと』を読みました。
かなりの長編です。
しかし、ゼルダはこの長編の第一稿をわずか二か月程度で書いています。この作品は、ゼルダが、『統合失調症』の治療のために、病院に入院している時に書かれたものだと思われます。
正常な精神状態ではないのにもかかわらず、これだけの長さの作品が書けたということには驚くのですが、やはり、物語としてはまとまりがなく構成もいびつで、思いついたことを書いているだけという印象を受けます。
物語の時系列に関係なく、エピソードが挿入されることが多く、読者は、このシーンは、いったい何時の時代のどういうシーンなのかということが分からなくなります。
物語の場面のジャンプが頻繁に起こっていて、会話にしても、誰が話しているのか分からないシーンもあって、読者は、作者の意識の流れから置いてけぼりになります。
物語は、ゼルダの少女時代から、結婚して、バレーのレッスンを受け、身も心もすっかりバレー漬けになっていく様が描かれているのですが、ほとんどこれは、実体験にもとずいたもので、フィクションというよりは、実話に近いものではないかと思われます。
ゼルダの翻訳作品は、おそらく、『ゼルダ・フィッツジェラルド全作品』(新潮社)のみだろうと思います。
ゼルダを知るためにはたいへん貴重な作品集です。
長編小説の他に、戯曲、エッセイも編集されているので、順次読んでいきます。