創作ラボ2 -682ページ目

本を聞く

デジタルブックの端末はどういうことができるのだろうか。


活字を記録して、それを読むだけなのだろうか。


もし、文章を読みあげてくれれるのであれば、活字を読むよりは、より多くの本を、労せずして頭の中に入れることができる。


紙に印刷された活字を読むのは、脳の全体を使用するし、時間もかかって、疲労してしまう。


だから、あまり多くの本を読むことができない。


もちろん、自分が読むスピードが遅いだけかも知れない。


音声で読んでくれるのであればとても楽だろうと思う。


頭のいろんな部分を活動させて、集中して読む必要はないだろう。


ぼんやりとした意識で、リラックスして聞いていればいい。


聞いているのだから、本を読んだと表現しては不正確だろうと思う。


本を読んだというのではなくて、これからは、本を聞いたと普通に表現することもありえるだろうと思う。

非可逆的

一年前からその日を待っていた。


心の準備もきちんとできていた。


天候も問題ない。


体調も万全だった。


ただ一つ大きな問題があった。


その日は仕事を休むことができなかった。


ほんとは、休めるはずだった。


悔やんでも悔やみきれない。


時間は非可逆的。


その日は二度と戻ってこない。





因果応報

与謝野源氏物語は、第四巻の、『鈴虫』まで読み進めています。


光源氏は継母の藤壺と密通し、不義の子供が生まれる。


光源氏の正妻である女三宮は、柏木と密通して不義の子を生む。


光源氏は自分の行いの結果として、妻が密通してしまう。


これが因果応報というものだろう。


いくら物語だといっても、不道徳な非人道的な行為をしたものが幸福に暮らせるということがあってはならない。


女三宮と密通した柏木は原因がよく分からない病になって死亡する。


これで、読者は納得するのかも知れない。


密通して不義の子を生ませた結果が自分の死だった。

縁は薄くても

確かに、可能性としては、限りはない。


しかし、人との出会いは限りあるもの。


人との出会いは偶然ではなく縁というもの。


自分の行動半径の中にどれだけの人がいるか分からない。


その中で、出会う人は限られている。


会うことがなければ、その人は、実在してはいるけど、自分の人生の中では存在していない。


一度出会って、もう一度会いたいと思っても、会えない人。


縁が薄いのだろうか。


それでも、再び会える日を願い続ける。








美しい日本語の文章とは

川端康成の、『古都』を少し読んでみた。


美しい日本語というのは、あらためて、読みやすいということに気づく。


あまりにも読みやすいから、これでいいのだろうかと思ってしまう。


文学は、文章にスジと骨があるべきだと思っている。


すらすらと読めてしまうと、文学ではないと思ってしまう。


前にすすんだり、後ろに戻ったりしながら、暗喩の意味を考えながら読むものが文学だと思ってしまう。


意味の分からない長い文章を連ねるのが文学ではなくて、分かりやすい文章を適切な長さで書くのが文学なのかも知れない。


美しい日本語は平易でやさしいものなのかも知れない。