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「あまちゃん」 入れ替わりと折り畳みの物語




なぜ、「あまちゃん」は面白いか、インドの山奥ではなく、秩父の山奥を自転車で走りながら考えました。 まだ、来週の311以後の展開を見ていないので、これからどんな仕掛けがあるかわからないのですが、ここまでのところで。


このドラマは、現在と1980年代の二つの時間、東京と北三陸の二つの場所の4通り組み合わせの舞台で物語が行ったり来たりすることには、すぐ気が付きます。これが、ノスタルジー、都会と田舎、などの、いろいろな感情を呼び起こします。


NHK朝ドラの定石どおり、主役は女性です。主な女性登場人物はこの5人です。


天野あき

天野春子

天野夏

足立ユイ

鈴鹿ひろ美


この5人の人物の間では頻繁に「入れ替わり」が起こります。例を挙げていくと、


まず、実際にお話しのなかで入れ替わる例


 天野春子が鈴鹿ひろ美の歌を入れ替わり

 天野あきが足立ゆいに入れ替わって東京でアイドルに

 鈴鹿ひろ美が天野春子の代わりに天野あきのマンションに同居


フラッシュバックなどの演出で入れ替わりにみせる例


 天野あきが天野春子(80年代)のかわりに「潮騒のメモリー」を歌う

 天野春子が天野あきのかわりに(お手本)として「潮騒のメモリー」を歌う

 鈴鹿ひろ美が天野夏であるように映画「潮騒のメモリー」撮影中に天野あきが感じる

 


天野あきが、天野春子の果たせなかった夢を実現する、というのは物語の柱なので、二人の入れ替わりが演出で多用されるのは当然なのですが、そのほかの組み合わせでも女性同士の入れ替わりが多用されています。


また天野春子と天野夏は、過去と現在を別の女優さんが演じていて、この入れ替わり演出(特に天野春子)の効果を高めています。


全体として、4つの時空で5人の女性が入れ替わりあっていくことで、物語が重層化、複雑化して、楽しめるポイントが増えていると思います。



ではこの5人の女性の物語を簡単に要約してみましょう。(8月末までの放送分だけです。)


天野夏の物語:

北三陸に生まれ、橋幸夫にあこがれ歌をうたったこともあった。その後、海女クラブを結成し、地元でずっと海女として暮らしてきた。


天野春子の物語:

天野夏の娘として北三陸にうまれるが、地元でのアイドルにはならずに東京に家出し、アイドルを目指すが挫折し、結婚する。 二十数年ぶりに北三陸の天野夏のところへ帰ってくる。


天野あきの物語:

天野春子の娘として東京に生まれるが、地味な性格になる。北三陸にやってきたことで、地元アイドルになり、ついに東京に戻り、映画主演まで果たす。


鈴鹿ひろ美の物語:

アイドル・デビュー曲がこっそり天野春子に吹き替えで出されてヒットする。その後、女優になり大成し、天野あきの映画デビューを助ける。


足立ユイの物語:

北三陸に生まれ、東京でアイドルとしてデビューすることを夢見てきて、地元アイドルとして人気が出るが、東京でのデビューには失敗し、一時ぐれる。親友天野あきが代わりに東京デビュー。



こうやって並べてみると、5人の物語はどれも歌手・アイドルをめざし、なにか障害につきあたり、それが素直には実現しない。というパターンであることがわかります。また鈴鹿ひろ美以外は「地方から東京へ出る」ということが重要なモチーフになっています。


この「地方出身の女性が、ある分野で、苦労しながら、何かを成し遂げる半生の物語」というのはNHKの朝ドラの伝統的な定番プロットです。最近はそういう大時代な設定のは少ないですが、昔は大体これに戦争とかがからんで「明治大正昭和をいきた女の一生」みたいなのが多かったのです。


このNHK朝ドラの大定番プロットが5人分入っているので、5倍面白いのかもしれません。(そんな単純な話かよ。)


では試みにこの5人の物語が一人の物語だとするとどうなるでしょう。


(仮題)天野冬実の物語


天野冬実は北三陸に生まれ、幼いころから歌うことが大好きであった。あるときふとしたきっかけから、有名歌手に見いだされ、家業の海女をやりながら練習を重ね、ついに「スター誕生」で勝ち抜きレコードデビューを果たす。その後、歌についていろいろ思い悩み、ヒットも出ず、苦悩するが、結婚して、プロデューサーの夫細巻と共に女優としての再デビューに挑戦しついに「潮騒のメモリー」で女優として成功する。やがて冬実と夫細巻の間に娘奈津美が生まれる。少女となった奈津美はぐれてヤンキーとなるが、ふとしたきっかけで冬実の故郷北三陸で生活することになり、海女を始める。そんな奈津子に地元アイドルになる機会がおとずれ、やがてそれは彼女を東京の芸能界へと導いていく。そして、ついに奈津子と冬実は「潮騒のメモリー 母娘の島」で共演することになったのであった。そしてエンディングは母娘で歌う「潮騒のメモリー」であった。


こうやってつなげるとまさにNHK朝ドラの大定番の女の一代記になるのです。


つまり、「あまちゃん」は伝統的朝ドラ物語を五つに分割して折りたたんだ物語なのです。その折りたたみ点をつなぐために五人の女性の「入れ替わり」が必要だったのです。恐るべし宮藤官九郎。

秩父 有間峠 に スイートンはなかった

今日は、暑いので、さくっと涼しい峠だけ走ろう、ということで、自転車をもって西武レッドアロー号で秩父駅まで直行。



秩父駅には立派なお土産屋さんの商店街があります。名物わらじかつ丼の店も。

駅前から少し三峰口方向に走って、途中の浦山ダムへの道を左折します。ここからダムまでちょっと登ります。


ダム到着。ちょっと曇ってますが、いい天気です。このあたりはまだ暑いです。

この車を三回回すと恋の望みがかなうそうです。一回しか回さなかったのでかないません。

しばらく行くとこんな不気味なトンネルが....中は涼しかったです。



トンネルの向こうにはこんな異世界が.....

夜、絶対ここ通りたくないです。

何がなんだかわかりません。不安です。
この村を抜けると今日の登りが始まります。


こんな感じの林の中を途中までは川沿いに登っていきます。段々涼しくなってきます。ちょっと裏ヤビツ峠に似たしずかな道です。途中にキャンプ場や釣り場があるところも似ています。

ちょっと路面は荒れていて、石とか穴とかあるので注意していきます。大体平均7%ぐらいの斜度を10キロぐらい登っていきます。ゆっくり登ったので楽でした。

途中でランドナーの人を一人追い抜き、降りてくるロードバイク2人とすれ違いました。自転車乗りも少ないです。車とバイクもたまに通りますが、基本的には静かな道です。


途中のカーブミラーでセルフ記念写真。

有間峠(標高 1100mぐらい)到着! 遠くの山が見えます。丁度反対側から上がってきたMTBの3人組に会いました。ごついタイヤに前後サス付のオフロード車で、オフロードのコースに来たのにがけ崩れで通れなかったのでここまで登ってきたそうです。

3人が降りていってから、私も反対側におります。

この峠は飯能側のほうが斜度がきつくて平均10%みたいです。7キロぐらい。こっちも道は荒れているので、下りは特に危険なのでゆっくり注意しております。


有間ダムの湖まで降りてきましたが、通常の左岸コースが通行止めで対岸が迂回路になってました。対岸からがけ崩れが見えました。かなり大規模に道路の上の法面が崩壊してしまっています。最近のゲリラ豪雨のせいでしょうか?


有間ダム到着。ここまでは以前何回か成木街道から登ってきたことあります。


ダムの下の売店でおやつをいただいて、秩父駅で買った絵葉書を書きました。最近、あまり絵葉書売ってないんですね。この秩父のお祭りのものしか売ってなかったです。

成木街道を飯能までのんびり走ります。

途中で飯能銘菓の四里餅(しりもち)をお土産に買いました。この餡入りの平べったい御餅は柔らかくておいしかったです。買った日に食べないといけないようです。人気なのですぐ売り切れるそうです。今日は3時半ごろだったのでまだありました。

この後、飯能のB級グルメ「飯能スイートン」なるものを食べようと店を2件探したのですが時間が中途半端な4時ごろだったので開いてなかったです。残念。


止むを得ず、飯能駅前の「餃子の満州」でビールと餃子レバニラ定食。
もう4時なのに昼飯食べてなかった。

この後、飯能から西武の急行に乗り、石神井公園で同じホームで「中華街行」に乗り換えるとなんとそのまま東急学芸大までそのまま帰れる。便利になったものです。

今日は、絵葉書を買ってだす、B級グルメのスイートンを食べる、宮沢湖の温泉に入る、という三つのサブミッションを設定したのですが、絵葉書以外できなかったです。峠ごえをしなければできたかも。

本日の走行距離は72キロ。

コースは

有間峠(秩父ー>飯能) (Garmin Connect)



















「キケン」 有川浩

「機械制御研究部」という大学のサークルの物語。わりとありがちなストーリーで、すぐアニメの脚本に使えそうです。でも、ちょっと仕掛けがあって、あー、青春だ、と最後にちょっときます。


自分のことをいろいろ思い出しました。まだ大学紛争の最後のひと暴れが残っていた70年代後半、大学にはいってすぐ、なぜか「アマチュア無線部」「ギター部」「SF研究会」の3つに入ってしまいました。


この三つのうち「無線部」がちょっとこの「キケン」に似ていて、文化会系なのに、きびしい上下関係、合法すれすれの活動でした。サークル棟の分電盤から、直接、勝手に電源配線増設したり、電波法適合状況があいまいな高出力送信機を持っていたり、 当時まだできたばっかりの「マイコン研究会」とメンバーの取り合いになったり、と、なんか雰囲気似てました。


結局、なんか雰囲気が私は合わなかったので、夏休み前に、「無線部」は辞めてしまいました。


「ギター部」は全然上手にならなかったですが、なんとか3年までつづけて引退。


「SF研」はなんとなぜか創立メンバーで、当時の仲間とはいまでもおつきあいがあります。まだ「オタク」という言葉がつかわれるようになる遥か前、です。


こう思い出すと、いろいろ手を出すが、何も極められない、よく言えば、幅広い、要するに中途半端な人格というのはこのころにすでに形成されていたのがよくわかります。 


この20歳前後のいろんなこと、というのは、その頃はつまらない、くだらないと思ったことが一杯あるのですが、後になると、大事なことだったのだと思うのです。


で、この「キケン」もそれが本当のテーマみたいです。